第三十二話「語られた祈りは海に残る」
夜明け前の空は、どこまでも深い藍色だった。
その静けさの中に、カイの声だけが穏やかに響いていた。
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「――語るよ、君のことを。
忘れてしまったとしても。
名前が消えてしまったとしても。
たったひとつの祈りが、ここに残っていたなら」
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彼が立っていたのは、《記憶の海》の最も静かな入り江。
誰にも知られなかった命の記憶が、
微かなさざ波となって岸辺に寄せていた。
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手には、いつものように魔法ではない、言葉の書。
カイが今書き記しているのは――
“ティラ”の話ではない。
今なお世界のどこかで、誰にも語られず終わっていく人々の祈り。
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たとえば、名もなく消えた幼子の祈り。
たとえば、かつて戦い、忘れられた騎士の想い。
たとえば、誰にも見つけられなかった愛の告白。
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それらの“声”が、カイに語りかけてくる。
「わたしは、たしかにここにいたよ」
「誰にも覚えていなくても、あなたが聴いてくれたから」
「ありがとう、名前のない私に、“声”をくれて」
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彼は、静かに記す。
「語られた祈りは、誰かの心に届く。
それが魔法でなくても、記録でなくても。
心に灯った火は、誰かの命を温めるから」
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その時――海が微かに光った。
波間に浮かぶのは、“ティラ”の記憶ではなかった。
かつてカイが語り、誰かに聞かせた無数の「語られた者たち」の記憶だった。
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それらは、もはや魔法でも幻でもない。
**語られた“祈りの痕跡”**として、記憶の海に“残り続けていた”。
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「……そうか。語るっていうのは、
記憶の海を“埋め戻す”ことなんだな」
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カイは静かに微笑む。
忘れられていた者たちが、語られることで“波”になり、
記憶の海そのものを癒していく。
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やがて、風が吹いた。
その風に乗って、ひとつの“声”が届く。
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「カイ……見て、海が、少しずつ青くなってきてる」
「昔、君と見た海と同じ色。――覚えてる?」
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それは“ティラ”の声に似ていた。
けれど、記憶ではなかった。
“想い”だけが、その声に宿っていた。
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彼は答える。
「……ああ、覚えてる。君が最初に笑ったとき、海の音が優しくなったんだ」
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そして、書を閉じる。
その最後のページに、こう記した。
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「語られた祈りは、海に残る。
誰かがそれを“想い出す限り”。
それが、名前のない者たちに贈られた、最初で最後の祝福――」




