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『記憶の海、沈まぬ君へ』  作者: 梅犬丸
第六章『記憶の海、沈まぬ君へ』
33/39

第三十話「記す者は誰のために」

 世界は、静かだった。


 記録の大半は既に失われたが、人々は“語る”ことを覚え始めていた。

 名を呼び、声をかけ、物語を口にする。

 魔法が記録できなくなっても、“言葉”だけはまだ世界を紡いでいた。



 カイは、小さな村を訪れていた。

 その村の名も、記録には残っていない。

 けれど――誰かが「ここに大切な人がいた」と語れば、

 それが存在の証明になる。



「……彼女の名前? ううん……思い出せない。

 でもね、髪が白くて、夜の空みたいに静かな子だった」


 老人の語る姿を、カイは黙って聞いていた。



 そして、手にした本を開く。

 それは――彼が世界各地で集めた“記憶されなかった者たち”の記録。


 語られた声を綴るための書。

 魔法ではない、“想いと言葉”だけの記録。



 彼の肩には、今も譜面がない。

 かつて魔法使いだった男は、いまや“ただの語り部”だ。



 夜。


 焚き火のそばで、カイは一人、本を読み返していた。



「……君が残してくれたもの、思い出せない記憶ばかりになってきた。

 でも、それでも書くよ。

 この言葉たちは、君のことを知らない人にも――きっと、届くから」



 その時。


 炎の向こうに、誰かが立っていた。



 少女の影だった。

 幻か、現実かは分からない。

 けれど、どこか懐かしい気配がした。



「君は……?」



 影は問いかけた。


「あなたはどうして、それを書き続けるの?

もう誰も、読まないかもしれないのに」



 カイは少し笑った。


「……たしかに、誰も読まないかもしれない。

 でも“語られなかったもの”って、それだけで二度殺される気がするんだ」



「名前がなければ、人は世界に存在できない。

 でも、**誰かが“語った”なら――その人はきっと、“ここにいた”って証明になる」

 

「だから俺は書く。

 それが、君が教えてくれた“生きる意味”だから」



 影は、少しだけ微笑んだ気がした。

 そして、風に溶けて消えていった。



 その夜、カイは新しいページを開く。



「……今夜、誰かが語った“名もなき少女”の話を記す。

彼女の名前は分からない。

でも、その人が誰かにとって“大切だった”という事実は、

ここに残る」



 インクのにじむ音が、夜の静寂に響く。

 まるで、その筆の動き自体が――“記憶”となるように。



 そしてその夜、遠く《記憶の海》の底で、

 微かに揺れる声があった。



「……ありがとう。

 あなたが忘れなかったから、私はここにいるよ」


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