第6話 届かない手紙と迫る影
郵便配達の少年が、申し訳なさそうに帽子を取った。
「ごめんよ、リア姉ちゃん。これ、戻ってきちゃった」
差し出されたのは、私が数日前に書いた手紙だ。
宛先は実家の妹、エリス。
封筒は未開封のまま。
表面には赤インクで無慈悲に『受取拒否』『該当者不在』とスタンプが押されている。
「……そう。ありがとうね」
私は努めて明るく振る舞い、銅貨を渡して少年を見送った。
扉を閉める。
途端に、手の中の封筒が重くなった気がした。
『読まれたかった……』
『インクが乾いて、痒い……』
紙の声が切ない。
妹への想いを綴った言葉たちが、誰の目にも触れず、紙の繊維の中で死んでいく。
不在なわけがない。
エリスはまだ屋敷にいるはずだ。
父が握り潰したのだろう。
魔力ゼロの娘は、家族にとって既に「死んだ人間」扱いなのだ。
「……捨てなきゃ」
暖炉に投げ込もうとして、手が止まる。
結局、私はそれを机の引き出しの奥にしまった。
未練だ。
でも、捨てられなかった。
*
悪いことは重なるものだ。
その日の午後、工房の生命線である物流が止まった。
「すまねえ、リアさん。粘土を卸せなくなった」
いつも懇意にしている資材屋の店主が、青い顔で頭を下げてきた。
荷馬車の荷台は空っぽだ。
「どうしてですか? 代金なら前払いしましたよね」
「それが……街の関所で止められたんだ。『アトリエ・ベルン宛の荷物は通すな』って、兵隊たちが」
「兵隊?」
「王都の紋章をつけた連中だ。逆らったら店を潰すって脅されて……本当にすまねえ!」
店主は逃げるように去っていった。
荷馬車の車輪が『怖かった』『槍で突かれた』と震えている。
ただ事ではない。
辺境の小さな工房一つを、王都の兵が狙い撃ちにするなんて。
さらに追い打ちをかけるように、見知らぬ男が二人、工房へ入ってきた。
薄汚れた灰色の服。
胸元には「徴税」のバッジ。
「店主は貴様か? 今月から税率が変わった」
男は羊皮紙を突きつけた。
そこに書かれた金額を見て、私は息を呑んだ。
金貨五十枚。
この辺りの工房の、一年分の売上に匹敵する。
「な……桁が違います! こんなの払えません!」
「払えなければ差し押さえだ。道具も、その建物もな」
男がニヤニヤしながら、商品棚の花瓶を指先で弾いた。
花瓶が『触るな、脂ぎった手で!』と悲鳴を上げる。
「期限は三日後だ。用意しておけ」
男たちは嵐のように去っていった。
後に残されたのは、絶望的な静寂だけ。
私はカウンターに手をついた。
足が震えている。
これは嫌がらせだ。
誰が?
考えるまでもない。
王都の兵を動かせる人間。
私を憎んでいる人間。
「……ジェラルド様」
あの男は、私を追放するだけでは飽き足らず、このささやかな居場所さえ奪おうとしているのか。
「顔色が悪いぞ」
奥からクラウスさんが出てきた。
彼はカウンターの徴税令書を一瞥し、眉間に深い皺を寄せた。
「……なるほど。兵糧攻めか。あの男らしい陰湿なやり口だ」
「クラウスさん……私、どうすれば」
声が震える。
素材の声は聞こえても、政治や悪意の声には対処できない。
私は無力だ。
やはり、魔力のない人間は何も守れないのだろうか。
「リア。俺に任せろ」
クラウスさんが、私の肩を強く掴んだ。
その熱で、震えが止まる。
「今夜、少し出かける。戸締まりをして、ミケと一緒に奥の部屋にいろ。誰が来ても開けるな」
「え? でも、外は関所が……」
「問題ない。俺には俺のやり方がある」
彼は黒いマントを羽織り、フードを目深に被った。
腰の剣がカチャリと鳴る。
『出番か? やっと抜くのか?』と剣が殺気立っているのが聞こえた。
「待ってください、危険です!」
「大丈夫だ。君の工房に必要なものは、必ず持ち帰る」
彼は振り返らず、夜の闇へと消えていった。
*
長く、不安な夜だった。
私はミケを抱きしめ、毛布にくるまって朝を待った。
風の音が、兵士の足音に聞こえて何度も目が覚めた。
翌朝。
工房の裏口で、ガタゴトと車輪の音がした。
「リア、開けてくれ」
クラウスさんの声だ。
私は飛び起きて扉を開けた。
そこには、山積みの麻袋を積んだ荷馬車があった。
上質な粘土、乾燥した薪、それに釉薬の原料。
私が注文していたもの以上の量が、そこにあった。
「これ……どうしたんですか?」
「昔のツテを使った。少し遠回りだが、関所を通らないルートがある」
彼は平然と言ってのけた。
徹夜したはずなのに、疲れた様子も見せない。
ただ、荷馬車を引いてきた馬が『王都の紋章を見たぞ』『すごい速さだった』と興奮気味に嘶いている。
それに、荷袋には見たことのない鷲のスタンプ――軍用品だろうか――が押されていた。
「クラウスさん、あなたは一体……」
「ただの用心棒だと言ったはずだ」
彼は私の質問を遮り、薪の束を担ぎ上げた。
「とりあえず、これで仕事は続けられるだろう? 税の方は俺が法務局に異議申し立てをしておいた。受理されるまでは取り立てられないはずだ」
「異議申し立てって……そんな簡単に」
「書類の不備を指摘しただけだ。奴らは焦って偽造したから、穴だらけだった」
彼は淡々と話すが、それがどれほど難しいことか、元貴族の私にはわかる。
役人を黙らせ、物流を確保する。
一介の傭兵にできることではない。
「ありがとう……本当に」
「礼はいい。それより、これを見ろ」
彼は懐から、一枚の封書を取り出した。
朝の便で届いたものらしい。
封蝋には、魔導省の紋章。
「……嫌な予感がします」
「開けてみろ」
私は震える手で封を切った。
中から出てきたのは、きつい香水の匂いがする紙片。
そこには、見覚えのある神経質な筆跡で、こう書かれていた。
『特別監査通達』
『アトリエ・ベルンにおける違法魔導具製造の疑いにより、近日中に現地査察を行う』
『担当監査官:ジェラルド・フォン・ライグナー』
文字が目に焼き付く。
紙が『悪意』『嘲笑』『支配欲』を放って、指先を刺してくる。
「……来る」
「ああ」
クラウスさんが、私の背後に立った。
まるで盾になるように。
「奴自身が乗り込んでくる。狙いは君の追放、あるいは……この工房の技術の強奪だ」
ジェラルド様が来る。
あの、私をゴミのように捨てた人が。
恐怖で心臓が縮み上がる。
でも、不思議と以前のような絶望はなかった。
背中にある温かい気配。
そして、工房に満ちる素材たちの『負けるな』『戦え』という声。
「逃げません」
私は手紙を握りつぶした。
紙がグシャリと音を立てる。
「ここは私の城です。誰にも渡さない」
「その意気だ」
クラウスさんが、私の頭に手を置いた。
大きくて、無骨な手。
「俺がついている。あの男の好きにはさせない」
その言葉は、どんな契約魔法よりも強く、私の心に刻まれた。
嵐が来る。
でも、私はもう一人じゃない。




