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『記憶の海、沈まぬ君へ』  作者: 梅犬丸
第六章『記憶の海、沈まぬ君へ』
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第三十五話「君の名は、語られ続ける」

世界の果て。

 “語られなかった場所”に灯った、ひとつの光。


 それは少女の中に宿った、名もない願いだった。



 彼女は震える声で、カイに問う。


「私に……名前を、つけてくれる?」


 それは、誰かに“意味”をもらいたいという懇願ではなかった。


 語られてきたことに応える意思。


 カイが彼女に語り続けた時間が、彼女の内側にひとつの形を育てていた。



 カイは少し迷い、そして静かに言葉を紡いだ。



「……名前は、君が選ぶものだ。

 俺は語っただけ。君はもう、誰かに“決めてもらう存在”じゃない」



 少女は、目を閉じた。

 風が吹き抜け、遠い記憶のざわめきが海に戻っていく。


 そして彼女は、唇を震わせながら、言った。



「――ティラ、って名前が……いい」



 沈黙が落ちた。


 カイは、驚いたように少女を見つめる。

 それは、かつての“彼女”の名前。

 でも、彼女はその記憶を持っていないはずだった。



「……どうして、その名前を?」



 少女は、答えられなかった。

 けれど、その目は確かに“覚えている者の光”を宿していた。



「この名前を聞くたび、胸があたたかくなるの。

誰かが私を呼んでくれたような、

忘れてた何かを、やっと取り戻したような……そんな気がして」



 カイは、微笑んだ。


「……ようこそ、ティラ。

 君の名前は、“今”ここに、確かに在る」



 そう告げた瞬間――空に浮かんでいた星が、やわらかく揺れた。

 記憶の海の波が優しくなり、かつて“沈んだ声”たちが、

 静かに祝福を囁いた。



「君の名は、もう“語られない記憶”じゃない」

「誰かが思い、呼びかけ、語り続けてくれる限り――」



 世界は静かに書き換わり始める。


 記憶を奪う魔法が消え、

 代わりに“語る力”が残った。



 人々は、書物ではなく“声”で物語を継いでいくようになった。


 それは魔法ではなく、“人間”としての祈り。

 痛みを忘れず、記憶を受け継ぎ、生きていく術。



 やがて時が流れ、カイの姿は記録から消えていった。

 けれど――



 どこかの村の焚き火のそばで、

 小さな子どもがこう語った。



「ねぇ、知ってる? “ティラ”って人がいたんだって。

 大昔、世界を救ったって――

 でもその人は、最後に“記憶の海”になっちゃったんだって」



「ほんと? じゃあ、その人は今もいるの?」



「うん、たぶんね。

 だって今でも、誰かが語ってるもん――」



 「記憶の海、沈まぬ君へ」



エピローグ『語り部は歩き続ける』


 どこかの旅路の果て。


 一人の青年が、譜面も杖も持たずに歩いていた。

 けれど彼の口元には、確かに“名前”があった。



「……ティラ」

「今日も君のことを話そう。誰かに届けるために。

 君が沈まないように。

 君が、今日も生きていられるように――」



 物語は、まだ終わらない。

 それは、“語り継がれる限り”続いていく。



―――『記憶の海、沈まぬ君へ』 完結 ―――


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