35日目『時よ』
小川が流れる方向とは逆に歩みを進めていく。それもずいぶんと早足で。額から流れ落ちる汗が目に染みる。ビーチサンダルの鼻緒が痛い。
俺は焦っていた。早く。速く。
有紗先輩への憤りをぶつけるように地を踏みしめながらも懸命に歩く。
そう。有紗先輩のせいで俺は焦っているのだ。
遡ること十数分前――。
瑞穂たちを残し、俺は炎天下の中釣りに勤しむ倉本姉弟に命の水を届けるべく、一人浜辺に向かった。二人分の胸の感触に鼻を伸ばしていたのがばれて、いたたまれなかったことも一因であることも付記したい。
それはともかくとして、滝つぼから流れ出る一本の小川を辿ったわけだが、これが見事、俺たちが昨日遊んでいた浜辺と、片瀬の別荘を挟んだ反対側に通じていた。倉本姉弟はそこからそう遠くない岩場にビーチパラソルを設営して釣りをしていた。
案の定二人のスポーツドリンクは空になっていて、二人とも暑さのためか口数も少なかった。あの元気の塊みたいな有紗先輩のダレた姿など想像だにしていなかったので、珍獣を見に来た動物園の客のような視線を送ったら睨まれた。その顔すらも怖くなかったが。
そんな状態でも、どこからか持ってきた青いバケツの中にはすでに魚が大量に入っていて、これでも少ないほうだというのだからすごいものだ。あの姉弟は何をやらさせても人並み以上なのだろう。
俺は小川を辿った先に滝があることを告げ、持ってきた三本のペットボトルを渡すと、司が一本、有紗先輩が二本、瞬く間に飲み干してしまった。俺の手からボトルを奪うときの目なんかは血に飢えた猛獣のようで、一瞬たじろいでしまった。
そして有紗先輩は空のペットボトル五本を俺につきつけってこう言った。
――マッハで汲んできなさい。じゃないと秋人っちの分の魚は無し、と。
俺はため息をつきながらナップサックを背負いなおした。空のペットボトルが中で軽い音を立てる。普段なら軽い荷物のほうが嬉しいのだろうが、今はペットボトルの中身が満タンであってほしかった。
「俺だって疲れてるのに。のど渇いてるのに」
有紗先輩の人使いはあんまりにもあんまりだった。司の哀れみの篭った、しかし決して手を差し伸べようとはしない瞳が憎らしい。
「……っと……めてくださ……」
水場までもう少しというところで、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「いいでしょぉ?ほぉら、早くしないと秋人戻ってきちゃうよ」
「だ、だからじゃないですかっ!綾崎先輩もはやく来てくださいっ」
――瑞穂のヤツ、片瀬と何してんだ?
来てとかどうとか、あの二人は俺に黙って何をしているのだろう。
まあ何にせよ、こっちは下男よろしくこき使われてるっていうのに、二人仲良く遊んでいるとは許しがたし。
俺は疲れもあってか、二人が遊んでいると思うと無性に腹が立って仕方なかった。
俺は眉間にしわを寄せながらさらに足早にずんずんと進んでいく。
「もー、往生際が悪いんだから。えいっ!」
「あっ!ちょっ……」
「お前ら!なに遊んでんだ……よ」
林を抜けてちょうど木の陰から顔を出すと、二人は水の上で組んずほぐれずの攻防戦を繰り広げていた。瑞穂が片瀬を後ろから羽交い絞めにし、片瀬がそこから抜け出そうと必死にもがいている格好だ。
「なっ!秋人!」
「きゃ!」
「……は?」
ただし二人とも裸で。
時が止まった。
実際に止まるはずなどないが、確かにここにいる三人の時は止まったのだ。
動かない。動けない。いや、正確に言うなら動きたくない、か。
瑞穂は文字通り素っ裸で布切れ一つ身に着けておらず、片瀬は胸と腰をわずかに覆うだけのセパレーツ型の女性用海水着――つまりビキニの胸の部分を瑞穂に鷲掴みにされた状態で固まっていた。
――「キて」って着衣のほうかよ……
なんにせよ俺は目の前の光景から目を逸らせなかったし、この後の展開を考えると、恐ろしくて身動きひとつできなかった。
ああ、できるならこのまま時よ永遠に――
「いっ、いっ、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
「あ、秋人は後ろ向いてってば!」
「はいぃぃぃぃ!」
片瀬の悲鳴が森にこだまし、瑞穂の怒号が俺を射抜き、俺の狼狽がこの後の結末を静かに暗示していた。
緋砂島編も11話目とずいぶん長くなってしまいました。もう少し短くしたかったのですが…。これも筆力の問題ですね(汗
それなのにクライマックスまでもうすこしあります。気長にお付き合いいただければ幸いです。
現在外は大雪。季節感まるでなし!