まっとうな人間への一歩
「久しぶりだな。元気にしていたか、小悪党に姫」
「いいかげんにその呼び方はやめろよ」
「俺は姫じゃねぇ」
男と少年は異口同音にロードの使う呼称に反発した。
「少しは肉づきが良くなったかな」
ロードは二人の言葉を無視し、少年の体を検分した。
しかし、少年の体から薄汚れた感はなくなっていたが、城の中で見かける子どもたちよりもまだまだやせ細っているままだ。
「薬をよこせよ」
男は苛立ったように声を発した。
「あぁ、次の薬は酒をやめないと激痛が走るぞ」
ロードは城から持参していた薬をポケットから出した。
「分かったからよこせ。おかげで薬が足りなくなって、腕が爛れて、死ぬかと思ったぜ。言うことは大人しく聞くから、くれるもんはきちんとよこせよ」
薬をロードは男に無造作に投げつけるので、焦ったように男は受け取った。
その様子を見て、ロードは滑稽なものを見るように笑った。その笑い方に男は怒ったが、口に出して文句を言うことは、本当に薬をもらえなくなるのではと危惧し、薬を乱暴に机に置いて怒りを表した。
ロードは城の職務が忙しく、3日と開けず訪問していたのが、5日、1週間、と訪れの機会が減り、とうとう1ヶ月間、2人のもとに訪れていなかった。
「しかし、ここは男二人で花がないな。次は、若い女でも拾ってこようか」
「お前の気まぐれでひとを拾うのはやめろ。犬猫を拾うのとは違うんだぞ。男はまだいいが、女が堕ちるときは早い」
男は下町の酸いも甘いも見てきたため、堕ちることが容易い女まで、この淀んだ世界に引きずり込むのは良くないと知っている。だが、ロードはそんなことを気にするような玉であるということも同時に知っていたので男にしては珍しく真摯にロードの提言を止めた。
「心外だな。堕落の道と思われてたとは。まっとうな人間に矯正してあげてるだろう」
「こういうのは飼い殺しというんだ。お前の気まぐれが終われば、元通りの生活か、周囲から爪弾きにされるもっと悪い状況が待ってるんだよ」
「そうか、そうか。飼い殺しは不満か。それでは手に職をつけてあげよう。とりあえず、剣かな。真面目にやれば2年もせずに、私を負けさせれるよ」
ロードは男の話を聞く気はなく、一方的に脈絡のない話を続ける。
「そうだな。俺たちが盗賊団の頭になるために訓練の場でも恵んでいただけるのなら、是非ともお願いしますか」
すると男は本気で考えているのか、冗談めかしている割に男の顔には胡散臭い笑顔が浮かんでいる。
「試してみるといい。きっとまっとうな人間になってしまうだろうから、私を堕落の道に引きずりこむ女と呼んだことを後悔するだろうね」
ロードは残念そうな声音で剣を抜いた。
「ふっ。俺たちはいつまでもまっとうになるなんて、夢物語のなかだけの言葉に過ぎないな」
馬鹿なことを言うロードに男はおかしくて仕方がないと言ったように下卑た笑いをした。
「いや、断言しよう。剣の修行をつけている間に、君たちの言うまっとうな人種との交流ができて、まっとうから抜け出せなくなるよ。さながら、君が小悪党になったようにね」
ロードは剣を男の首元にあてた。
「もしくは、ここで殺してしまうのも一興かな」
男は固唾を飲んで身動きすらしない。すれば、自身の命が危ういと本能的に知っているのだろう。ロードは民草の命を本当に軽く考えているのだろう。それは、普通ならためらいそうな子どもを攫う行為であったり、彼のことを斬り捨て、さらには薬で縛りつけるという行為から容易に伺い知れた。
「まぁ、いいさ。私は寛容だからな。ありがたく思え。明日から、城に来い。訓練所には話をつけている」
剣を元に戻し、殺気を緩める。途端に小悪党と少年は安堵したように息を吐く。少年まで緊張している状況が面白くて、ロードはまた男を怒らせないためにも笑いをこらえた。
「そういえば、おまえたちの名前は何というのだ」
「遅いよ」
少年はあきれたように言った。
「今さらかよ」
男は拗ねたように言った。
男の反応は爺のようで面白い。幼い子どものように、歳に似合わず素直な反応をする。少年の方が大人びていると言えるだろう。
ロードはやはり、笑うことを耐えられずに声を出して笑った。
「姫、お名前をうかがってもいいかな」
少年に跪き、名前を乞う。
「俺はイチ。長男だったからイチ。ニとサンは親と一緒に死んだよ」
噂には聞いていたが城下の下々の暮らしは常軌を逸している。子どもの名前を番号でつけるとはとロードは苦く思った。
ロードは顔を笑って聞いていたのから、知らずに顔を盛大にしかめる。
しかし、ロードが知らないだけで、家畜のように数を増やされている、奴隷に近い身分の子どもたちは当たり前のように記号で呼ばれている。奴隷は制度としては廃止されているが、限りなく最底辺の者たちは数多く城下に存在する。それは公然の秘密だ。
「ひどい親だな。俺の名前の方が幾分かましだ。俺はサム」
男は少年の頭を触りながら言った。二人の間には出会った時とは比べようもないほど親密な空気が漂っていた。数ヶ月毎日顔を付き合わせていたら、自然と連帯意識が生まれたのだろう。しかし、一方で元は被害者と加害者の間柄であるので、どうして接すればいいか分からないといった二人には壁が存在していた。だから、二人はまだ名前さえ名乗り合っていなかった。
出会いが加害者に被害者という関係であったため、名前を名乗り合うほどの距離でもなく、気まずい空気が二人の間にはあったが、この名乗り合いで二人の関係はやっとしっくりくるものになった。なぜなら、共同生活を行うなかで、口には出さないものの、運命共同体として、二人には奇妙な連帯感が生まれていた。
「イチか。そのうち新しい名前を与えてやろう。とりあえずは、門番たちにお前たちの名前と要望を伝えておくので明日の朝に城まで来い」