36日目『身体的ダメージ心的ダメージ』
俺はパーカーの襟元を掴み上げられながら必死に救援を求めた。眼前には鬼神のごとき眼光を放つ常勝のヒューマン兵器が、そのわななく拳を振り上げている。
この場で唯一彼女を止められる人物を探す。もはや俺は同じく被害者であろう少女に助けを請うしか他に道はなかった。
視界の右端に膝を抱えてうずくまる人影を捕らえた。一縷の望みを賭けて呼びかける。
「片瀬さん!頼むから助けて……!」
「……みやくんに見られた……霧宮君に見られた……霧宮君に見られた……霧宮君に……」
駄目だ。終わった。
片瀬はぶつぶつと何かを呟きながら、人差し指で地面に円を描くことに夢中だった。
万事休す。
「ねぇ秋人、どこから殴られたい?頭?顔?おなか?それとも」
鬼婆のような形相が、一転して聖母のように柔和な顔つきに変わった。その後光さえ射して見える彼女の口からは、子供を諭す母親を髣髴とさせる声で、その雰囲気と真逆の恐ろしい呪詛が紡がれる。
「どこももう殴られてるわ!やめろ瑞穂!この暴力マシーン!」
「あれ?何でそんな口の利き方するの?秋人ってMだっけ?」
これだ。本気で怒った瑞穂は優しい口調で猫なで声なのだ。俺の中で往年から積み重ねられてきたこの恐怖は、何物にも代え難いトラウマとして肺腑に植えつけられてきた。
綾崎瑞穂という秀麗な外見に篭絡されている輩は、この声を聞いただけで腰砕けになるだろうが、俺の場合は違った意味で卒倒もんだった。
世界一恐ろしい微笑みを湛えた彼女はなおも攻撃の手を休めない。
「やっ!やめっ!い、痛い!股間は、はんそ…………ッ!」
瑞穂の膝が俺の脚の付け根にクリーンヒットする。その天を突こうかという一撃に、俺の心と同じくらい繊細である器官が耐えようはずもなかった。
俺は男の大事なところを押さえてその場にうずくまった。内臓が無理やり上方に押しやられるような激痛が、脈動とともにどくんどくんと襲い掛かってくる。あまりの痛みに額からは脂汗が滲み、口からはよだれが垂れ流しになっている。
――ジャンプ、ジャンプしなきゃ……
悶絶する中で、本能があるいは身体に刷り込まれた苦汁がそう告げていた。
しかし全身タコ殴りにされ満身創痍の俺は、立ち上がることはおろか、顔を上げ俺の身体を蹂躙した歴戦の古強者を睨むことすら叶わず、地にひれ伏すのであった。
「ごめんってさっきから謝ってるじゃない」
「ごめんで済むかぁぁぁ!危うく俺のが使い物にならなくなるとこだったんだぞ!」
「それは困る、けど……」
「困るのは俺だぁぁぁ!何で元凶のお前が困る!」
「それは……」
俺と片瀬の前に立たされた瑞穂は、やや拗ねた感じで居心地悪そうに羽織っているパーカーの裾をもじもじと弄っている。
散々理不尽な暴力を振るわれた俺の虫の居所は悪い。ここぞとばかりに瑞穂を怒鳴りつける。
「だいたいなんだ?俺がせかせか働いてるってのに遊んでやがって。それも全裸で」
「うっ」
「あまつさえ嫌がる片瀬さんを脱がせようとして。それも全裸で」
「ううっ」
「それを偶然目撃した俺はノゾキか?水着をわざわざ脱いで全裸で遊んでる裸族を見た俺は!」
「そんなに全裸全裸言わないでよぉ……」
瑞穂は羞恥と罪悪感のためか少し涙目になりつつも、反抗の色を隠さない。
「裸を見た俺も悪かったけど、今回ばかりはお前が悪い。ちゃんと反省して――」
「まぁまぁ霧宮君もこのくらいにしましょう。私は……うん、怒ってはいませんし、綾崎先輩も反省しているし。普通裸見られたら女の子は恥ずかしいものですから、瑞穂先輩の気持ちもわかってあげてください」
「緋那ちゃん……」
片瀬が瑞穂のフォローに入ってこの話は終わりにしましょうと調停役を買って出る。しかし瑞穂はこれ幸いと片瀬の言に便乗してきた。
「そうよそうよ。秋人はノゾキの常習犯なんだから、前みたいにノゾかれたって思っても仕方ないじゃない」
「え!?まさか霧宮君、以前にノゾキを働いたことあるんですか…?」
片瀬の軽蔑のこもった冷たい眼差しが俺を貫く。
「違うっ!断じて違う!ノゾいたことなんて一度もない!前回も今回も悪気は全くない」
確かに過去に瑞穂の入っている風呂にそうとは知らずお邪魔したことはあるが、俺の過失は問われるにしてもワザとではない。死地に自ら率先して飛び込むなど、草食動物のすることではないからだ。
「あらどーかしら。あのときお風呂場に、秋人裸で突貫してきたじゃない」
「き、霧宮君がそんな人だったなんて……」
「待ってくれ片瀬さん!誤解だ!誤解なんだ!瑞穂もデタラメ言うなよっ!」
「デタラメェ?ついこの前のことも忘れちゃったの?」
「つい……。この前……」
「だぁぁぁぁぁぁぁぁ!!瑞穂!お願いだから勘弁してくれ!」
「かんべん?ってことはノゾキだったって認めるの?」
「霧宮秋人君……」
「ちっがぁぁぁぁぁぁう!片瀬さんもフルネームで呼ばないで」
瑞穂の反撃により、片瀬の中での俺の株は急激な下落に陥った。この後片瀬の誤解を解くのに大変な労力と時間を割いたことは想像に難くないだろう。
瑞穂に切れるカードを握らせすぎたことは自分にとって最大の損失であり、ここにきて再度、彼女を不倶戴天の、しかし極力歯向かってはならない敵と認識せざるを得なかった。
33話からこのお話までで一話のようです。
ようですって書いたのは私なのですが(汗
次話から進展します