第三十一話「名前のない海、記憶の名を」
世界の果て、名前のない海がある。
地図には描かれず、航路にも載らず、
誰にも“そこに行った”と証明されたことのない場所。
だが、語り継がれる伝承だけが、そこに「記憶の海」が存在すると語る。
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カイは、そこへ向かっていた。
かつて自らが魔法の源とした、「記憶の海」そのものを、
今度は“魔法”ではなく、“言葉”で辿ろうとしていた。
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旅の道中、彼は様々な「語られなかった者たち」の記憶と出会った。
かつての戦争で、名も遺されなかった兵士。
誰にも看取られず消えた、孤独な詩人。
記憶を奪う魔法により、“自分の子ども”を思い出せなくなった母親。
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彼らの声を、カイは一つひとつ綴っていく。
その本には、章番号もページ数もない。
ただ、語られた順に、想いの重さだけが記されている。
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「……名前を持たなかった者のことを、
誰かが語った瞬間に、その人は“世界のどこかに在った”ことになる。
それでいい。記録じゃなくても、“意味”は生まれる」
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やがて彼は辿り着く。
誰も地図に描かなかった**「名前のない海」**へ。
海の色は、まるで記憶の断片を集めたように揺れ、
その波間には、消えたはずの“想いの声”が微かに響いていた。
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そこに佇んでいたのは――
“ティラ”に似た少女の幻だった。
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「……あなたはまた来たのね」
その声は、懐かしく、しかし明らかに“彼女ではない”。
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「君は――?」
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「私は、ここに沈められた“すべての名もなき祈り”」
「語られず、書かれず、記録もされなかった、もう一人の“君”よ」
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少女の影は揺れる。
かつてのティラの姿とは異なり、顔も声も曖昧だ。
それでも、カイはそこに“確かな存在”を感じていた。
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「君を――残したい。
名前も、想いも、全部、語っていきたい。
もう、誰にも“忘れられたまま”終わってほしくない」
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少女は静かに首を振る。
「言葉にしてしまえば、私は“あなたの中”にしかいられなくなる。
でも、あなたが言葉にしなければ、私は世界に還れない」
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問いかけられるようなその声に、カイは答えた。
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「……それでも、俺は言葉にする。
君が世界に“いた”ということを、誰かに伝えるために。
たとえそれが、俺の中の君を壊してしまっても」
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その言葉と共に、カイは本の最終章にページを加える。
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「彼女の名は――未だに、思い出せない。
けれど彼女は、確かにこの世界を歩き、笑い、祈った。
だから私は、彼女のことを記す。
名もなき者のために、名を贈る。
それが、語り継ぐ者の“最初で最後の魔法”だからだ」
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波が静かに返すように揺れた。
名を持たなかった祈りが――今、“記録”ではなく、“物語”として蘇り始める。
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カイは言葉を閉じ、空を見上げる。
夜の帳の向こうに、再び彼女の影が揺れていた。
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「……ティラ。君の本当の名前は、今も思い出せないけど――
俺はずっと、お前を“君”と呼び続けるよ」




