第三十話「記す者は誰のために」
世界は、静かだった。
記録の大半は既に失われたが、人々は“語る”ことを覚え始めていた。
名を呼び、声をかけ、物語を口にする。
魔法が記録できなくなっても、“言葉”だけはまだ世界を紡いでいた。
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カイは、小さな村を訪れていた。
その村の名も、記録には残っていない。
けれど――誰かが「ここに大切な人がいた」と語れば、
それが存在の証明になる。
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「……彼女の名前? ううん……思い出せない。
でもね、髪が白くて、夜の空みたいに静かな子だった」
老人の語る姿を、カイは黙って聞いていた。
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そして、手にした本を開く。
それは――彼が世界各地で集めた“記憶されなかった者たち”の記録。
語られた声を綴るための書。
魔法ではない、“想いと言葉”だけの記録。
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彼の肩には、今も譜面がない。
かつて魔法使いだった男は、いまや“ただの語り部”だ。
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夜。
焚き火のそばで、カイは一人、本を読み返していた。
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「……君が残してくれたもの、思い出せない記憶ばかりになってきた。
でも、それでも書くよ。
この言葉たちは、君のことを知らない人にも――きっと、届くから」
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その時。
炎の向こうに、誰かが立っていた。
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少女の影だった。
幻か、現実かは分からない。
けれど、どこか懐かしい気配がした。
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「君は……?」
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影は問いかけた。
「あなたはどうして、それを書き続けるの?
もう誰も、読まないかもしれないのに」
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カイは少し笑った。
「……たしかに、誰も読まないかもしれない。
でも“語られなかったもの”って、それだけで二度殺される気がするんだ」
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「名前がなければ、人は世界に存在できない。
でも、**誰かが“語った”なら――その人はきっと、“ここにいた”って証明になる」
「だから俺は書く。
それが、君が教えてくれた“生きる意味”だから」
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影は、少しだけ微笑んだ気がした。
そして、風に溶けて消えていった。
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その夜、カイは新しいページを開く。
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「……今夜、誰かが語った“名もなき少女”の話を記す。
彼女の名前は分からない。
でも、その人が誰かにとって“大切だった”という事実は、
ここに残る」
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インクのにじむ音が、夜の静寂に響く。
まるで、その筆の動き自体が――“記憶”となるように。
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そしてその夜、遠く《記憶の海》の底で、
微かに揺れる声があった。
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「……ありがとう。
あなたが忘れなかったから、私はここにいるよ」




