21日目『憂鬱と弁当』
鬱だ。
自分の腕の中に顔を埋める。しかし、瞼を閉じても頭の中でリフレインされる映像は消えることはなかった。
――秋人といると、疲れるの
何故あんなことを言ってしまったのだろう。
心とは裏腹に口をついて出た言葉は酷いものだった。高鳴る心音を抑え付けるのに必死だし、服装や髪形に気をつけるもの一苦労なので、“疲れる”というのはあながち間違いでもないが、それは幸福感の端っこにある心地よい疲労感だ。そのような気苦労は、決して秋人と一緒にいたくないために生じるものではない。
でも、秋人は少なからず不愉快な思いをしただろう。
あのときの彼の顔が鮮明に浮かび上がる。雷を浴びたような衝撃を受けて驚愕した表情。
そして、その中にほんの少しだけ垣間見えた淋しそうな顔。
瞼の裏側に刻み込まれたそれを反芻するたび、後悔と自責の念とが一緒くたになって押し寄せる。
いまさら後悔しても仕方のないことなのだが、嘆かずにはいられない。後の祭りとはよく言ったものだ。
「ぐはぁ〜・・・・・・」
堪え性もなく、声とも溜息ともつかない音がだらしなく漏れた。
「・・・ずほ・・・・・・瑞穂ってば!」
突然、ぺちっとおでこを指で弾かれた。
「あいたっ・・・・・・なによ」
自分がへばり付いている机の前に立つノッポの友人は、腰に手を当てて私を見下ろしている。
額を押さえて批難がましい視線を送るが、それは相手の睨みによって相殺された。
「なによぅ、じゃないわよっ!あんた今何時だと思ってんのよ」
教室の時計をちらりと覗く。
「・・・一時ちょっと前」
今度はおでこを押さえている手の甲を指で弾かれた。
「痛っ!」
手の甲をさする。
「私はそんなこと聞いてるんじゃないの!な、ん、で、お昼過ぎてからあんたが登校してきたか聞いてるの」
親友はまるで自分が担任だというように般若の形相で私をねめつけてくる。胸中で思わず震え上がるが、そんなことは臆面にも出さず身体を起こして椅子に座りなおした。
「体調が悪かったんだもの」
さも歯牙にも掛けていないというフリをして切り返したが、親友はなおも疑わしげに顔を覗き込んでくる。
「ふ〜ん・・・ああそう。瑞穂は体調が悪くてそれで遅刻したのね」
私はこくこくと何度もうなずく。
「どこが悪いの?頭?」
「おなかよ」
友人の軽口が癪に障ったが、それが有紗なのだと割り切ってさらりと受け流す。
有紗はそんな私をじっと見つめていたが不意に視線を教室の入り口に移し、一言。
「あ、秋人っち」
ガタッ!
跳ね上がった膝が机に勢いよくぶつかった。痛みに顔が歪む。
どうして秋人がここに?謝りに来たのだろうか。いや、そんなことは絶対にあるはずがない。理不尽な振る舞いをしたのは私だ。では何故ここに?
急激に上昇を始めた心拍数は跳ね上がったままだ。ドクドクと忙しなく音を立てている。
恐る恐る有紗の視線の先を辿る。
――いない
ほっとしたような、少し残念のような何とも言いがたい気持ちになる。そこでこれが嘘だとようやく気付き、上目遣いに有紗を睨んだ。
「・・・と、思ったら別の人だった」
人の心を弄ぶ友人は、嫌いな友達の悪戯現場を偶然目撃した子供のような嗜虐的な笑みを口元に浮かべている。
――やられた
私は思わず苦虫を噛み潰したような顔になってしまった。
「瑞穂は嘘がつけないんだから、最初から無駄な努力はしないほうがいいよ。あんたの心は古今東西、どーせ秋人っちに専有されてるんだから」
「そんなことないわよ」
明らかに不機嫌な声音で答えると、有紗は口元をにやりと引き上げる。
「あ〜ら、じゃあ今何にお悩みになっているの?」
「それは・・・」
言葉が出てこない。どうやら防戦一方だったこのやり取りは、有紗の完全勝利に終わったようだ。
「わかったわよ!わかったからこの話は後にして」
有紗は言質を取ると、満足したようにうんうんと頷いた。
どの道私はこの友人に相談していただろうし、結局は今認めるのも後になって打ち明けるのも同じことなのだが、なぜか今認めるのは悔しい気がした。
いつか覚えてろ。
私は胸中で静かに闘志を燃やすのだった。
「霧宮君」
正面には肩を落とし不安そうな顔をした同級生。
「ん?」
どうしたんだという気遣いを込めて聞き返す。
「あの、さっきからぼーっとしているようですけど・・・その、つまりませんか」
指摘されて、初めて自分が呆けていたことに気付く。慌ててそんなことないと手を振り取り繕うと、気弱そうな少女はほっとしたような笑顔を浮かべた。
今は昼休み。俺と片瀬は屋上で弁当を広げている。片瀬と一緒に弁当を食べる約束をしていたのだ。
それが何故屋上なのかというと、今まで接点がなかった二人が教室や食堂で弁当を広げた場合、好奇の視線を浴びる恰好の的になるだろうからだ。そうなってみろ、次の瞬間わんさかと群がってきた無遠慮なクラスメイトの質問攻めに合う。俺の受け答えいかんによっては、我が校のプリンセスとのあらぬ噂が立っている俺の立場はあっという間に消え失せ、俺は行き場を失う。それだけは絶対に避けたかったのだ。
だからこそ必然的に、人気のない、それも片瀬しか入ることのできない屋上を選んだわけだ。
日ごろの行いが良いのか、本日の天候は晴れ。入道雲がゆったりと真っ青で広大なプールを泳いでいる。
俺たちは夏の日差しを避け日陰に腰を下ろしているが、日本の夏はそれでも少し暑すぎる。
額を伝う汗をワイシャツの裾で拭う。
「やっぱり、少し暑いな」
まいったと笑みを浮かべ、傍らに置いといたペットボトルをあおる。
「そうですね。ちょっと暑いですね」
幾分か気のない返事が返ってきた。視線もやや下がり気味だ。気にかかったが、あえて尋ねるようなことはしなかった。
件の事故により右手が使えないので、左手にフォークを持ち卵焼きを刺す。それを口元に運び口に入れようというところで、ぴたりと行動を止めた。
「ど、どうした?」
「気にしないでください」
――そう言われても・・・・・・。
気になるのだから仕様がない。片瀬の瞳は弁当箱から俺の口に運ばれる卵焼きを一心に追っていた。おまけに彼女の表情は鬼気迫るものがあるのだ。これで気にするなというほうが無理な注文だ。
「さあ早く食べてください」
まごつく俺に痺れをきたしたように片瀬が催促する。
俺は片瀬から目を逸らし、口に入れた。
もぐもぐと顎を動かす。効き過ぎた塩っけが口に広がる。それに少し焦げているようだ。食べれなくもないが、美味しいというわけでもない。
つまり、まあ、あれだ。微妙、ってやつだ。
「・・・お味はどうですか?」
片瀬は俺の表情を窺いながら恐々と尋ねてくる。ここで片瀬の気にしていることがやっと分かった。
今日は一緒に昼飯を食べると言ったが、二つの弁当を用意したのは片瀬だ。普段なら俺も気分次第で弁当を持参するが、生憎と利き腕が使えないので料理は無理だ。コンビニに寄ってパンでも買おうと思っていたが、片瀬はそのことを予想し弁当を作ってきてくれたのだ。このような、いかにも女の子らしいことをしてくれる娘は今まで一人たりともいなかったため、正直嬉しかった、のだが・・・。
しかし、困った。
真剣に味を聞いてくるのは片瀬お手製の証拠。そして指に巻いてある無数の絆創膏・・・。深窓の令嬢である片瀬のことだ。きっと料理など数えるほどしかしてないのだろう。それでもしたたかにキッチンに立つ片瀬の後ろ姿を想像すると、その健気さに涙したくなる。
さあ、なんて答えればいいんだ。やはりここは美味しいと答えるべきなのだろうか。しかし、弁当箱に詰めてあるのは片瀬も同じもの。嘘をつけばたちどころにばれてしまう。かといって正直に感想を言っていいのだろうか。それはそれで自分が丹精込めて作った料理が否定されたみたいで傷つくものだ。
「霧宮君・・・しょーじきに答えてください」
一種の緊張感が包み込む。迷う。迷うが、俺は意を決して口を開いた。
「ご・・・・・・」
片瀬の期待と不安が入り混じった瞳が俺を見つめる。
「50点」
途端、片瀬ががっくりとうな垂れた。
これでもかなりまけたほうだ。明日香さんの手料理を毎日食べる俺の舌が肥えているのかもしれないが、一人暮らし歴2年になる俺のほうが一流シェフ付きのお嬢様より料理慣れしているのは、火を見るより明らかだ。
「でも」
俺の言葉に、片瀬は俯いた顔から少しだけ瞳を覗かせる。俺は目の前でしょぼくれている片瀬に向かって励ましの言葉をかけた。
「俺のためにわざわざ頑張ってくれたんだろ?その気持ちだけでも嬉しいよ。料理はこれからうまくなっていけばいいって」
そう言ってからアスパラ巻きを口に放り込んで、にいと微笑む。片瀬の顔がぱあっと明るくなった。
「そうですね。私、頑張ってお料理上手になります」
小さくガッツポーズをする片瀬の顔はとても晴れやかだ。
それを見て、憂鬱だった気持ちが少しだけ晴れたような気がした。
考え事は後に回そう。
今は、滅多にすることができない楽しい昼食に専念しようと思えた。
フォークに刺した、足が黒いタコさんウインナーをしげしげと見つめる。
――料理だけなら瑞穂のほうが上か。
なんだかそれがおかしくて、声を上げずに笑った。
今日のよき日、旅立つ者は数知れず。でも、自分は果たして卒業できるのか。そんなことを思ってしまいます。
さて、書き方がだんだんとゴテゴテしくなっている今日この頃。1日目とのスタイルの違いに愕然としました。