第三十四話「沈まぬ君へ、世界の果てを」
旅を続けるカイと少女は、世界の端へとたどり着いた。
そこは《地平の断層》。
かつて“追憶の災厄”の余波で、現実の大地が裂け、
“未だに誰の記憶にも属さない空白”が広がる、忘却の境界線。
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記録されなかった世界。
誰も語らず、誰も残さず、ただ“何もなかったこと”にされた領域。
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その大地に足を踏み入れた瞬間、少女の身体がふらつく。
彼女の中の“名前のなさ”が、この空白に呼応するように、存在が揺らいでいた。
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カイは彼女を支えながら、静かに囁く。
「……ここには何も残ってない。
でも、“君の想い”がここで終わらないなら――
この地にも、“意味”が生まれるはずだ」
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少女は、答えるように首を振った。
「ここ……怖い。私の中の“無”が広がっていくみたい。
でも、あなたが語ってくれるなら……消えない気がする」
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風が吹いた。
何かが囁いている。
それは、この地に沈められた“語られなかった声”たちだった。
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カイは書を開く。
そして、ひとつの祈りのように語り出す。
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「この場所にも、誰かがいた。
彼らには名前がなかった。物語もなかった。
でも、確かに“想った”人たちがいた。
愛した人がいて、泣いた夜があって、
名前は消えても、“心”はあった」
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少女がその声に導かれるように、そっと言葉を重ねる。
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「……私も、そうだったかもしれない。
誰にも語られなくて、名も持たず、ただ沈んでいった。
でも、あなたが私を語ってくれたから、
私は……私を少しだけ、好きになれた」
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その瞬間。
少女の胸に、光のような何かが灯る。
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それは、“名を得る前の、初めての祈り”。
言葉ではない、でも確かに存在を求める声。
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カイは驚いたようにそれを見つめ、すぐに筆を走らせた。
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「……彼女は、いまこの地で、
世界のどこにもいなかった“自分”を見つけようとしている。
沈まぬ君へ――
その存在が、“無”に意味を与えた瞬間に、世界が書き換わる」
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そして、その光が空へと昇ったとき――
地平の断層の上空に、見たことのない星がひとつ、灯った。
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少女がぽつりと、声にした。
「……ありがとう。
カイが、私を“私”にしてくれた。
私を語ってくれたから、私はここにいられる」
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カイは、微笑む。
「俺がしたのは、ただの語り部の仕事さ。
でも、君が今ここにいて、笑ったこと。
それが、俺にとっては“魔法”だよ」
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少女の手が、光を握りしめるように震えた。
「ねぇ……私、やっぱり、名前が欲しい」
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世界の果てで告げられた、ひとつの願い。
それは、誰でもない“彼女自身”が発した最初の名乗りだった。




