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死んで初めて分かったこと

作者: ルーシャオ

『エアル王子率いるアルデラ王国軍は、隣国ヴィリジアの軍を撃破、その王都にてヴィリジア王家を滅ぼした』


 早馬の報告が、瞬く間にアルデラ王城内で歓喜とともに広まる。


 しかし、ロザリアはただ独り、王城であてがわれた四階の部屋の窓から外を見つめる。


 アルデラ王都は広大で、栄えている。大国の名に恥じぬ見事な都は、大陸一と言っていいだろう。


 対して、ヴィリジア——ロザリアの故郷である——の王都は、どこかもの寂しく、年中北風に悩まされる場所だった。もみの木でできた教会や市場を中心とした家々が並び、王城というよりも砦が王族の住まいだったことを、ロザリアはよく憶えている。


 ロザリアは十歳のときにエアル王子の婚約者として、また人質としてアルデラ王国へ送られてきてから、もう五年にもなる。ヴィリジア王家は王女ロザリアを献上することで、アルデラ王国に恭順の意思を示したはずだった。


 だが、エアル王子はロザリアをことあるごとに粗略に扱った。


 初めてロザリアと王城の広間で会ったとき、若獅子のたてがみのような鮮やかな金髪と、明るい栗色の目をしたエアル王子はこう言い放った。


「何だ、この田舎娘は。これがロザリア姫? もういい、俺の前に出すな!」


 そう言うとあっさりと踵を返し、エアル王子は去っていってしまった。辱めを受けたロザリアはうつむいて黙るほかなく、そばにいた大臣や使用人たちさえもどうすべきか困惑していたほどだ。


『我らの戴くエアル王子が、ロザリア姫を嫌っている。誰からも愛される好青年であり、文武の才に恵まれるエアル王子が嫌うなど、よほどのことに違いない』


 それはアルデラ王城で共通の認識となり、メイドたちもロザリアとあまり仲良くならないよう、距離を取りはじめた。


 その後も、ロザリアは滅多にエアル王子と顔を合わせることはなく、会うとすればせいぜいが新年の挨拶くらいだった。


 それも、国王夫妻と大勢の家臣たちが見ている中、新年を祝う謁見の大広間で、エアル王子はロザリアへ嫌味を言うことが通例となっていた。


「まだいたのか。いつまで経っても我が国に馴染まないんだな、お前は。その髪も服も、一体誰が選んだ? 使用人もまともに選べないのか? もういい」

「新年早々、ただ黙ってじっとしていて恥ずかしくないのか? お前は本当に何もしないのだな。もういい」

「去年は一度も、ドレスを仕立てなかったそうだな。我が国が貧しいとでも思っているのか? 我がアルデラ王家に泥を塗るつもりか? それとも、みっともなく反抗しているつもりか? もういい」

「ああ、お前か。今年はもうお前の顔を見ずに済むと思うと、気楽でいい。何だ? 不服か? ふん、もういい」


 毎回、エアル王子はロザリアへ一方的に声をかけ、去っていく。そして、ロザリアはそれ以上大広間の空気が悪くならないよう、退出する。毎年のルーティンのように、見せ物のように繰り返される行事だった。


 ロザリアはエアル王子に気に入られるよう、努力しなかったわけではない。少しでもアルデラの魅力的とされる女性像に近づくよう懸命に黒髪を茶色に染め、服の色も明るめの赤やピンク、オレンジといった故郷ではまず見ない色彩をドレスに取り入れた。


 しかし、それでもエアル王子はまったくと言っていいほど褒めることはなく、ついには一瞥して言及さえしない、という状況が続いたため、次第にロザリアはエアル王子の前に出ることを控えるようになった。


 いっそ咎められたほうがまだいいほど無視を繰り返されると、ロザリアも努力の方向を変えようとアルデラの作法を習うようになった。テーブルマナーなどは習得しているが、話術や文章となるとまだ難しく、ロザリアは勉強に打ち込むようになる。


 ところが、そうするとエアル王子は周囲に、「またあれは引きこもっているのか」と漏らし、やはり気に入らないようだった。


 何をやっても、エアル王子はロザリアのもとへ会いに来ることはない。ロザリアが努力を諦めはじめると、必然人付き合いも減っていった。王侯貴族の集まりに顔を出す機会も減り、衣服や装飾品を新しく買うこともなくなり、人質の名目のとおり、ただ部屋で無為に過ごす日々が続く。


 そしてついに、今回の知らせだ。


 エアル王子は、旗頭とはいえ弱冠十八歳でアルデラ王国軍を任され、周辺国との戦いを次々と制し、ついにはロザリアの故郷ヴィリジアを滅ぼした。


 そこに、ロザリアの意思は微塵も含まれていない。今回の侵略も、ロザリアは一言も伝えられていなかったのだ。


 わずかに隙間を開けた部屋の扉の向こう、廊下でメイドや侍従たちが噂話をしている。当然、ロザリアの耳にもその声は届いていた。


「エアル王子殿下は……いや、帰国次第、王太子となられるか。あの方は本当に才気煥発で、我が国をさらなる繁栄へと導いてくださるだろう」

「でも、お妃様はどうなさるのです? まさか、あの陰気なロザリア様は選ばれないでしょう?」

「そうだな、王子とあの方は、現状ただ婚約しているに過ぎない。しかも、ヴィリジア王家がなくなったのならその婚約も無効だろう」

「ならよかった。五年も放ったらかしで、今更結婚なんてありえませんね」


 周囲から、同意の声が挙がる。


 はあ、とロザリアはため息を吐いた。


 ロザリアは、これからの己の運命を理解している。


 元々、ヴィリジア王家との縁組に否定的なエアル王子は、今回の侵攻で婚約者ロザリアとの破談を決定的にした。では、アルデラ王国に居場所のないロザリアは、もはや滅亡した国元に戻ることはできず、どこかに嫁がなくては生きていけないが、アルデラ王国内や周辺友好国に亡国の王女を迎えようとする王侯貴族はいないだろう。アルデラ王国からヴィリジアの復活を企むなどと因縁をつけられてはたまらない、それよりエアル王子のご機嫌を取るほうがよっぽど実利に適い、有意義だ。


 ロザリアの帰る場所はもうなく、この大国のどこにも居場所はない。


 ならば、どうすればいいのか。その答えは、ロザリアの中ではとうに出ている。





 数日後、エアル王子が軍をともなって王都へ凱旋した。


 早馬の報があった日から逆算しても、素早い帰還と言える。


 そして、エアル王子はその日のうちに、何の連絡もなく突如ロザリアの部屋へとやってきた。


「戻ったぞ、ロザリア」


 長旅の疲れを見せない堂々とした王子の帰還は、人臣を喜ばせたことだろう。


 エアル王子はそれだけ潑剌(はつらつ)とした好青年だ。久しぶりにその姿を見たロザリアも、認めざるをえない。


 だが、そんなことはどうでもよかった。


 ロザリアはいつもどおり、バルコニーの手前から外を眺めていた。窓を開け放し、部屋の真下にある王宮庭園から漂う季節の花の香りや色とりどりの草木を見ることだけが、この五年間の唯一の慰めだった。


 ロザリアは一歩も動かず、距離を取りながらエアル王子へ丁寧に一礼する。


「殿下……お久しゅうございます」

「何だ、嬉しくなさそうだな。俺が会いにきたことが気に入らないのか?」

「いいえ。このたびの戦勝、まことに喜ばしく」

「そんな話をしにきたわけではない!」


 エアル王子は話を遮る。いつものことで、ロザリアも気にしない。


 早口でまくし立てられる前に、主導権を握られる前に、ロザリアはこう切り出した。


「ええ、そうですね。私も、本題に入りとうございます」


 ロザリアは、虚を突かれて一瞬ためらい、会話の後手に回ったエアル王子を真正面に見据え、はっきりと言い渡す。


「殿下。あなた様との婚約は、破棄いたします」

「……は?」

「私はもう、自由です。故郷も失い、あなた様の寵愛は得られず、何の価値も残っていない。であれば、私を縛る鎖は何一つとしてございません。ああ、よかった」


 ロザリアは無意識のうちに微笑んでいた。これまで一度も、エアル王子の前で心から微笑んだことなどなかったが、これが最初で最後だ。


 ロザリアはバルコニーへ足を踏み出し、石の手すりへと腰掛ける。


 目を閉じ、今生の別れを告げた。


「では、ごきげんよう。あなた様の前途(ぜんと)に、(さち)(おお)からんことを」

「待っ——!」


 いくらエアル王子でも、言葉よりも早く動けやしない。


 ロザリアはその背から、体を空へ投げ出す。誰も邪魔することなく、細身の体は宙を舞い、四階のバルコニーから王宮庭園の小道へと落ちていった。


 この世に居場所がなくなったことを悟った亡国の王女ロザリアは、自ら命を絶ったのだった。






 ロザリアに十歳以前の、故郷の記憶はほとんど残っていない。故郷ヴィリジアは貧しく寂しかったという肌感覚だけは、身に染みて覚えている。それだけだ。


 それは、栄華を誇るアルデラ王国王都での刺激的な毎日と、エアル王子に気に入られようと必死で身だしなみから礼儀作法まで学んだ日々がすっかり記憶を上書きし、その努力に報いるように与えられた恥辱と疎外がロザリアの感情や記憶の大半を削っていったからだ。


 しかし、それもすべて無駄だった。アルデラ王国で暮らした五年間、ロザリアはエアル王子や周囲の人々へ悲しみや怒りといった感情を持っても無駄だと諦め、歓心を買うどころか誰の助けも得られないと確信し、まるでいつ来るかも分からない死刑の日を待つ囚人のような気持ちで生きてきただけだった。


 それ以外に、何も考えられない。考えたところでつらくなるだけだと思い至った。


 そうして、せめて礼儀としてエアル王子へ最後の別れを告げてから、死んだつもりだったが——。


 どういうわけか、ロザリアは王城の薄暗い廊下にポツンと立っていた。


 廊下には誰もおらず、採光用の大窓からわずかな星明かりが差し込むのみで、火の点いた燭台は一つも見当たらない。


 徐々にロザリアの朦朧としていた思考は鮮明になっていき、ぼんやりとしていた感覚は冷たい空気に触れるようにはっきりとしてきた。


(ここは……王城よね?)


 あたりを見回せば、なんとなく見覚えのある廊下だった。


 ここはロザリアにあてがわれていた四階の部屋の前、扉の先には最後の記憶のとおりの部屋が残っているはずだ。


 ロザリアは部屋へ足を踏み入れるため、扉のノブに手を触れようとした。


 ところが、ロザリアの右手はするりと通り抜けてしまい、扉のノブを掴めない。


(触れない。ということは、私は……ベランダから落ちて死に、幽霊になったのかしら)


 幽霊ならば、モノに触れられないのも道理だ。そして、幽霊なら扉を開ける必要もなく、ロザリアはそのまま進んで扉を透過し、自分の部屋へ帰ってきた。


 よく考えると廊下の床はすり抜けないのだろうか、とロザリアは心配になったが、どうやら幽霊も壁は自由にすり抜けられないらしい。扉を透過できたのは、『()()()()()()()()』と認識しているから、かもしれない。


 そんな推測よりも、ロザリアはひとまず、()()()からそのままに放置された部屋の、天蓋付きベッドに腰掛けた。


 王子の婚約者にしては簡素で、質素な部屋だ。クローゼットはなく、粗末な衣装掛け(ラック)が一つ、古いドレッサーが一つ、天蓋付きベッドとスツールが一つずつ、それだけしかない。


 それもそのはずで、この部屋にエアル王子からの贈り物は一つとしてなく、王室から支給される生地やわずかな下賜金で身を整えなくてはならなかったロザリアは、倹約のためほとんど自分で服やドレスを直し、あるいは作っていた。


 もちろん出来栄えはよくないが、人前に出なくなってからはそれでも十分だった。身の回りの世話をする専属のメイドや教師を雇えればよかったが、余計なことをして反感を買いたくなかったのだ。


 ロザリアは何も変わらない部屋に安心を覚え、そして暗澹(あんたん)とした気持ちになった。


(誰一人として私がいなくなったって困らない。部屋はそのまま、いずれ片付けられて何もなくなり、新しい部屋の主人を迎えることでしょう。それとも、縁起が悪いからと放置されるのかしら。私にはもう関係のないことね)


 王城の人々がロザリアの部屋を放置している意図は分からないものの、どうせ大した意味はないだろう、とロザリアは見切りをつけた。いつだって、嫌われ者は避けられ、無視されるものだ。


 それよりもと、ベッドに背中から倒れ込み、ロザリアは未だこの世に留まる自分の今後について頭を悩ませる。


 人間が死ねば、霊魂は肉体から抜け出してこの世からあの世へ——つまり、冥府へと向かうものだ。しかし、なぜかロザリアは幽霊となって、まだ生前の場所でうろうろとしている。


 これではいけない、だけどどうすればいいのか。


(私は、このままあの世に行くことができないのかしら。早く行ってしまって、この世からいなくなりたいのに)


 ロザリアの脳裏には、ヴィリジアにいた家族の顔さえ浮かばない。十歳という子どもが、異国で孤独にも必死に生きてきたせいで、何もかも忘却の彼方へ押しやってしまったのだ。


 ロザリアの頭に思い浮かぶのは、一度見たら忘れないような好青年のエアル王子、何度か世話になったメイドやエアル王子の側近の顔、そのくらいだ。国王夫妻とも年に一度しか会わなかったため、ぼんやりとしか憶えていなかった。


 あれこれと悩んでいたロザリアは、ふと気配を感じて、ベッドから起き上がる。


 いつの間にか、ベッド脇のスツールにまんまるのお腹をした赤い蛇がいた。その蛇は小さな一対の蝙蝠の翼を持ち、首をもたげると同時にふよふよと空中に浮かぶ。


「やあ、ロザリア」


 やけに可愛らしい声で、まんまるの赤い蛇はロザリアの名を呼んだ。


 ロザリアは驚き、目を見開いてまじまじとまんまるの赤い蛇を見つめる。大きなネズミでも食べてしまったのかと思うほどその腹は丸いし、小さすぎる翼はきっとこの蛇の体を支えられないからただの飾りだろう。


 『翼ある蛇』といえば、超常的な存在としてよく知られている。蛇というだけでも長寿で、脱皮を繰り返す特徴的な生態から永遠と死を司ると看做されることも少なくないし、アルデラ王国でもヴィリジアでも生死を超越した存在として崇められている。


 そんなものがロザリアの眼前に現れて喋っているとなると——いや、幽霊になると奇妙なことがあるのかもしれない、と一旦冷静になって、ロザリアはまんまるの赤い蛇へ問いかけた。


「あなたは?」

「僕はサリーさ。冥府からの使者と思ってくれていい」


 案の定というべきか、まんまるの赤い蛇はこの世のものではなかった。あの世にある死者を統括する『冥府』からの使者、ということは、間違いなくロザリアが死んだのにこの世に留まっていることが関係している。


 急にロザリアは申し訳なくなり、まんまるの赤い蛇へ謝った。


「ああ……ごめんなさい、私は早くあの世へ行かなくてはならないのに、どうすればいいのか分からなくて」

「謝ることはない。君が原因じゃあないからね」


 細く二股に分かれた舌をちろちろと出して、まんまるの赤い蛇こと『サリー』はそう言った。不思議と蛇への恐怖はなく、むしろとぼけた愛らしい仕草のように見える。


 それはともかく、この状況について、冥府からの使者であるサリーはその原因を知っているはずだ。


 そう考えたロザリアは、親切にもおしゃべりなサリーの話へ耳を傾けた。


「君に対して、多大な未練を残している人間がいるのさ。そいつのせいで君はこの世に縛られたままだ。だから、それを解決してから君を冥府へ連れていきたいんだけど……僕一人では不案内だから、君にも協力してもらいたいんだ。頼めるかい?」


 そう言って可愛らしく首を傾げたサリーの言葉が正しければ、であるが、ロザリアとしては協力は願ってもない。


 他にやるべきこともなければ、どうすべきかも分からない以上、ロザリアは冥府からの使者を名乗るまんまるの赤い蛇サリーを信じるほかない。


 それに、死んだなら早くあの世に行かなければいけない理由もある。


「分かりました。私も、いつまでも霊魂のまま漂っていては悪霊になってしまいますから」

「うん、理解が早くて助かるよ。ひとまず、霊魂の君に繋がる因果の糸を巡っていこう」


 どうやら、ロザリアの知る——あの世へ行かず、この世に留まりつづけた死者の霊魂は悪霊になる、という俗信は本当だったようだ。


 ロザリアは悪霊になりたくもなければ、この世に留まりたくもない。一刻も早く、どうしようもなかったこの人生を忘れたいのだ。


 ふよふよと宙に浮かんで飛んでいくサリーに導かれ、ロザリアはためらいなく、かつての自分の部屋を後にした。





 王城の三階以上の高層階は、本来居住用スペースではない。滅多に使われない客間や美術品収蔵庫、物置と化した部屋、衣裳部屋などばかりで、普通なら出入りしやすい一階か二階部分に居室を持つ。エアル王子の婚約者だったとはいえ、ロザリアは腫れ物を扱うように、四階の片隅へ追いやられていたに過ぎない。


 ロザリアは、滅多に降りない王城一階の廊下を歩くだけでも緊張する。幽霊になって誰にも見えないと分かっていても柱の影(づた)いに隠れて進むし、人が通りすがれば身を隠そうとしてしまう。


 ロザリアの悲しい習慣を見て、サリーは呆れていた。


「ここは君の家だったんだろう? なぜそんなにもコソコソと?」

「いえ、これは癖というか……エアル王子に出会わぬよう、それと噂好きなメイドたちに見られぬよう動いていたものですから」

窮屈(きゅうくつ)な暮らしだったんだね」

「そうですね。何も、いい思い出はありませんでした」


 もはや、ロザリアは思い出を振り返らず、切り捨てている。私の人生は何もいいことはなかった、それ以上、感想も感傷も、何かを思う必要はない。


 ロザリアは自分の左手を胸の前へ掲げる。


 今のロザリアの左手薬指の先からは、幾本かの淡く光る糸が遠くへと伸びていた。それぞれ太さは違い、サリーの言うところによれば、ロザリアへの未練の大きさが大きければ糸も太くなり、その分ロザリアの魂をこの世に縛りつけているそうだ。


「細い糸はそのうち切れるだろうからいいとして、問題は太い糸だね。この()り合わさった二本を処理できればいいんだけど、見てよこれ、君の小指くらい太いんだからさ」


 確かに、ロザリアも不気味だった。


 左手薬指から伸びる糸のうち、二本は自分の小指と同じくらい太く、もはや糸や紐ではなく(つな)だ。しかも他の糸もまとめて絡まっているようで、そのややこしさは事情に明るくないロザリアも一目で見てとれる。


 だが、逆に言えば、それさえ何とかなればいいわけだ。


 サリーとともに、ロザリアはちゃんと燭台に火の灯った廊下を、糸を追いかけて進んでいく。


 幽霊となると少し歩く速さが上がっているようで、走るような速さで滑るように進むことができる。


 これはちょっと楽しい、などとロザリアが子どもっぽくはしゃいでいると、急に冷や水をかけられる事態に陥った。


 太い糸の先が、眼前の廊下にいるとある人物の背中の真ん中へと繋がっていたからだ。


 サリーは、その人物——背の高い偉丈夫であり、三十手前ほどの男性——へと首ごと向けて指し示す。


「この糸は、あの男に繋がっているね。誰か分かる?」


 ロザリアは一瞬ためらったのち、『アルデラ王国においてはエアル王子に次ぐ輝かしい人物』と目されるその男性の名を口にした。


「エアル王子の側近であるリーガン卿です」

「会ったことは?」

「何度か。でも、挨拶以外に言葉を交わしたことはありません」


 それもそのはずだった。エアル王子の腹心中の腹心、ナバルシア伯爵リーガン卿はエアル王子の幼少時からの筆頭騎士兼傅役(もりやく)であり、数々の華々しい戦功と領地経営の見事な手腕で知られる。


 エアル王子が君子不器(くんしふき)の天才肌ならばリーガン卿は碧血丹心(へきけつたんしん)の秀才肌であり、その優れた才覚の持ち主同士、特に気心の知れた親友でもある——となれば当然、リーガン卿もまた主君であるエアル王子と同じように、ロザリアを遠ざけていた。


 ロザリアは、今更リーガン卿に恨みはない。だが、あまり会いたいとは思わない相手だ。


 リーガン卿は衛兵行き交う廊下でももっとも大きな扉の前に立ち、中にいるであろう部屋の主へと声をかけた。


「殿下、リーガンです。おられますか?」


 リーガン卿のその憂いを帯びた横顔ときたら、舞踏会の令嬢たちだけでなくメイドたちまでうっとり惚れさせる玉艶の色気さえ滲み、天は気に入った人物には二物も三物も与えるものだと思い知らされる。


 ため息を我慢して、ロザリアは思い出したくもない人生の思い出に引きずられまいと意識を現実に留めた。


 ちょうど、リーガン卿は扉を開けて中へ入っている。まんまるなサリーはふわりとロザリアの目の前に浮かび、促した。


「ついていこう」

「……私も、ですか?」

「そうだよ。ほら、早く」


 つい、ロザリアはとぼけたことを言ってしまった。サリーに引きずられるように、ロザリアはリーガン卿の背を追っていく。


 行きたくないと思いながらも、行かなければならない。いつものことだが、つらいものだ。


 リーガン卿が『殿下』と呼ぶ人物はただ一人しかいないのだから、その部屋へ入るということはロザリアの古傷を抉るようなものでしかない。


 そこは広く、豪奢で、一流の調度品が揃えられた執務室だった。シャンデリアが昼間のように明るく照らし、ガラス窓に反射する光は闇夜を遮る。あらゆる人々からの期待が形になれば、こうもきらめく場所を与えられるのか、と思うほどに。


 金髪の青年が、頬杖を突いて分厚いソファのようなアームチェアに座っていた。執務机から離れ、応接用の長ソファにも頼らず、独りポツンと窓辺でどこか遠くを眺めている。


 金髪の青年のどこか虚ろな横顔を目の当たりにし、小さなため息を吐いたリーガン卿は、扉を閉めると足音を立てずにそのそばへ歩を進め、こう言った。


「殿下。そろそろ、気持ちを切り替えてくださいませんか」


 労わっているようで諌めている臣下の言葉に、エアル王子は目も合わさず不機嫌に答えた。


「戦勝の式典には出ただろう。何が気に入らない?」

「この国と民は、あなたの号令を待っているのです。これからどうすべきか、次の国王としてあなたがどう振る舞うか。皆、その一挙手一投足を見ているのですよ」


 真剣な諫言にも、エアル王子は返事の代わりに、ふん、と鼻を鳴らしただけだった。


 すかさず、リーガン卿は不機嫌の原因に言及する。


「ロザリア姫のことは、心中お察しします」


 突如出された自分の名前に驚き、びくっ、とロザリアは肩を震わせた。


 ロザリアは、やめて、もう自分の存在をこの世に残さないで、とさえ思う。しかし、不幸にも、エアル王子とリーガン卿の間に(いさか)いの火種として残っているようだった。


 エアル王子は苛立ち、口調を荒げる。


「お前は何も分かっていない。あれは婚約を破棄すると言ったんだぞ。俺に対して、最大の不名誉を押し付けていった!」

「だとしても、婚約など最初からなかったようなものです。当事者たるヴィリジア王家が滅亡したのですから、婚約という契約自体が無効です」

「世間がそれで納得すると?」

「ええ。新たな婚約者を選びましょう。周辺国から、あなたに釣り合う身分の高い姫を探してまいります。まばゆいほどに美しく聡明な姫君が輿入(こしい)れしたとなれば、世間とやらはしばらくその話題で持ちきりでしょう」


 エアル王子の、憎々しさか悔しさかのあまり、歯噛みする軋んだ音が部屋へ響く。リーガン卿はきわめて冷静に、エアル王子の怒りを買っても物怖じする様子は微塵も見られない。


 ロザリアは何も言えない。幽霊になろうとなるまいと彼らに口を挟める立場にはないし、そもそも()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 もちろん、エアル王子や周辺への当てつけの意味がまったくなかったわけではないが、ロザリアにとっては()()()()()()()()。これから死ぬ人間がどうして残される人々の感情を気遣う必要があるのか、と投げやりに、無関心になっていただけなのだ。


 ここまでエアル王子やリーガン卿をわずらわせ、怒りをあらわにさせるほどのこととは思っていなかっただけに、ロザリアは底知れぬ罪悪感から床へと目を逸らす。


 一方、サリーは自分の仕事を忘れていなかった。


「うーん、今の言い合いで少しは(ほど)けたみたいだし、時間が必要なタイプかもね。だったら放っておくしかないか。絡まらないようほぐしておこう」


 すると、サリーはどこからともなく木製の大きな糸紡ぎ櫛(コーム)を取り出し、蛇の口にくわえてロザリアの指先から伸びる糸を丁寧に()いていく。淡く光る糸のうち、梳かれてポロポロと光の粒子が落ち、細く切れていくものとともにそのまま消えていき、残る糸たちもだんだん細くなっていく。


 それでも、リーガン卿の背中に伸びる綱のような糸はまだ残り、もう一本ある外のどこかに繋がっている太い糸もほつれがなくなっただけで健在だ。


 一生懸命に糸を梳くサリーへ、この場にいたくないロザリアは急かす。


「……サリー、もういいかしら。リーガン卿は私のことを忘れさせようとしているし、未練があっても時間とともに消えるなら、ここに残る意味はないでしょう?」

「そうかもしれないけど」

「別の場所にも繋がっているかもしれないわ。私は、外で探します」


 サリーの返事を聞くことなく、ロザリアは二人に背を向け、駆け足で部屋を飛び出していく。自分でも思った以上に速さが出ていることにさえ気付かず、幽霊だということも忘れて人々の間を縫うように廊下を突き進んだ。


 さっきのエアル王子とリーガン卿のやり取りが茶番ならよかったのに、と後悔がロザリアの心へ止めどなく湧いてくる。


 今更だ、エアル王子は今まで自分を蔑ろにしてきたじゃないか、といくら斜に構えて開き直ろうとしても、こんなはずじゃなかったのにと悔やんでしまう。


(……私は、自分の人生が嫌になっただけで、エアル王子のことなんて考えなかった。関心がなかった。あの人がどうなってもいい、そう思っていたはずなのに、どうして)


 自身の死を引きずるエアル王子の姿を見てしまっただけで、ロザリアは心が乱れた。


 エアル王子から受けた今までの仕打ちを忘れたわけではない、祖国を滅ぼしヴィリジア王家をなくして婚約は解消されていた。


 それはすべて、エアル王子が自ら考え、決定し、実行したことだ。最初からエアル王子がロザリアをぞんざいに扱い遠ざけることがなければ、アルデラ王国の人々もロザリアを表立って放置することはなく、王子の婚約者として婚約を解消される最後の日まで真っ当な待遇でいられた。


 少なくとも、アルデラ王国に来てからのロザリアの不遇は、エアル王子が元凶といっても過言ではない。


 だから我慢に我慢を重ねてきたロザリアは吹っ切れて、どうでもよくなって——自身はこの世に何の未練も残さなかった。


 だというのに、他人はロザリアへの未練を残す?


 一体、何を間違ってしまったのだろうか?





 ロザリアは、星夜の王宮庭園にいた。


 花々は眠り、虫の鳴き声とフクロウの不気味な地鳴(じな)きもあって、夜は王宮庭園に近づく者などいない。毎夜毎夜四階から眺めていても、誰一人として立ち入らなかったと知っているロザリアは、今にも泣き出しそうな顔でやってきた。


 そのロザリアを追いかけて、少し遅れてサリーもやってくる。まんまるの赤い蛇は、その体躯どおりそれほど速く飛べないらしく、ロザリアへ追いついたころにはフラフラよたよたと疲れ切っている様子だった。


「待ってよ、ロザリア」

「サリー……」

「はあ、疲れた。ほら、あったよ。因果の糸から未練の気持ちが」


 サリーは、蛇の口から綿毛のような光を吐き出した。


 ロザリアはそばに浮かぶその光を見つめていると、不意に頭の中へ声が響いた。


『なぜ、こんなことになってしまったのだろう。なぜ、殿下と姫をお支えできなかったのか』


 それは先ほど聞いたのと同じ、リーガン卿の声だった。


 しかし、その悲痛さと深刻さは、まるで先ほどとは異なる。


「これが、リーガン卿の()()()()()未練だよ。糸を梳いて集めてきたんだ」


 一仕事終えたらしきサリーへ、ロザリアは両手を伸ばして抱える。疲れ切ったサリーを放っておくのは忍びなくなり、つい両手で抱えてしまった。


 サリーもまんざらではないらしく、抵抗はしない。むしろ、ロザリアの腕の中で力を抜き、一息ついている。


 リーガン卿はやはりというべきか、今の状況を悔いていた。エアル王子と——なぜだかロザリアも一緒に、支えられなかったと未練を残しているようだった。


 ただ、ロザリアはそれをこう解釈した。


「……リーガン卿は、何よりもエアル王子が大事で、そのためなら命さえ投げ打ってしまうほどの方だった。だから、私を恨んでおられるのでしょう」


 リーガン卿がロザリアへ、お前が死ななければ、と恨みを持つことは別段おかしいことではない。エアル王子の素晴らしい価値をもっとも身近で知る人物であり、その反面、役立たずのロザリアを疎んでいたことだって十分考えられる。


 とはいえ、疎んでいたとしても最後までロザリアを利用するつもりはあったのかもしれない。だから突然死なれて困った——エアル王子の評判にも影を落としてしまった、ということだろう。


 そうロザリアはそう考えたのに、サリーはあっさりと否定した。


「うーん、これは違うね」

「え?」

「後悔の念、それに無力感。そういう感情ばっかりだよ」


 綿毛のようにふわりと、リーガン卿の未練の光は上昇し、小さくなっていく。それを見つめるサリーは、どういうものかすっかり分かっているようだ。


「未練というのはね、()()()()()()()()()()()なんだ。死者が未練を残すんじゃなくて、生者が死者への未練を生む。ときには、『無念にも死者がこう思っただろう』なんて想像までしてしまって、迷惑にも架空の感情を作り出すことさえあるんだ」


 光はどんどんと失われていき、やがて夜の闇に溶けた。まるで、リーガン卿の未練も失われてしまったかのように。


 冥府からの使者を自認するサリーの説明を聞いても、ロザリアはいまいち半信半疑だった。不思議なことばかり起きても、嫌なことも同時に起きてしまってすんなりとは頭に入ってこない。


 ただ、ロザリアの左手薬指の先から伸びていた太い糸の一つは、消え失せていた。サリーが糸紡ぎ櫛(コーム) で梳いて、未練をすっかり掃除してしまったかのようで——どうあれ順調に、事は前へ進んでいる。


 サリーに促され、ロザリアはしぶしぶ王城内へ戻った。


 細々とした糸たちと、もう一本の綱のような太い因果の糸を消すために、糸の先にいる人物を探さなくてはならない。


 サリーを抱っこしたままロザリアは王城の廊下を歩くが、何となく雰囲気がいつもと違うことにやっと気付いた。


 王城四階と違い、一階や二階は昼夜問わず人々が出入りし、忙しなく働いているはずだ。しかし、その熱気は感じられず、どこか空気に辛気くささが漂っている。


 そんなとき、サリーは通りすがりのメイドと衛兵を尻尾の先で指し示した。すかさず木製の大きな糸紡ぎ櫛(コーム)をポンと取り出し、ロザリアの指先から伸びる淡く光る因果の糸へ当てる。


「ちょうどいい、あそこのメイドと衛兵にも糸が伸びている。これも覗いちゃえ」


 サリーが首を懸命に動かして、細い因果の糸を糸紡ぎ櫛(コーム)で梳く。


 ごく小さな光の粒が、一つ、二つと糸からこぼれ落ち、消えていく。ロザリアは、その光の粒からこんな声を聞いた。


『せっかく殿下が戻ってきたというのに、どうしてこうなってしまったんだ。我が国はこれからどうなってしまうのだろう』

『お祝いだと思って準備していたのに、同僚たちは過労で次々と倒れてしまうし……病気だったらどうしよう、怖いわ』


 メイドと衛兵の抱えていた小さな不安と恐怖は、ロザリアへの未練——ロザリアの死に関係あるものだ。


 だとすれば、彼らはこう思っている。


「不安だらけだね。彼らは、きっと君が呪いをかけたとでも思っているんじゃない?」

「そんなこと、できるはずがないのに」

「そう、ただの思い込みさ。迷惑だよね、本当に」


 糸紡ぎ櫛(コーム)は因果の糸を梳いて解いて、なくしてしまった。彼らの不安や恐怖もいずれなくなるだろう。


 何度かそんなことを繰り返していると、ロザリアの指先に残るのは一本の太い糸だけになった。サリーが糸紡ぎ櫛(コーム)の歯を入れようとしても、(がん)として刺さらない。これは直接未練のある本人を探さなくてはならないようだが、ロザリアはどうにもやる気が出ない。


 ロザリアの身投げがエアル王子への当てつけならば、この未練の糸を解く作業はロザリアへの当てつけも同然だ。なぜ死んでもつらい思いをしなくてはならないのか、陰鬱とした気分になりつつも、ロザリアは口にしない。


 異国の地で、ロザリアは(ひと)り五年も耐えたのだ。今更、この程度の感情を制御できずに(わめ)いたりはしない。


 サリーを胸の前に抱え、王城のあちこちを歩き回っていたそのときだった。


 最後まで残っている太い糸が、くんっ、とロザリアの左手薬指を引っ張った。サリーはそれを見逃さない。


「おっと? 動いているね。これは何か、未練を消すきっかけとなるかも」

「では、追いましょう」


 薬指を引っ張る方向へと、ロザリアの足は向く。時間を経るごとに王城の廊下は蝋燭が尽きてゆき、ほの暗さを増していく。


 ロザリアに恐怖はない、先ほどまでの後悔も少し落ち着いてきた。それは、サリーが話しかけてくれるおかげでもあった。


「君は、若くして死んだのに冷静だね? 大体、行き場を失った霊魂は落ち込んで話にもならなかったりするのに」


 率直なサリーの言葉に、ロザリアは苦笑する。


「生きていても、死んでいたようなものです。やっと死という救いを得て安堵しているのです」

「ふぅん。強がりじゃないみたいだね」


 サリーの蛇の舌が、控えめに空気を舐めていた。蛇は舌先が鋭敏で、空気を舐めるように動かすことで様々な外界の情報を得ているという。サリーもきっと、それで人間の感情や未練の中身を読み取っているのだろう。


「未練という生者の呪いは、死者を縛りつける。死んでなお安らかに冥府の門をくぐれないなんて、あまりにもひどいことだ。だから僕みたいな使者がいて、君のような霊魂を未練の呪縛から解き放つんだ。とはいえ」


 サリーは一度、大きく舌を震わせた。


 ロザリアを引っ張る因果の糸は、古びて朽ちていくようにポロポロと光をこぼしはじめていたのだ。それでも太さは変わらず、ロザリアを引っ張る力も健在だ。


 やがて、ロザリアたちは王城の端のほうへと辿り着いた。長大な城壁の中でも、普段はあまり使われない催しのための建物や倉庫、そして王族の墓地が立ち並ぶ区画だ。


 区画の主のように、三つの尖塔を持った建物が、暗闇の中に現れる。この深夜にここを使う人間はいないだろう——何せ、教会なのだから。


「王城教会、ですか。糸はここに伸びているようですね」

「まったく、この糸の頑丈さったら、さっきのリーガン卿の未練よりもはるかに大きな未練がありそうだよ」


 サリーは口にくわえた糸紡ぎ櫛(コーム)で、糸をペチペチ叩く。


 それでもびくともしない因果の糸の先には、何かとんでもない出来事が待ち受けているのではないか。ロザリアは戦々恐々としつつも、歩みを止めない。


 教会の扉は大きな(かんぬき)でしっかりと閉ざされていたが、幽霊のロザリアには関係なく、するりと中へ透過する。


 静謐(せいひつ)な、そしてこの国でも有数の格式高い王城教会は、高い場所にいくつも設けられた窓から、外の星明かりが差し込んでいた。


 ロザリアの左手薬指から伸びる糸は、祭壇の前の床に安置された棺へと繋がっている。一方で、そこからもまた別の場所へと伸びる糸があった。


 信じがたいことに、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()のだ。


 言わば、棺の中の()()に因果の糸は引っかかっているだけで——では、中には何が入っているのか。


 薄々気づきながらも、ロザリアは確認のためにサリーへ問う。


「サリー……ひょっとして、あの棺は」


 サリーは断言した。


「うん、棺の中には君の死体がある。でも、これ以上近づいちゃいけないよ」

「どういうことですか?」

「通常なら、霊魂と死した肉体を一番太い因果の糸が結んでいるものだ。でも、大きな未練から伸びた別の糸が横からそれごと絡め取って、無理矢理君をこの世に縛りつけているんだ。こんなこと滅多にないよ、君もまとめて絡め取られないよう気を付けて」


 そこまで言われては、ロザリアは自身の棺に近づく気は失せたし、何なら今すぐ王城教会から出ていきたくもなった。


 そして同時に、疑問も浮かぶ。


「一体、誰が……?」


 ロザリアは不審で、不気味でたまらない。


 ロザリアとは反対側の糸の先にいるのが一体全体誰だか知らないが、自身に対してそこまでの未練があったのなら、どうして生きているうちに助けてくれなかったのだろうか。


 もっとも、死んでからそんなことが分かってもどうにもならない。もう、ロザリアはこの世から旅立ち、冥府へ行く他ないのだから。


 ロザリアは、どこか冷めた目で己の棺を見下ろしていた。どうせサリーが何とかしてくれて、自分は未練を残さずあの世へ行けるだろう。そんな根拠のない楽観にも似た諦観が、わずかに首をもたげつつあった期待を否定するために使われる。


 サリーが、また奇妙な道具をどこからともなく取り出した。今度は小さな金の糸紡ぎ車(フライホイール)だ。ロザリアとは反対側の、棺から伸びる光る因果の糸を勢いつけて引っ張り、ひとりでに浮かぶ紡錘(スピンドル)へと強引に巻きつけていく。


 本来の使い方よりもずいぶん乱暴に糸を紡ぎ引っ張る小さな金の糸紡ぎ車(フライホイール)は、激しく回転しながら未練に塗れた因果の糸を細くする。その際に火花のように光の粒があちこちに飛んでは消えていくが、その量はまったく減る気配はない。


「ここまで未練が強い糸なら、思いっきり糸紡ぎ車(フライホイール)で引っ張ったって大丈夫。もうじき相手が来るよ。少し待とう」

「……はい」


 サリーはそう言って、教会に並ぶ最前列右側の長椅子へぽふんと落ち、転がった。ロザリアはその隣に腰掛ける。


 空中で回る糸紡ぎ車(フライホイール)を眺めながら、亡き王女ロザリアと冥府からの使者サリーの奇妙なおしゃべりは始まった。


「君は、人生への未練が本当にないの?」

「ええ。私の居場所はどこにもありませんでしたし、故郷から離れて久しいものですから……何も、思い出が残っていません。華やかな都市の生活も、貧しいながらも楽しかったはずの生活も、父や母の顔も、アルデラ王城の人々の顔も、何も残っていないのです」

「そうなんだね」

「寂しい人生だったと思いますか?」

「いいや、そんなことを言ってしまったら、人間誰しも寂しいものさ。孤独の中で生きる喜びを得た賢者も、豪華な屋敷で満たされない欲望に悩む老人も、親に捨てられた子どもも、恋人を突然の病で失った乙女も、寂しいわけじゃあない。だって、いちいちその人生に意味を見出す必要はないからね」

「それは、その人たちに、価値がないから?」


 ううん、とサリーは頭を横に振る。


「君たちはすぐに価値を欲するけど、その考えが間違っていると思ったりはしないんだよね。昔からそうだ、王様も貧乏人も老若男女誰しもが、価値があっただの、役に立った立たなかっただのそんなことばかり言って、人生の総決算をしようとする。もっとずっと、答えが出ないまま悩めばいいのにね」


 ロザリアは何も言えなかった。


 しかし、ちょうどサリーは来訪者の気配に気付き、長椅子からふよんと浮かんで振り返る。


「ほら、来たよ。あいつが、未練という呪いで君を縛っている張本人だ」


 ロザリアもサリーに倣い、腰を上げて背後へ振り返った。


 王城教会の扉の片方が開き、一人の男性が静かにやってくる。


 その姿は、あまりにもロザリアの記憶と違っていて、一瞬見間違いかと思ったほどだ。焦燥し切った目つき、不安定な足取り、抱えた箱を今にも落としそうなやつれた顔つき。


 逡巡した末に、ロザリアはついに彼の名を口にした。


「エアル王子……?」


 輝ける金髪と溢れんばかりの才気に彩られていたはずのエアル王子は、幽霊のロザリアよりもよほど悪霊じみた、異様な雰囲気をまとっていた。





 王城教会へ突如現れた——いや、小さな金の糸紡ぎ車(フライホイール)に引っ張られてやってきたエアル王子は、無言のまま最前列左の長椅子に座り、しばらくぼうっとしていた。


 その傍らには大きな白い箱が置かれ、エアル王子は片時も手を離さない。


 小さな金の糸紡ぎ車(フライホイール)を止めたサリーは、じれったいのか口を尖らせていた。


「あいつ、いつまで座ったままなのかな。荷物を開ける素振りもないしさ」

「分かりません。何を考えているのかさえ、ずっと理解できないままでした」


 思えば、生前のロザリアはエアル王子から罵倒以外の言葉を受け取ったことがない。


 その真意を確かめようにも、エアル王子の機嫌を損ねてはならないと周囲に諫言されたこともあって容易に接触できず、ロザリアは色々と限られた範囲でエアル王子の気を引こうと試してはみたが、どれも失敗に終わった。


 努力は実を結ばず、そして今に至る。ならば、ロザリアにエアル王子の気持ちなど、分かりようがないのだ。


 幽霊ながら気まずくなり、ロザリアは話題を変える。


「サリー、気になることがあるのですが」

「何だい?」

「あの世、すなわち冥府に行けば、先に死んだ家族と会えたりはするのでしょうか?」

「うーん、よく聞かれるけど、大体は無理だね」

「そう、ですか」

「簡単に言うと、冥府の門前には忘却の川が流れていてね、そこでこの世の記憶やしがらみはすべてなくして、死者は冥府神の裁定を受けるんだ。生前の行いは関係ない、そこからの行き先は純粋に魂の性質だけで決まるのさ」

「なるほど……それでは確かに無理そうですね」


 冥府の仕組みを聞いても、ロザリアとしては大して残念でも何でもなかった。そういうものだ、と受け入れるしかないし、ロザリアの人生のほとんどは抗うことなく受け入れるしかないことばかりだったから、不服はない。


 魂の性質。その基準で言えば、冥府からの使者たるサリーから見て、エアル王子の魂はやはり輝いているようだ。


「性質だけで言うと、あの男は本当に輝かしい魂を持っているね。いつの時代でも英雄になれる素質の持ち主だ。滅多にお目にかかれないよ」


 だとすれば、ロザリアは己の無能さとお荷物具合を再確認させられる。


「私はそんな彼に気に入られることもなく、五年もの間、邪魔をしてしまいました。私がいなければ、もっと魅力的な女性と気兼ねなく出会えたでしょうに。かわいそうなことをしてしまいました」


 それは間違いなく、ロザリアの本心だ。


 ただ、サリーは思いっきり首を傾げた。


「そうかい?」

「あなたから見て、違いますか?」

「少なくとも、荷物の中身を見れば分かるんじゃないかな。ほら、開けようとしている」


 ロザリアはエアル王子のほうへと振り向く。


 エアル王子が傍らに携えていた大きな白い箱の蓋は開かれ、押し込められていた中身が少し膨らんで出てくる。それを丁寧に持ち上げ、エアル王子は立ち上がって全体を軽く一振りする。


 純白のドレスだ。緻密なレースと極小の宝石があしらわれ、スカート部分の絹の照り返しがさらにまばゆく輝かせ、その光は王城教会の片隅まで届くほどだ。


 エアル王子はそのドレスを広げ、棺の上にかけた。とても、故人への贈り物以外の意味は見当たらないがゆえに、ロザリアは困惑する。


(見たことのないドレス……いえ、これは、ウェディングドレス? どうして、棺に収まっている死体は、私でしょう?)


 エアル王子は棺を見下ろし、じっとたたずむ。


 そのとき、因果の糸から弾かれた未練が、王城教会に反響する。


『馬鹿な女だ。ここまで馬鹿とは思いもしなかった』


 ロザリアが聞き慣れたエアル王子の罵倒にはいつもの威勢がなく、ただただ寂寥(せきじゃく)の意思だけが感じ取れた。


『お前を死なせないために、お前を見捨てたヴィリジアを滅ぼしたのに。そうしてこの城の馬鹿どもをお前から遠ざけさせて、俺が華々しく文句のつけようのない戦果を挙げて、やっと堂々と迎えに行けると思ったのに。すべてが水の泡だ、馬鹿』


 未練から溢れた後悔ばかりが千本の針のようにロザリアを刺し、どうしようもない運命を呪うのは自分だけではなかったと気付かせる。


 まもなく、王城教会へ、エアル王子を追いかけてきたリーガン卿が慌ててやってきた。


「ここにおられましたか、殿下」

「リーガン、ついてくるなと言ったはずだ」

「諦めてください。もうロザリア様は亡くなったのです」

「誰のせいでこうなった。正直に言ってみろ」

「殿下、後悔してもどうにもなりません。()()は最後に失敗してしまった、それがすべてです」


 喧嘩腰のエアル王子へ、リーガン卿は努めて諭そうと必死だった。


「殿下がロザリア様を愛するがゆえに遠ざけたことが間違いであったとしても、他に手はありませんでした。私から見てもロザリア様をここまで——暗殺を阻止しながら、政治的利用を断じて避けながら、あの日まで無事生存させることは難しかったと思うのです。あなたは失敗したとはいえ、ロザリア様を守ろうとした意思と感情は確かに存在した。それは、事実です」

「だからと言って——!」


 エアル王子とリーガン卿の言い争いから少し離れた場所で、サリーは納得したように頷いていた。


「ふむふむ。『死者の帳尻合わせ』だね」

「それは、一体?」

「本来、生者の寿命は生まれたそのときにある程度決まっている。偶然の出来事も含め、多少は伸び縮みするけど、大して変わるわけじゃないのさ。でも、他の生者が——多くの生者や強大な願いのもとに、ある生者がもっと長く生きることを望むなら、例外的に年単位で寿命が増えることもある。逆も然りだけどね」


 まだロザリアにはピンと来ない。初めて聞くことばかりで、いささか理解が追いついていなかった。


「しかし、それでも決定的な死は避けられず、運命が劇的に変わるわけじゃない。いつかどこかで帳尻を合わせなければならなくなる。さらには、無理を願ったのなら願った生者はその対価を払わなくてはならない」


 死、という単語に、今この場で一番親しんでいるのはロザリア自身だ。


 ロザリアの死は、エアル王子をここまで追い詰め、取り乱させた。リーガン卿曰く、エアル王子とともにロザリアを守ろうとした結果失敗に終わったらしいが、そんなことはロザリアもまったく知らなかった。知らされなかった。


 本来ならロザリアは、もっと早く死んでいたのかもしれない。


(——だから?)


 暗殺や政治的利用でロザリアの命が絶たれる運命は、エアル王子によって避けられたのかもしれない。


(——だとしても)


 未練の感情は王城教会の床中にばら撒かれ、それらはエアル王子に端を発するものばかりだ。偽りない本心だとすれば、だが。


 しかし、それよりも、『死者の帳尻合わせ』としてロザリアを()()させた『対価』の話だ。


 無意識のうちに、ロザリアは声を震わせていた。


「……まさか。エアル王子は何を差し出すのですか? サリー、あの方から何を奪うと言うのです?」

「落ち着いて、ロザリア。何も、寿命の対価に寿命をもらう、なんてことはしないよ。冥府にだって情はある、もっともそれは運命を滞りなく巡らせるための方便だけどね」


 まんまるの赤い蛇は、そのつぶらな瞳をまだ大声で怒鳴りあっているエアル王子へと向けた。


「彼は一生、君を失ったことを後悔して生きていくのさ。彼の高潔なる魂の最大の汚濁となって、死ぬまで苦しみとともに抱えつづける。君を想わなければそんなことはしなくて済んだだろうけど——()()()()()()()()()()。それは履き違えちゃいけないよ、ロザリア」


 さらりと、サリーは言ってのける。ロザリアの心中を慮ってのことか、それとも職責を果たしただけなのかは分からない。


 ロザリアの死を後悔するのは、エアル王子だけではない。ロザリア自身も、リーガン卿もそうだ。どうして生きているうちに話してくれなかったといくら(わめ)いても後の祭りで、彼らがロザリアを生かすために最善を尽くした結果だと分かっていても納得がいかない。


 ロザリアの故郷ヴィリジアが、アルデラ王国に反抗的だったことは事実だ。他の周辺国が服従を選択する中、関係改善のためにロザリアをエアル王子のもとへ嫁がせただけで、結局両国は戦争になってしまった。


 ならば、アルデラ王国側でももっと早くロザリアとの婚約を破棄して、送り返すなり見せしめの処刑をするなりといった手段を取るよう意見が出たはずだ。それらをエアル王子は退け、ヴィリジアという懸案自体を消し去るしかない状況でそれを達成し——大事なことをロザリアへ何も言わなかった。どこに耳があるか分からないから、真意を言えなかったのだ。


 そうして残ったのが棺の上のウェディングドレスだけだとすれば、運命とはあんまりではないか。


「君は彼を恨むかと思ったけど」

「……恨む? それこそ筋違いです。私は彼の重荷でしかなかったのに、死んでもなお互いに自由になれないのですから、私はその運命をこそ恨みます」


 最初から、ロザリアはエアル王子を恨んだりしていない。エアル王子に憐れみを抱くことはあっても、罵倒されて悲しくなったとしても、エアル王子も決して自由ではないと知っていたからだ。


 あれほどの才能を持つ青年であっても自由に動くことはできず、好きなように物事を決めることはできない。その苛立ちはいかほどか。それに、次第にロザリアは何もかもを諦め、激しい感情を抱くことは一切なくなっていったから、余計にエアル王子へ負の感情を持つことはなかった。


 気の毒に。それが、ロザリアの持つ、エアル王子への嘘偽りない本心だ。


 とはいえ、ロザリアもいつまでもこうしてはいられない。


「ねえ、サリー。エアル王子の未練は、一生晴れないくらい深く大きなもの、なのかしら。だとしても、その未練が晴れないかぎり私はあの世に行けないのでしょう? どうすれば」

「うん、どうすれば、という言葉の意味を、正確に捉えなくちゃね。君は冥府へ行きたい、彼は君を離したくない。これは正しい?」

「ええ、もちろん」

「だけど、彼は君に大きすぎるほどの未練を抱いている。そのせいで君は冥府へ向かえず、その未練をすっかり晴らさせないといけない。愛する君をあらゆるものから守れなかったという未練が、どうすれば晴れるだろうか……こういう理解でいいね?」


 サリーの指摘と総括に、ロザリアは頷く。


 ただ、一点だけ、まだ信じがたいことも含まれていた。


「実感が湧かないのです。彼は本当に、私のことを愛していたのでしょうか。目の前で私の死を嘆いていても、まったく信じられないのです」

「嘘じゃないか、あるいは、感傷に浸っているだけじゃないか、そんなふうに?」

「……はい」


 ロザリアは可哀想な気もするが、エアル王子のすべてを信じることはできない。今までの仕打ちもあるし、一度でも優しくしてくれたなら話は違っていただろうが——。


 ならば、とサリーは虚空から一本の金の裁ち鋏を取り出した。蛇の口にくわえたその切先は、ロザリアの棺からエアル王子へ繋がる糸へと向けられている。


「もしこの因果の糸を僕が断てば、君を縛る未練はなくなり、君は冥府へ行くことができる。その代わり、未練を残しすぎているエアル王子はその精神的反動に耐えられず廃人になるだろうね」


 ロザリアは、サリーの残酷な宣言にショックを受ける。


 素直に頷けるようなことではない。晴らす恨みもなければ、そこまでする気概もないロザリアにとって、論外の選択だ。


 ところが、サリーはロザリアの反応を意外そうに見ていた。


「それは嫌なのかい?」

「と……当然です。私のせいで、エアル王子が廃人になるなんて許されません。私よりもずっと人々に愛されて、必要とされている人なのですから」

「だからさ、その考えはおかしくないかい? 役に立つ人は残さないといけないの? 役に立たない人は死んでもいいの?」


 一瞬、ロザリアの口から反論が出そうになったが、何とか飲み込んだ。


 サリーへ、はいと答えても、いいえと答えても、ロザリアには納得できない。


 エアル王子は生きるべきだ、そのほうが世の中のためだ。


 ロザリアは死ぬべきだ。もう死んでしまっているし、自ら選んだことだ。


 それらの考えは、間違っていることなのだろうか。


 間違っているとは言い切れなくても、ロザリアは死にたかったわけではなく解放されたかっただけだ。エアル王子は未練と後悔で生きる気力を無くしたとしても、生きて力を尽くす義務がある。


(……私たちは、生きても死んでも縛られたままなのね。ならば、いっそ)


 サリーの弁舌が、心の中から本当の感情を探そうとしているロザリアの背中を押す。


「君は、君という一個の人間であり、尊い命を持ち、懸命に生きたんだ。それは価値がないの? 役に立たなかったから、誰かの重荷になったから、君は死ぬべきだったの? 違うだろう、それはさ。君はどうして欲しかった? 今更と思うだろうけれど、言ってみなよ。後悔はしちゃいけないと、分かっただろう?」


 ぐっと押し込めてきていた感情を、心の奥底から探し出すのは容易ではない。


 ロザリアがそれを口にできたころには、エアル王子とリーガン卿の言い争いも沈静化して、王城教会が元どおりの静寂を取り戻していた。


 無音のその一幕に、ロザリアは高らかに本心を口にする。


「……愛してほしかった。でも、もう遅いの」


 愛してほしい、もう遅い、それらは事実だ。どうしようもない。


 だが、サリーはそれで終わらせなかった。


「だったらどうする? 言ってごらん。ロザリア、君はどうしたい? このまま冥府へ向かうか、エアル王子の未練を最後まで取り除くか、それとも——」


 ロザリアは、首を横に振った。


 何を選んでも、最悪からは逃れられない。いや、そんなことはどうでもいいのだ。問題は、ロザリアがどうしたいかだ。


 今までこのアルデラ王国で一度たりとも言い出せなかったことを、ロザリアはようやく言葉にした。


「あの方に、寄り添っていたいの」


 ロザリアは静かに、つぶやく。


 サリーは金の裁ち鋏を消して、糸紡ぎ櫛(コーム)を出す。それをロザリアに渡して、こう言った。


「分かった。じゃあ、僕は一旦帰るね。またね、ロザリア」


 冥府からの使者サリーは、最初からいなかったかのように消え失せた。


 残された因果の糸は、まだ淡く光っている。


 ロザリアは糸紡ぎ櫛(コーム)を手に、ふっと笑った。







 初夏の快晴の下、戴冠式の会場であるアルデラ王国王城前広場には大勢の国民が詰めかけ、新たな国王誕生を我先に祝福しようといつになく活気に溢れていた。


 一方で、王城の控室からは外の喧騒は遠く、わずかに耳に届くだけだ。


 国王しか身に付けられない黄金の王冠、大鷲の羽と獅子の毛皮を備えたマント、真新しい礼服はしわひとつなく、分厚いソファに背をもたせかけた新国王エアル本人の容姿もまたそれらの輝きに勝るとも劣らぬ端正さと美麗さを讃えている。


 控室にやってきたリーガン卿も、国王の筆頭騎士らしく金銀の軽鎧と長剣を携え、新国王の戴冠式をより盛り上げるための最上の花を添えている。


「エアル様、どうかなさいましたか。もうじき、戴冠式が始まりますが」


 ふいとエアルは顔を背け、リーガン卿へ指図する。


「リーガン、少し一人にしてくれ。時間になったら知らせろ」

「承知いたしました。では」


 リーガン卿は異論を唱えず、速やかに控室を出ていった。


 控室にはただ一人、エアル以外には誰もいない。


 だが、エアルは誰もいない空間へと語りかけた。


「なぜそこにいる、ロザリア。俺を恨んでいるのか? はっ、当然だな。俺は、お前に嫌われることしかしていなかった」


 憎々しいとばかりの口調に、一抹の寂しさが混ざっている。


 かつての婚約者はもう死んだ。エアルもそんなことは重々承知している。


 その上で、()()()()()()()と確信もしていた。


 エアルはその気配を感じるたび、誰かに語りかけるようにつぶやく。


「恨め、恨んでいてくれ。そうすればいつまでもお前は俺のそばにいる。お前がそこにいるかぎり、俺は正気でいられるんだ」


 エアルは、死んだ婚約者の気配を感じることは、誰にも言っていない。


 言ってしまえば狂人のように扱われ、ここまでの経歴も権力も何もかもが水泡に帰す。そうなると、この愛しい気配さえも失われるような気がしてならなかったのだ。


「お前を捨てたヴィリジアも、お前に嫉妬した王城の連中も、恨まなくていい。そいつらから守れなかった俺だけを恨んでいろ。ずっと無様な俺を見ていれば、お前だって気が済むだろう? 頼む、そうであってくれ」


 その気配がエアルへと返事をしたことは一度もない。これからも答えは得られないだろう。時折何かを櫛で梳く音がする、そのたび振り返っては肩を落とす。


 だが、エアルはそのたび気配を感じられる。


 もしかすると、死んだ婚約者は自分のまだそばにいるのかもしれない。


 なら、それは、今まで秘めていた願いが叶ったようなものではないか。


 恨まれていても、何でもいい。


 そこにいてくれ、ロザリア。


 エアルはことあるごとに、そうつぶやく。







 控室を追い出されたリーガン卿は、廊下の衛兵たちに指示を出し、戴冠式の手順をもう一度確認しようと宰相の補佐役を呼んで話を聞いていた。


 その際、宰相の補佐役は軽い気持ちだったのだろう、こんな話題を口にした。


「リーガン卿、殿下……いや、陛下はまだ配偶者を選ばぬおつもりですか? 周辺国からいくらでも申し出があるでしょうに」


 リーガン卿は宰相の補佐役を睨みつける。


「それは、モノのように娘を差し出す親の行いを肯定する、ということですか?」

「そんな、人聞きの悪い。数十年後、いずれ陛下の後継者が必要となるなら、お相手がいなくてはならぬだけで」


 宰相の補佐役は笑って誤魔化そうとしたが、リーガン卿は冷たくあしらう。


「ご心配なく。エアル様は必ず、正しい選択をなさることでしょう。我々の浅慮は、それこそ必要ないかと」


 宰相の補佐役へ短く礼を言って、リーガン卿はその場をあとにした。


 エアルの変調を、リーガン卿は察している。独り言のようだが、エアルが一人きりでいるときだけ何かが見えるのか、感じるのか、それは定かではないものの、何者かへ語りかけているのだ。


 しかし、リーガン卿は見て見ぬふりをするしかない。その原因はおおよそ分かっていても、どうにもならないからだ。


 エアルはアルデラ王国の国王となり、人々に望まれるように繁栄をもたらし、様々な改革を行うだろう。それさえつつがなく行われるならば、リーガン卿が何かを言う筋合いにはない。


 それは、エアルとロザリアが結ばれなかったのは自分のせいでもある、と心に深く後悔の棘が刺さっているからでもあった。


 リーガン卿とて、できることなら望まれる未来にロザリアがいてほしかったが、それはもう叶わない。


(エアル様は必ずや偉業を成し遂げるでしょう。その影に、ロザリア様がいたことは……誰も、記憶しなかったとしても)


 リーガン卿が歩み、その背に繋がっていた蜘蛛の糸のような極細の因果の糸が、ぷつりと切れた。





 やがて、アルデラ王国は空前の隆盛を誇り、名実ともに大国の座を確実なものとしていく。


 しかし、四十を前にして国王エアルは病に倒れた。酒色に溺れたとも、過労だとも言われているが、原因は定かではない。


 遺言によりエアルの遺体はどこかへと運ばれ、秘密裏に葬られたという。





 ある翼蛇は二つの魂を前に、こう慰めた。

 

「魂が澱み、濁りつづけたとしても、そこには愛があるのさ。それでいいじゃないか」




(了)

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― 新着の感想 ―
やっと堂々と思いを打ち明けられると思った矢先に目の前で飛び降りをされたのは酷いトラウマになりそうw 言動は仕方ないものだとしてもロザリアの味方を一人も用意しなかったのは悪手だったね エアル王は新しい婚…
生前のロザリアがもうどうしようもなく詰んでる そんな女の子にエアルは最初どう思ったんだろう 同情 憐憫 庇護欲 そして愛情 きっとなんでも出来た人なのに好きな女の子を側におくことすらできなくてあと少し…
故郷が滅ぼされれば自身に価値がなくなったと思い死を選ぶのではないかと何故思わなかったのだろ。 結局、様々な事に気を付けていたようだけど、彼女の事を見ていなかっただけ。 だから後悔してしまうんだろうね。
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