第二十九話「沈まぬ君へ、言葉を贈る」
虚白の月が完全に崩壊し、
《記憶の海》には静寂が訪れた。
すべてを忘れたかった存在、虚白の王は――
記録にではなく、言葉にして名前を残すことを選び、自ら消えていった。
⸻
だが、それと引き換えに。
カイの中の“ティラの記憶”もまた、代償として薄れていく。
魔法を用いて想いを継いだ分、
彼の中の“彼女の存在”は、もはや輪郭を持たないものとなりつつあった。
⸻
それでも、彼は歩いていた。
世界の誰もが、再び“記憶を持ち、生きていることを実感できる”ように――
⸻
かつて灰誓の地にあった《記録核ノモログス》跡地に、
彼は一冊の小さな本を置く。
それは、誰の魔法にも縛られない、ただの“紙の本”。
⸻
「……ここに、ある人の話を記す」
「その人は、名前がなかった。
でも、歌が好きで、人を想うことを忘れなかった」
⸻
ページが一枚、風にめくられる。
「その人は、誰かに名前をもらった。
その名前が好きだった。
だから、別れのときも、こう言った。
『私は忘れられてもいい。でも、あなたは忘れないで』」
⸻
カイはその手を止め、空を見上げた。
――そこには、雲の間から差し込む微かな光。
彼女の声ではなく、“存在”そのものの気配。
⸻
そして彼は、最後の言葉を書く。
「彼女はもういない。
でも、誰かがこの本を読み、
彼女の“想い”を知るなら――
それは、彼女が今も世界にいるということだ」
⸻
書き終えると、彼は本にタイトルをつける。
⸻
『記憶の海、沈まぬ君へ』
⸻
それは、記録ではなく、祈り。
魔法ではなく、物語。
⸻
そしてそれこそが――
“誰かを生かし続ける、たったひとつの力”。
⸻
最後に、カイは誰にも聞こえないように、空へ語りかける。
⸻
「ティラ……お前の本当の名前、もう思い出せないけど――
“ありがとう”だけは、ずっと覚えてる」
⸻
風が優しく吹いた。
言葉にならないその風が、まるで“彼女の答え”のように、頬を撫でていく




