第4話 酔いどれ猫と最初の依頼
工房の朝は早い。
朝霧が晴れる頃、私は釉薬の調合を始めていた。
すり鉢の中で、青色の鉱石を粉末にする。
ゴリ、ゴリ。
石が『もっと細かく』『優しく回せ』と注文をつけてくる。
それに合わせて杵を動かす。
「にゃあ〜ん……」
足元で甘ったるい声がした。
三毛猫のミケだ。
この工房の先住猫である。
私がここに来てから、ちゃっかりと餌をねだるようになった。
「だめよミケ。これは食べ物じゃないから」
私が注意しても、ミケはすり鉢に鼻を近づけ、クンクンと匂いを嗅ぐ。
そして次の瞬間。
「うにゃうにゃ〜!」
ミケは床に背中からダイブした。
白目を剥き、手足をバタバタさせて悶え始めた。
ゴロゴロと喉を鳴らしながら、床板の上を背泳ぎのように滑っていく。
「……何をしているんだ、その猫は」
背後から呆れた声が降ってきた。
クラウスさんだ。
三日前の瀕死が嘘のように、彼は回復していた。
包帯姿だが、薪割りを手伝ってくれるほど元気だ。
「酔っ払っているんです」
「酔っ払う?」
「この『コバルト石』の匂い、猫にとってはマタタビみたいなお酒の成分が含まれているらしくて。調合を始めるといつもこうなんです」
ミケは今、クラウスさんの足元に突撃し、彼のブーツに顔をスリスリと擦り付けている。
『いい男〜、ヒック』という猫の声(思考)が聞こえてきそうだ。
「だらしない猫だな」
クラウスさんは眉間に皺を寄せつつも、ミケを蹴飛ばしたりはしない。
むしろ、少し困ったように立ち尽くしている。
私は知っている。
彼が昨夜、誰も見ていないと思ってミケの顎の下を撫でていたことを。
鎧越しではなく、素手で。
その時の指先がとても優しかったことも。
「クラウスさん、そこにある薪をお願いできますか? 窯の温度を上げたいので」
「ああ。任せてくれ」
彼は無駄のない動きで薪をくべる。
「流れの傭兵」と名乗っていたが、所作の一つ一つが洗練されている。
ただの荒くれ者ではない。
育ちの良さが隠しきれていないのだ。
まあ、詮索はしない。
誰にでも、語りたくない過去の一つや二つはある。
私のように。
*
昼下がり。
作業が一息ついた頃、クラウスさんが黒い塊を持ってきた。
あの鎧だ。
今は分解され、ただの鉄屑のように作業台の端に積まれている。
「リア。頼みがある」
彼の声は真剣だった。
アイスブルーの瞳が、まっすぐに私を射抜く。
「この鎧を……直せるか」
「直す、ですか」
「ああ。俺はこの鎧がないと戦えない。だが、こいつは魔力を弾く呪いを受けている。王都の鍛冶師にも、魔導士にも匙を投げられた代物だ」
彼は悔しげに唇を噛んだ。
魔力が使えない彼にとって、この頑丈な鎧だけが命綱なのだろう。
私は作業台の上の黒い金属に手を触れた。
『痛い……』
『曲がってる……息ができない……』
聞こえる。
悲痛な訴えだ。
呪い?
そんな大層なものだろうか。
私には、もっと物理的な「悲鳴」に聞こえる。
「魔導士たちは、これをどう診断したんですか?」
「高位の闇魔法による『拘束の呪い』だと。解呪には聖女級の浄化が必要だが、素材が魔力を弾くため干渉できないと」
「……そうですか」
私はハンマーを取り出した。
柄を握る。
馴染んだ重みが、私の手のひらに吸い付く。
「私には、魔法のことはわかりません。私はただの職人ですから」
私は胴のパーツを持ち上げた。
重い。
そして、左脇腹の部分が微かに歪んでいる。
肉眼ではわからないレベルの歪みだ。
でも、金属の繊維がそこで捩れ、全体の気の流れをせき止めている。
『ここだ! ここが突っ張ってるんだ!』
鉄が指差している。
「クラウスさん。呪いというのは、要するに『巡りが悪い』状態のことです。人間で言うなら、ひどい肩凝りみたいなものですね」
「か、肩凝り……?」
彼が目を丸くした。
私は構わず、鎧をアンビル(金床)に乗せた。
「素材が嫌がっている形を、あるべき形に戻す。それだけです」
カァンッ!
私は迷わずハンマーを振り下ろした。
激しい音が工房に響く。
ミケが『うるさいにゃあ』と耳を塞いで丸まる。
「おいっ! そんな乱暴に扱ったら……!」
「黙って見ていてください」
私は彼を制し、二度、三度と叩く。
ただ叩いているのではない。
鉄の呼吸に合わせているのだ。
叩くたびに、鉄の中の粒子が振動し、整列していく。
凝り固まっていたストレスがほぐれていく。
『ああ、そこだ……効くぅ……』
鎧の声が、苦痛から安堵へと変わる。
歪みが矯正されると同時に、そこに溜まっていた黒いモヤ(魔力の澱)が、行き場を失って霧散していくのが見えた。
物理的な「詰まり」が解消されれば、流れは正常に戻る。
単純な理屈だ。
三十分後。
私はすべてのパーツの歪みを叩き直した。
黒い塗装の下で、金属が銀色の本来の輝きを取り戻そうとしている。
仕上げに油で磨き上げる。
布が『ツルツルだぞ』と嬉しそうに滑る。
「……終わりました。着てみてください」
私は額の汗を拭い、彼にパーツを渡した。
クラウスさんは半信半疑の顔で、鎧を身につけていく。
篭手を嵌め、胴当てを締める。
そして、数回腕を回し、深呼吸をした。
「……軽い」
彼の口から、驚愕の声が漏れた。
「痛みが、ない。締め付けられるようなあの感覚が、完全に消えている」
「肩凝りが治ったんですよ」
「馬鹿な……あれだけ高名な魔導士たちが手こずった呪いだぞ? それを、ただのハンマー一本で……?」
彼は信じられないものを見る目で私を見た。
その視線に、熱が宿っている。
単なる感謝ではない。
もっと深い、敬意のようなもの。
私は急に恥ずかしくなって、視線を逸らした。
「魔導士様は頭で考えすぎるんです。鉄のことは、鉄に聞くのが一番早いんですよ」
「……君は、魔法使いよりも魔法使いだ」
彼は静かにそう言った。
そして、不意に私の手を取り、その甲に額を押し当てた。
騎士の礼だ。
ゴツゴツした手。
でも、とても温かい。
「ありがとう、リア。君のおかげで、俺はまた戦える」
「お、お客さんに満足いただけて何よりです……!」
私は真っ赤になって手を引っ込めた。
心臓がうるさい。
この人は、たまにこういう心臓に悪いことをする。
無自覚なのだろうか。
『ヒック。お熱いこって』
足元で、酔っ払ったミケがニヤニヤしながら転がっていた。
私は誤魔化すようにミケを抱き上げ、顔を埋めた。
猫の毛並みが、私の火照った頬を隠してくれる。
とりあえず、最初の依頼は成功だ。
でも、彼の鎧を直したことで、彼がまた危険な場所へ行く準備が整ってしまったことにもなる。
その事実に、胸の奥がチクリと痛んだ。
「さて、仕事の報酬だが……」
クラウスさんが真面目な顔で財布を取り出そうとする。
「いりません。その代わり、これからも薪割りを手伝ってください。それと、ミケの相手も」
「……ふっ。わかった。善処する」
彼が初めて、声を上げて笑った。
その笑顔は、鉄の鎧よりもずっと強固に、私の心を守ってくれるような気がした。
だが、この時の私たちはまだ知らなかった。
この平穏な工房に、街全体を揺るがす危機が迫っていることを。
広場の方角から、不穏な地響きが微かに聞こえ始めていた。




