22日目『バッティング』
「あの、のど渇きませんか?」
事の発端はそんな些細な台詞だった。
燦々(さんさん)というよりじりじりといった表現のほうが正しい日差しが容赦なく降り注ぐ中、俺と片瀬は肩を並べて帰路についている。
世界に名を轟かせているコンツェルンの御令嬢の身の安全は、俺のひ弱な双肩にかかっているのだが、やはり役不足は否めない。あの老獪な執事が何を考えているのか疑わずにはいられない俺の心境も、自ずと察することができるというものだ。
しかし、狩谷は狡猾であり怜悧であることを忘れてはいけない。やはり年端もいかない一介の学生などに主人の命を預けはしないだろう。
もしかすると、黒服に身を包んだいかにも屈強そうな本物のBGが辺りに潜んでいるのかもしれない。
本当にあり得そうで、夏だというのに一瞬寒気を催した。
小さく首を振り、気持ちを切り替えて会話に集中する。
「俺もどこかで涼みたいな」
ワイシャツの胸元をパタパタとさせ風を送る。
「じゃあ、あそこによって行きましょう」
夏の日差しにも劣らぬ眩しい笑顔だ。少々誇張のし過ぎかもしれないが、それでも普段の彼女よりも意気揚々とした様が見受けられる。
片瀬が指差した先は某全国チェーンのファミリーレストラン。
狩谷の言っていたことを思い出し、笑顔でそれに頷いた。
俺の大義名分は、片瀬に学生らしい青春を謳歌してもらうことなのだ。
「いらっしゃいませー」
景気の良い声が明るい店内に響く。
俺は冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。灼熱地獄から解放された気分だ。片瀬もほうと溜息をついている。
何組かの客はいるようだが、中はガランとしていて空席が目立っていた。昼時を過ぎた時間帯なのでちょうど客足も一息ついた頃合なのだろう。
「二名様でよろしいですか」
「はい」と俺。
「ではこちらへどうぞ」
商売用の笑顔を貼り付けたウエイトレスに案内されたのは、道路に面したテーブル席。ガラス越しに見慣れた街並みが見渡せた。
俺たちは向かい合って席に着いた。
ここに入ろうと提案した当の彼女は、なんだか先ほどから落ち着きがない。きょろきょろと店内を見回し、まるで子供のような振る舞いだ。
「片瀬さんはやっぱりファミレスとかは来ない?」
「そうですね。あまり来たことはありません」
話しかけられたことで自分の行動に気がついたらしく、恥ずかしそうに笑った。
「へぇ、じゃあ外食はいつもどこで?」
「外食にはあまり行かないんですけど・・・ええっと、ホテルのレストランとか料亭とかで食事会をすることはあります」
「へー・・・・・・」
聞かなければ良かったと後悔した。
明日香さんの料理が一番だ、と虚勢は張っても、たまには自分もそういう豪華絢爛な食事を楽しみたい。目の前で小首をかしげる少女を素直に羨ましいと思った。
先ほどのウエイトレスがお冷を持って来た。ひと息に飲み干し、外で失った水分を補給する。
「はいこれ」
「あ、ありがとうございます」
テーブルの隅に立て掛けてあるメニュー表のうち一つを片瀬に渡した。
「さーて、なんにすっかなーと・・・」
もう一つを広げ、さっと目を通す。
――ハラへってねぇし、コーラでいっか。
早々に注文する品を決め終える。片瀬はもう少しかかりそうなので、暇つぶしにパラパラと捲った。
フロート、チョコサンデー、あんみつ、ミニ白玉パフェ・・・・・・。
見るだけでげっぷが出そうだが、どれもこれもあいつなら喜びそうなスイーツばかりだ。
あいつが口元にアイスをつけて、それでも至福の笑みでスプーンを握る。絶対に俺にはくれない。横取りしようものなら大惨事だ。見る見るうちにスイーツは減ってゆき、あっという間に完食。そして俺は、空になった器を見て盛大に溜息をつくのだろう。
そんな光景を思い浮かべて、くつくつと笑った。
笑ってしまってから気持ち悪がられていないかと思い、片瀬を盗み見る。
しかしそれも杞憂に過ぎず、彼女の顔は肉汁滴るハンバーグの写真の奥に隠れていた。思わずほっと胸を撫で下ろす。
時折唸り声がするので、注文する品がまだ決まらないのだろう。
俺は頬杖を突く。
はたと“あいつ”とは誰のことかと思った。
言うまでもない、むしろ口に出すのも憚られる暴君のことだ。
そのエゴイストとはつい最近、また喧嘩をした。なんのことはない。いつもの低レベルな喧嘩だ。
しかし、今回はいつにも増して腑に落ちない点があったのも確かだ。
それに・・・・・・。
「――君。霧宮君!」
「へ?・・・ああ、ごめん。決まった?」
さらなる思考の渦中に引きずり込まれようとしたそのとき、片瀬の声で我に返った。
「はい。あの、どうしたんですか?ぼーっとしてたみたいですけど」
「いや、なんでもない。考え事」
なんで俺、瑞穂の事なんか考えていたんだ。今更になって思った。
「心配事でもあるんですか?」
「別にたいしたことじゃないよ」
神妙な顔つきになる片瀬に笑いかけ、妙な空気を払拭するために店員を呼びつけた。
「俺、コーラ」
「はい、コーラがお一つ」
「えっと、デラックスチョコジャンボパフェお願いします」
なんだその凶悪な名前は。
「はい、デラックスチョコジャンボパフェがお一つ」
だからなんだその凶悪な名前は。
「以上でよろしいですか?」
「はい」
店員は一礼し去って行く。俺は不安に駆られ、メニュー表に目を通した。
あった。デカい。なんだこれは。
いよいよ不安も危惧の念へと移ろい始め、片瀬に尋ねた。
「なあ、さっき頼んだの全部食えるの?」
「やっぱり、無謀すぎましたかね」
無謀だ。きっぱりとそう言った。
「あう・・・」
「とにかく、俺は助けないからな」
「はい・・・」
飼い主に叱られた子犬のようにしゅんとなる。その様に胸打たれるものがあったが、ぐっと堪えた。もしや誰かのように、片瀬もぺろりと完食するかもしれない。そうなったら、片瀬というか弱い少女に対する見方を再検討しなければならないが。
「トイレ行ってくる」
俺はそう言って席を立つ。
そして座った。
「どうしたんですか?」
片瀬が不思議そうに小首を傾げる。
「別に?」
自分でも分かるほどのぎこちない笑みを浮かべた。
「だって霧宮君、今トイレって」
「いや、なんでもないんだ。忘れて」
「そうですか・・・。あの、すごい汗ですよ?どこか具合でも悪いんじゃ――」
片瀬の台詞の後半のほうは、ほとんど耳に届かなかった。いや、右から左へ脳を通らずに突き抜けていったのかもしれない。とにかく、今の俺はそれほどまでに動揺していた。
席を立った際、見てはならないものを見てしまったのだ。思わず目を疑った。
それは、妻の浮気現場でも幼児誘拐現場でもない。ごく普通の、他人から見たらなんの変哲もない日常風景の一部。
そんな風景に混じって“あいつ”がいた。
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これが書きたいがために夜中の2時までかかって仕上げました。なんとわかりやすい性格なんでしょう。自分でも溜息をつきたくなります。
はい、そんなこんなで私目の小説も大台に乗りました。ありがとうございます。
今後もなにとぞ、なにとぞご贔屓に。