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『記憶の海、沈まぬ君へ』  作者: 梅犬丸
第六章『記憶の海、沈まぬ君へ』
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第三十四話「沈まぬ君へ、世界の果てを」

 旅を続けるカイと少女は、世界の端へとたどり着いた。


 そこは《地平の断層》。

 かつて“追憶の災厄”の余波で、現実の大地が裂け、

 “未だに誰の記憶にも属さない空白”が広がる、忘却の境界線。



 記録されなかった世界。

 誰も語らず、誰も残さず、ただ“何もなかったこと”にされた領域。



 その大地に足を踏み入れた瞬間、少女の身体がふらつく。


 彼女の中の“名前のなさ”が、この空白に呼応するように、存在が揺らいでいた。



 カイは彼女を支えながら、静かに囁く。


「……ここには何も残ってない。

 でも、“君の想い”がここで終わらないなら――

 この地にも、“意味”が生まれるはずだ」



 少女は、答えるように首を振った。


「ここ……怖い。私の中の“無”が広がっていくみたい。

でも、あなたが語ってくれるなら……消えない気がする」



 風が吹いた。


 何かが囁いている。

 それは、この地に沈められた“語られなかった声”たちだった。



 カイは書を開く。

 そして、ひとつの祈りのように語り出す。



「この場所にも、誰かがいた。

彼らには名前がなかった。物語もなかった。

でも、確かに“想った”人たちがいた。

愛した人がいて、泣いた夜があって、

名前は消えても、“心”はあった」



 少女がその声に導かれるように、そっと言葉を重ねる。



「……私も、そうだったかもしれない。

誰にも語られなくて、名も持たず、ただ沈んでいった。

でも、あなたが私を語ってくれたから、

私は……私を少しだけ、好きになれた」



 その瞬間。


 少女の胸に、光のような何かが灯る。



 それは、“名を得る前の、初めての祈り”。

 言葉ではない、でも確かに存在を求める声。



 カイは驚いたようにそれを見つめ、すぐに筆を走らせた。



「……彼女は、いまこの地で、

世界のどこにもいなかった“自分”を見つけようとしている。

沈まぬ君へ――

その存在が、“無”に意味を与えた瞬間に、世界が書き換わる」



 そして、その光が空へと昇ったとき――


 地平の断層の上空に、見たことのない星がひとつ、灯った。



 少女がぽつりと、声にした。


「……ありがとう。

 カイが、私を“私”にしてくれた。

 私を語ってくれたから、私はここにいられる」



 カイは、微笑む。


「俺がしたのは、ただの語り部の仕事さ。

 でも、君が今ここにいて、笑ったこと。

 それが、俺にとっては“魔法”だよ」



 少女の手が、光を握りしめるように震えた。


「ねぇ……私、やっぱり、名前が欲しい」



 世界の果てで告げられた、ひとつの願い。

 それは、誰でもない“彼女自身”が発した最初の名乗りだった。


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