76話 ダイエットは長い期間を前提にして、無理のないプランで行うべし!
そんな調子でダイエット開始からかれこれ3日が経過した。
昨日の夕飯の当番は弟で、出されたカレーはぐつぐつと煮えたぎり、泡立つルーの中に時折苦悶に満ちた人間の貌が浮かび上がってはこちらを恨めしそうに見つめ、ぼそぼそと呪詛の言葉を吐くという実に禍々しい代物であった。
あえて説明するまでもないというか、説明したくないというのが正直なところではあるが、もちろん白米は先日の通りあの白い虫のままで、何やらバージョンアップされているらしく、申し訳程度には得た足のようなものをうねうねと動かしていた。
ちなみに先に述べた人の貌だが、口の動きを観察していると大きく3つの台詞を口にしているのが読み取れた。 具体的には「ゆるさない」「おまえも……」「くるしい、たすけて」である。
脳と言うのは不思議なもので、口の動きにはっきりとした意味があると理解出来ると奈落の底からわき上がってくる亡者の嘆きのような絶望に打ち震えるおどろおどろしい声を幻聴とはいえ知覚してしまうらしい。
そう言えば殆どの人は自分が思っている以上にはっきりとは発音できていなくて、大抵は向かい合っている相手が自分の口の動きを見て聞きとれない部分を補完しているため、お互い普通に発音できていると誤認し合っているなんて話を聞いた事がある。
「ほっほー、つまり、視覚情報から音声をイメージさせる事が出来るってことかー。 これを応用して疑似的に他の知覚に作用したり出来るかもしれないな……」
「……そ、そうだね」
ボクの報告、というか愚痴のような話を聞きながら、北里さんは猛烈な速さでアーリーにアレコレとメモを取っている。 現在の時刻は8時28分、部活の時間でも何でもなく、お互い教室に向かう途中に出会っただけだったりする。
普段は中野さんや羽原くんと一緒に行動しているのだけれど、今日は珍しく一人らしい。
小さな体でてくてく歩く姿は何と言うか健気に生きているんだなぁ……って感じがするのだけれど、その容姿に反してどうにもボクで実験している感が見え隠れしてちょっと怖い。
「それで、今日の朝ご飯は何を食べたん?」
「……食欲なかったから」
「そっかー。 じゃあ、何も食べてないってことでおk?」
「……うん」
そっかそっかと頷く北里さん。 その度に色素の薄いツインテールが揺れる。
「それで、体重の方は?」
「……2キロくらい、減ったかな?」
「食事制限だけで?」
「……うん」
どうにもボクは基礎代謝が人並み外れているらしく、昔から食べないだけで一気に体重が落ちる。 もちろん、高出力の筋肉を動かす為に相応に食べる必要があるからこその代謝であり、食べないという方法による弊害は普通の人よりもずっと大きいのだけれど。
小学生の頃、インフルエンザで全く食欲がわかない日が続き、無事完治した時にはお腹が空いてたとえでも誇張でもなく本当に動けないという恥ずかしい事この上ない経験をしたことがある。
しかし、今回は散々食事の度にアレなものを見せつけられているせいか空腹を感じることを脳が拒絶しているらしく、その点で特に辛くはないのだけれど。 代わりに、食事が楽しくないのが一番辛い。
ここ数日の食卓を思い出しただけで思わずため息が漏れる。 そんなボクの憂鬱に気付く様子も無く、北里さんは先々歩いて行く。 小柄なのに早いなぁ……なんて考えていたのもわずかの間。 彼女が怪訝な表情を浮かべて振り返ったところで、ようやく矮躯の後輩の足が早いのではなく、自分の足取りが重いだけであると気付いた。
が、気付いた時には色々と手遅れで、ふらりと視界が揺らいだかと思うと蛍光灯の光を反射して白く輝く天井が視野一面を覆い尽くした。
目を覚ますとよく見知った顔が心配そうにボクの瞳を覗き込んでいた。
気の強そうな目と、普通にしていてもどこか挑戦的な口許、そして思わず手にとって感触を確かめてみたくなる滑らかな金髪。 基本的には日本人の造形の範疇を越えない顔立ちをしているけれど、良く見知った顔でなければ声を掛けられたら思わず英語で返してしまいそうなそんな雰囲気を纏っている。
「おお、うめちゃん! 大丈夫かいな?」
「……九?」
「倒れたんだよ、廊下で」
首を傾げるボクの視界に一人の男子生徒の顔が映る。 羽原 秋一。 ボクにとっては後輩兼生徒会仲間といった間柄で、多分男子生徒としては一番接点が多い。 整った顔立ちをしているが、不思議と特徴の説明を求められると何と答えて良いのか困る、けれど一度見たら忘れる事は無さそうなそんな印象の男の子だ。
彼はおもむろに左手を差し出すと「起きられる?」と問い掛けながら、ボクの肩に右手を回して体を起こすのを手伝ってくれた。
体を起こしたところで彼の手が離れ、お礼を言うよりも早くすぐ傍で見守っていた九がかしましく口を開く。
「何、うめちゃんにベタベタ触っとんねん、いやらしい!」
「失敬な。 紳士的に手を貸しただけだろうが」
「はぁ? 大体、アンタがこの前、うめちゃんを支え切れんとずっこけるような真似やらかしたからこんな事になったんとちゃうんかい?!」
「アンタだってうめ先輩を膝に乗せて重い……とか青ざめた顔して呟いたりしてたじゃねーか」
「……まあ、この前の件は成り行き上仕方ない、っちゅーことで勘弁しといたる。 でもな、あのアホ娘の手綱をきちんと握っとくんはあんたの仕事やろ?」
「あー、それについては済まんかった。 もうちょっとちゃんとした指示を出しておくべきだった」
仲良く口論を始めた二人が一斉にある方向を見た。 ようやく自分が保健室に運ばれた事に気付いたボクもつられてそっちに視線を向けると、そこには『私はどうしようもない阿呆です』というプラカードを首からぶら下げた格好で正座させられている北里さんの姿があった。
きっと二人が重い云々と言っていたのはボクがダイエット中である事を知っていたからで、ボクが気を失っている間に事情の説明を求められた彼女は全ての責任を押し付けられ、お仕置きを受けている最中なのだろう。
「おい、千里。 うめ先輩に何か言うことは?」
「ちょっと悪ふざけが過ぎました、ごめんなさい……」
土下座する北里さん。 ツインテールが力なく保険室の床に広がる。
「……悪ふざけ?」
「アプリ見せてもろたけど、アレは幾らなんでもやり過ぎやっちゅーねん。 拒食症にでもなったらどない責任取るつもりやってん……なぁ?」
「本当に、申し訳ございませんでしたーッ!」
床に頭を叩き付けんばかりに勢いでもう一度土下座。
羽原くんと九は珍しく真面目に怒っているらしく、物凄く冷ややかな視線を向けている。
二人の妙な貫禄もあってか、見ているこっちが気の毒になって来るほどの光景だった。
「お詫びと言ってはなんですが、こちらに真っ当なアプリを用意させて頂きましたので、私如きに作ったもので宜しければ是非召し上がってください! 寧ろ、こっちからお願い致します!」
ベッドの近くの棚に置かれていた弁当を指差してから、またしても土下座。
よくよく見てみると、反省以上に恐怖に突き動かされているようなそんな雰囲気だった。
目の動きを追うとどう見てもボクと言うよりも羽原くんと九の顔色を伺っている。 一体、何をどうすればここまで相手を委縮させることが出来るのだろうか?
「と、言う訳なんであのアホに汚名返上のチャンスをやってくれないか?」
「……うん」
羽原くんの言葉に促されるように、メガネとヘアピン、ネクタイピン、それからリストバンドを装着。 可愛らしい丸っこい文字で『せんりちゃん』と書かれた小さなお弁当を手に取る。
どうやらリストバンドから一定範囲内に入った食べ物や食器を拡大表示する機能があるようで、手に取った瞬間に弁当箱はさっきまでより3割ほど大きくなった。 ピンク色のお箸でふりかけのかかった白米を取る。 およそ3日ぶりに見たそれは虫になる事はなく、蛍光灯の光を反射して美味しそうに輝いてさえいた。
もしかしたらこれもARによって色彩に補正を加えたものなのかも知れない。
そんな事を考えながら、数日ぶりのまともな食物を口へと運ぶ。 お弁当に詰めたものしてはふんわりとした食感が広がる。
「……美味しい」
「うめちゃん、それだけじゃ足りんやろ? ウチのんも食べてくれてえからな?」
「同じく」
「……ううん、大丈夫」
二人の申し出をやんわりと断る。 きっとそれくらいの量なら簡単に平らげることが出来るだろうけれど、それ以上にボクを気遣ってくれる二人の気持ちだけで十分過ぎるほどに心が満たされた。
羽原くんと九に笑顔を向けつつ、北里さんの様子を伺う。 彼女の顔には「ここで遠慮とかマジで勘弁して下さい。 後で二人に「あんな目にあわせておいて遠慮させるとかマジなんなの? 簀巻きにして大和川にでも捨てちまうか」的な感じで酷い目にあわされるんで、全部食べちゃってくださいお願いします」と書かれていた。
――その必死の懇願に免じて、素直に全部食べる事にしよう。
こうして3人が見守る中で、黙々と久しぶりという程でもない筈だけど、気持ち的には久しぶりのまともな食事を食べ続けた。
これが噂の拡張満腹感というものなのだろう。 片手に収まる程度のサイズしかなかったはずのお弁当は、想像以上の満足感で、ボクのお腹を満たしてくれた。
「……ごちそうさまでした。 えっと、北里さん?」
「は、はいっ! なんでござんしょうか!?」
「……美味しかった、ありがとう」
その一言を聞くや否や、彼女はまたまた土下座した。 再び顔を上げた時には少し額が赤くなっていた。
その後、真っ当な食生活を取り戻したボクはリバウンドで体重を4キロほど増やしてしまったものの、北里さんの協力もあって1カ月程かけて3キロの体重減――ダイエット開始前と比べると1キロの減量に成功。
その頃には、ボクは彼女の事を「千里ちゃん」と、彼女はボクのことを「巨乳ボクっ娘のうめたん」と呼ぶようになっていた。 正直、恥ずかしくて死にそうです……。