33日目『水、水、みず』
「ねぇー!秋人どこー?」
鬱蒼と茂る亜熱帯降雨林の中に瑞穂の声が響く。
「こっちこっち」
俺は立ち止まり、やや後ろからついてくる瑞穂にわかるように大きく手を振った。
椎や樟と見られる背の高い木々に混じって、シダ植物やコケがあちらこちらに群生しているのが見て取れる。
「ちょっとおいてかないでよ!ケータイもないのにはぐれたらどうすんのよ」
「悪かったって。急ぎ足になってたな。気をつける」
現代っ子の必需品である携帯電話は別荘の中。今の唯一の連絡手段は大声で叫ぶことぐらいなものである。なんとも原始的であるが仕方がない。
「それにしても案外ないものですね」
隣にいる片瀬が残念そうに呟く。
「うーん、確かに。映画ではこういうときたくさんの果物がそこらじゅうに生ってんのにな」
俺は今、瑞穂と片瀬と三人で森林の中を散策している。ただの散策ではない。これが、海で遊ぶのに飽きて暇だからちょっと森の中でもお散歩しようぜ、的ななんとも若者らしく健全な暇つぶしなら良かったのだが、違う。
あえてもう一度言おう。これがただの散策ではないと。
これは、命を懸けた散策なのだ。
俺たち五人のうら若き学生諸君は、狩谷の陰謀により無人島に置き去りにされ、家から追い出されてしまった。さながら無人島に漂着した難破船の乗客のようだ。
ゆえに食料調達をせねばならず、かつ、こちらはもっと迅速に、水の確保をしなければならない。
倉本姉弟は釣竿二本を携えての別行動だ。二人には今夜の主食となる魚を釣ってもらっている。この暑い中大変だと思うが仕方がない。
なぜこの組み合わせになったのかというと、たいした理由もないのだが、まず釣り経験者が倉本姉弟のみであって、万一に備えて男共は別々に行動したほうが良いとなると、選択肢はかなり絞られてくる。
さらに俺は昨夜、狩谷に片瀬のことを頼まれていた。一方的に。私がいない間、緋那お嬢様の身の安全は霧宮様にお託し申上げます、と。
そんな理由からこの二組に分かれての別行動と相成ったわけだ。
別れ際、有紗先輩が妙にニタニタしていたのが気に食わないが。
俺はナップサックからペットボトルを取り出し、清涼飲料水で少しだけ口内を濡らした。
このスポーツドリンクは、今朝海に出たときに各自一つずつ持っていったものだ。また、この水は狩谷から与えられたまっこと貴重な聖水であり、ペットボトルは俺の活動限界を知らせるガソリンタンクである。だから大切に飲まなくては簡単に行き倒れてしまう。
幸いなことに、ボトルの中にはまだ半分以上残っている。しかしこれもいつまでもつか……。一刻も早く水源を見つけなくては。
ペットボトルをしまおうとナップザックを開ける。中にはもう二つペットボトルが入っていた。瑞穂と片瀬の分だ。しかし中身はとうに無くなっている。つまりは俺の持っているこのペットボトル分しか俺たちに残された水はない。なかなかに危機的な状況である。
「あの、霧宮君。申し訳ないですが、私にも、ほんの少しもらえませんか?すごく喉が渇いちゃって……」
そう頼み込んでいる片瀬は見るからに辛そうだ。額には大粒の汗がびっしり並んでいる。
全然気づかなかった。彼女が人より身体が弱いということはもう十分知っていたのに。そのことを差し引いても、彼女はお嬢様でこういうロードワークには慣れていないのは明らかだ。次からは片瀬の様子をもっと気にかけて行動しなくては。
「ごめん片瀬さん。辛そうなのに気づかなくって。はい、いくらでも飲んでいいから」
そう言ってペットボトルを渡す。
「ありがとう。……ごめんなさい、霧宮君のなのに」
本当に申し訳なさそうに受け取ってから、片瀬はキャップを開けた。
と、そこで彼女は開けたペットボトルの口を見つめたまま固まった。
「ん?どうしたの?遠慮しなくていいよ」
「あ、はい……。えっと……じゃあ、い、いただきます」
そう答えるものの、一向に飲む気配がない。
そこではたと気がついた。間接キスになることを片瀬は先ほどから気にしているのだ。
「あー、ごめん。毒ではないから。その、我慢していただけると……」
すると片瀬は慌てたように手を振り、
「い、いえっ!違うんです。嫌とか、そういうんじゃないですから!はっ……、」
「は?」
「恥ずかしいだけで……」
彼女はこれ以上ないくらいに顔を沸騰させたかと思うと、ペットボトルを抱えたまま俯いてしまった。
そういうことを気にされるとこっちまで恥ずかしくなるんですが……。
苦笑いで困ったと瑞穂に同意を求めようと瑞穂を見ると、なんだか慌てたようでいて苦虫を噛み潰してしまったようで、とにかく変な顔をしていた。
――なんだアイツ?
と、瑞穂は片瀬にそろりと一歩近づいて、
「緋那ちゃんが飲まないんだったら私が先に――」
「霧宮君いただきます!」
急に顔を上げると、片瀬は思い切ったように勢いよく飲みだした。
「あっ……」
瑞穂がペットボトルを奪おうと出した手を宙に浮かせたまま固まる。
ごく、ごく、ごく――
片瀬はなおもすごい勢いで飲み干していく。俺は呆気にとられたままその光景を見つめるしかなかった。
「……ん、んく、ぷはぁ。はぁ、はぁ……あ!き、霧宮君ごめんなさい!全部飲んでしまいました……」
なんと片瀬は息もつかずにペットボトルの水を全て飲み干してしまった。そのことに当の片瀬自身が一番驚いていて、あたふたと困惑している。
「み、水……。俺の、みず……」
俺は逆に全身の力が抜けてしまって、空になった俺のエネルギータンクを見つめていた。
瑞穂はなぜだか悔しそうな顔をしていたのだった。
センター終わりました。前期終わりました。後期は…知りません。
一年ぶりの更新です。長らくお待たせしてしまうことになり申しわけありませんでした。
これから大学まで少し暇ができるのでぼちぼち再開できたらいいなと思っています。