8話 不意に視線を感じて虚空に「貴様、見ているな!」と指差したのを家族に見られた時どう反応すれば良いのか僕たちはまだ知らない
「兄さん、だって?」
『そう、兄さん。 兄さんは小さい頃に親を亡くした私のたった一人の家族なの』
「そうか……」
その説明と、さっきの映像をわざわざ俺に見せた理由を考えればおおよその事情は把握できた。
新天寺社の裏の顔と彼女の願い。 その二つを繋ぐものがあるとすればこうだ。
寝たきりの彼女の入院費を賄うために、彼女の兄が新天寺社の裏側に所属している。
情報漏洩の許されない仕事である以上、そこに属する者にはしっかりと首輪をつけておかなければならない。
唯一の肉親が寝たきりで、莫大な金銭が必要になる。 よほど関係が険悪でもない限り、これに勝る抑止力は存在しないだろう。
で、夏芽としてはたとえ自分のためでもそういう汚れ仕事をして欲しくない、と。
「……一応確認しておくけど、君の名前は中野 夏芽だよな?」
『ええ、そうよ。 それがどうかしたの?』
「君と君のお兄さんの名字が違う理由は? あと、君の兄さんは新天寺社の裏側に関与している。 それで間違いないね?」
その一言で、彼女の瞳が驚愕によって大きく見開かれた。
もともとが萌え萌えしい絵なので目は最初からバカでかいのだけれど。
『兄さんを知ってるの?!』
「知ってるって程のものではないけど。 多分、さっきワクドで見かけた」
夏芽は俺が次の言葉を紡ぐのを固唾を飲んで見守る。
その表情はあまりにも真剣そのもので、つられて俺の表情も硬くなる。
そして、夏芽の兄と思しき人物の名を、ワクド内で見た光景を思い返しながら口にした。
「確か、大須 冬彦って」
『間違いないわ! 兄さんよっ!!』
やっぱり。
その知名度と影響力に反して比較的新しい企業である新天寺社の社員数は少なく、俺の知る限りでは大阪に、というか東京の本社以外に支社があるなんて話は聞いた事がない。
急激な拡大にサービスやシステムが対応している事を考えると、何とも理不尽かつ不自然な話ではあるが。
「よし、行こう。 まだワクドにいるかも知れない」
『……ありがとう』
素直に礼を述べる夏芽。 その態度に少し居心地の悪さを覚えた。
実のところ、彼女の兄がまだワクドにいるとは思っていない。 ただ、それ以外にめぼしい場所がないからワクドが挙がっただけだ。
そう考える理由は至って簡単。 まだ、俺の視界に例のプロフィールが映っているから。
最初は訳が分からず困惑するばかりだったが、夏芽の話を聞いた今ならこれらが何を意味するのか、何故こんなものが見えるのかも容易に想像がつく。
これは新天寺社の、裏側の仕事に携わる人間のみが閲覧可能な、新天寺社に関わりを持つあらゆる組織から集められた情報だ。
そして、俺の目にコレが映っているのは夏芽の兄、大須 冬彦のアーリーの情報の優先順位が高かったからだろう。
未だにプロフィールが視界に入りこんでくると言うのは即ち、大須 冬彦は俺が情報を受信できる範囲内にいる、という事だ。
もしかすると千里とのやり取りを盗み聞きされたのかもしれない。 もしかすると俺と夏芽のやり取りが――仮に不気味な独り言に見えたとしても――監視されていたかもしれない。 最悪の場合、俺の目の事を知って、尾行している可能性だってある。
もしも、この目の事を知ってしまったと仮定して、大須 冬彦はどうするだろうか。
ただの与太話だと思って聞き流すだろうか?
希望的観測ではある。 が、こんな非常識な目の存在をはいそうですかと素直に信じる奴なんて滅多にいない。 よほど俺の事を信用してくれている人は例外として。
ただ、俺はワクド内でフトモンを肉眼で探し当てているし、千里との会話もある。
そして何より、彼の妹もまた非常識な能力を有している。
もしも、夏芽が意識を失う以前からこの能力を持っていて、そのことを周囲に伝えていたとしたら。 少なくとも唯一の肉親である兄にまで黙っていたとは考えにくい。
よって、この可能性は現実的ではあるが現状に即してはいない。
何より未だに俺の目にプロフィールが映っている事の説明として、たまたま近くにいるはあまりにも不自然だ。
ワクドで目の話を聞いて、俺に興味を持ったと考えるのがまあ、妥当だろう。 それで俺を尾行して、一体何をするつもりなのかはあまり考えたくないが。
さて、どうしたものかな?
「なあ、夏芽。 君の本体はどこにある?」
『愛千橋病院だけど、それが何?』
「やっぱりこの辺にあったか。 短期決着を狙うなら君の兄貴を説得するのに一番適した場所はそこだろうな、と思ったんだよ」
適当な信号を渡り、更に奥の通りへと進んでゆく。
愛千橋病院。 "人間LOVE!隣人LOVE!"を基本理念として標榜する総合病院としては平均的な規模の病院。 ここからなら歩いても10分とかからずに到着する程度の距離だ。
「で、病室はどこ?」
『……分からないわ。 でも、そんなの受付で聞けばいいじゃない?』
「教えてくれるならな。 病室を知っている事をアピール出来れば勝手に知り合いだと思ってくれるかもしれないだろ?」
人の目を盗んでこそこそこと病室に行くよりは後々面倒事が少ないだろう。
もっとも、病室で彼女の兄貴に騒がれたらどうにもならないけど。
「となると、あの手で行くか」
一旦表通りへと戻って信号を渡り、反対側の通りの裏通りへ。 あっという間に病院に到着した俺は小走りで受付へと向かった。
「すみません、中野 夏芽の病室はどこですか?!」
「はあ、その方とはどういったご関係ですか?」
笑顔で、しかし胡散臭そうな視線を向ける若いナース。
その態度も質問も彼女の立場を考えれば至極当然のものだろう。
「俺は夏芽の弟で、大須 秋雄って言います!」
「大須……?」
ナースは首を傾げた。 あの短い文章で食い違っているのだから当然と言えば当然か。
しかし、同時にあまりにも堂々と間違っているからこそ、その間違いの背景を想像してしまい詳細を尋ねにくい、といった困惑の色が徐々に強くなる。
「おや、夏芽ちゃんの知り合いかい?」
そんな彼女に助け船を出すように声をかけてきたのは初老くらいの医師。
助け船を出しているようで、患者の在不在という形で情報を漏らしてしまっているが。
この辺の情報に対する意識というのはある程度年を食った人の方が希薄だ。
という事で、ターゲットをナースから医師へと切り替える。
「はい、大須 秋雄です。 兄貴の用事に無理矢理ついて来たついでに見舞いに来ました。多分、兄貴も後から来ると思います」
「ふむ……」
初老の医師は下あごに手を当てて二度ほど頷く。 彼なりに俺の言葉を吟味しているのだろう。
中野 夏芽を知っている。 大須姓を名乗っている。 名前に季節が入っている。
だからと言って、何一つとして身内である事を証明するに足る要素はない。
そもそも、この医師が夏芽の家族構成をどの程度知っているかも分からない。 が……
「彼女なら1007号室だよ」
幸いにも俺の話を信じてくれたようだ。
医師にお辞儀をしてから早足でエレベータへと向かう。
↑ボタンを押し、エレベータが降りて来るまでじっと待つ。
『よくもまぁ、とっさにあんなウソが飛び出るもんね』
「大したもんだろ?」
『確かに凄いけど、犯罪も良いところじゃないの?』
「必要悪と言ってくれ。 っと、来た来た」
エレベータに飛乗り込み、10階のボタンを押した。
ドアが閉まる。 わずかに揺れた後に、静かに上昇を始める。
「そう言えば。 さっきは何とか濁して誤魔化したけど、君は何歳なんだ?」
『今年で17歳。 順調に進学出来ていたら4月で高校2年生、の筈だったんだけどね』
「……そっか、俺より1つ年上なんだな」
俺の目にしか映らない彼女の表情に少しだけ翳が差す。
失言だった、とは思わないがそれでも何となく申し訳ない気持ちにさせられた。
何とも居心地が悪い。
『って、アナタ中3なの?』
「そうだけど?」
『とてもそうは見えないわ』
「老け顔のつもりはないんだけどなぁ……」
『見た目の事じゃなくて。 見た目もちょっと大人っぽい気はするけど。 状況に対する対応とか見てると20歳以上って言われても驚かないくらいの感じだったら、もっと大人だと思ってたわ。 あ、流石に本当に20歳以上だとは思ってないわよ』
夏芽がそう言い終えるのが早いか、エレベータが10階に到着した。
フロアマップに目を通し、階の端にあるエレベータホールから1007号室へと歩を進める。
「そう言えば、夏芽は自分の姿って認識できるのか? と言うか、そもそもどうやって俺の姿や視線や声を認識しているんだ?」
リノリウムの廊下を歩きながら、そんな事を尋ねてみる。
まあ、視線を認識する機能に関しては夏芽に限らず、あのプロフィールなんかにも備わっていたものではあるのだけれど。
一方で、音声に関するあれこれは未だかつて経験した事のないものだった。
考え出すと止まらなくなりそうなのであまり深くは考えないが、こうして普通に会話しているのも実は色々と不自然だ。
『アナタに関係する要素はなんて言うか例外みたいなものだと思う。 だから、理屈を求められても見えるから、聞こえるから、感じるからとしか言えないわよ。 それ以外の現実の世界の情報になるとARカメラ越しにしか見えないんだけどね。 だから私自身の姿は見えないわ。 それも映像じゃなくてデータを分析してその内容から想像する形。 というか、何かしていないと見える見えないすら見えていないって感じだったわ』
と、淡々と語る夏芽。
しかし、自分の姿を知る術がないと言った時の彼女の瞳は憂いを帯びていた。
データを分析する、と言うのがどういう事なのかは俺には分からない。 何をどんな風に想像するのかなんて皆目見当もつかない。
が、彼女が俺に出会うまで誰かにその姿を認めてもらえなかった事を思えば、ARのカメラ越しに彼女自身を見る事が出来ないのは当然である。
そして、その当然によって彼女は孤独な世界へと閉じ込められていた。
ARゆえの、アニメ絵ゆえの感情の分かり易さが、彼女のその苦しみを明瞭に伝えてくれる。
「……自分の姿が見えないってのは不安じゃないのか? そもそも、カメラ越しの世界しか見えないってのは殆ど何も見えないようなもんじゃないか」
『凄く不安に決まってるじゃない。 自分でも自分がどこにいるのか分からなくなることがあったり、私の中から私って意識が少しずつ希薄になっていくような、そんな錯覚を覚えた事もあったわ』
とてもじゃないが、想像すら出来ない世界だった。
無明の闇ですらない限りなく無に近い世界で、何も見えず、何も聞こえず、自分すらもやがてその無に溶けてゆく。
想像する限りでは、それは恐怖以外の何者でもないだろう。 もっとも、そうなった時には恐怖するだけの思考能力さえ残されていないのかも知れないが。
よくもまあ、そんな状況にあって実兄の心配など出来たものだ。
そんな事を考えているうちに俺達は1007号室の前に到着した。
何も見えない状況でどうやって新天寺社の裏側に気付いたのか、そこに自分の兄が属していると知ったのか。 他にもいくつか聞きたい事はあったけれど、どれも個人的な興味・関心の範囲を出ない程度の瑣末な疑問だ。
今はやるべき事をに集中しようと余計な考えを振り払って、病室のドアを開けた。