第三十五話「君の名は、語られ続ける」
世界の果て。
“語られなかった場所”に灯った、ひとつの光。
それは少女の中に宿った、名もない願いだった。
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彼女は震える声で、カイに問う。
「私に……名前を、つけてくれる?」
それは、誰かに“意味”をもらいたいという懇願ではなかった。
語られてきたことに応える意思。
カイが彼女に語り続けた時間が、彼女の内側にひとつの形を育てていた。
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カイは少し迷い、そして静かに言葉を紡いだ。
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「……名前は、君が選ぶものだ。
俺は語っただけ。君はもう、誰かに“決めてもらう存在”じゃない」
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少女は、目を閉じた。
風が吹き抜け、遠い記憶のざわめきが海に戻っていく。
そして彼女は、唇を震わせながら、言った。
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「――ティラ、って名前が……いい」
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沈黙が落ちた。
カイは、驚いたように少女を見つめる。
それは、かつての“彼女”の名前。
でも、彼女はその記憶を持っていないはずだった。
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「……どうして、その名前を?」
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少女は、答えられなかった。
けれど、その目は確かに“覚えている者の光”を宿していた。
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「この名前を聞くたび、胸があたたかくなるの。
誰かが私を呼んでくれたような、
忘れてた何かを、やっと取り戻したような……そんな気がして」
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カイは、微笑んだ。
「……ようこそ、ティラ。
君の名前は、“今”ここに、確かに在る」
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そう告げた瞬間――空に浮かんでいた星が、やわらかく揺れた。
記憶の海の波が優しくなり、かつて“沈んだ声”たちが、
静かに祝福を囁いた。
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「君の名は、もう“語られない記憶”じゃない」
「誰かが思い、呼びかけ、語り続けてくれる限り――」
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世界は静かに書き換わり始める。
記憶を奪う魔法が消え、
代わりに“語る力”が残った。
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人々は、書物ではなく“声”で物語を継いでいくようになった。
それは魔法ではなく、“人間”としての祈り。
痛みを忘れず、記憶を受け継ぎ、生きていく術。
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やがて時が流れ、カイの姿は記録から消えていった。
けれど――
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どこかの村の焚き火のそばで、
小さな子どもがこう語った。
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「ねぇ、知ってる? “ティラ”って人がいたんだって。
大昔、世界を救ったって――
でもその人は、最後に“記憶の海”になっちゃったんだって」
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「ほんと? じゃあ、その人は今もいるの?」
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「うん、たぶんね。
だって今でも、誰かが語ってるもん――」
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「記憶の海、沈まぬ君へ」
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エピローグ『語り部は歩き続ける』
どこかの旅路の果て。
一人の青年が、譜面も杖も持たずに歩いていた。
けれど彼の口元には、確かに“名前”があった。
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「……ティラ」
「今日も君のことを話そう。誰かに届けるために。
君が沈まないように。
君が、今日も生きていられるように――」
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物語は、まだ終わらない。
それは、“語り継がれる限り”続いていく。
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―――『記憶の海、沈まぬ君へ』 完結 ―――




