第十九話「失われし海に死者は歌わず」
記憶の書庫を後にした二人は、
記憶の海の最深部、《語られざる浜辺》へと辿り着いた。
そこは、あらゆる記憶が流れ着き、最期に静かに沈んでいく場所。
名も、姿も、意味も、全てを失った“終わりの記憶”だけが在る。
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浜辺の中心に、黒い棺があった。
それは「最後に“記憶から消されることを望んだ者”」の記憶の残骸。
そしてティラは、それに近づくなり――泣き崩れた。
「わかる……これ、あたしの記憶……」
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彼女の脳内に、過去が溢れ返る。
浮かぶ記憶――
炎に包まれた街。
終末魔法を発動する“少女”。
それを止めようとした少年。
だが、少女は“自分の名前”を捨てて、魔女になった。
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そこにいたのは、確かに“今のティラ”と同じ顔の少女。
しかし、感情は違う。“無”だった。
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「……私はティラじゃない。
わたしは……“世界を壊した記憶”……」
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ティラがゆっくりと、自らに向かって語りかける。
「じゃあ、“ティラ”は何? 魔女の記憶が作った偽物?
それとも、誰かが記憶を植えつけた、ただの器?」
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そのとき、カイが彼女の手を取った。
「――違う。
ティラって名前を呼んだとき、お前はちゃんと笑った。
それだけで十分だ。
記憶がどうであれ、“笑ったお前”が本物なんだよ」
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ティラが目を見開く。
「でも、私が“私じゃなかったら”……」
「それでも、俺が“君を呼ぶ”なら、それで世界は一度、確かになる。
記憶じゃなく、言葉が“存在”を証明するんだ。」
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ティラの体に、棺から黒い魔法が侵食し始める。
記憶と一体化すれば、真実を得られる代わりに“今のティラ”は消える。
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そのとき、ティラが口を開いた。
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「……私の“名前”は、ティラ・ルミエ。
たとえ、誰かの記憶から作られた存在だとしても、
“今ここにいる私”がそう名乗るなら、それが本物」
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彼女の譜面が光り、記憶の黒を跳ね除ける。
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【記憶魔法・命名詩】
効果:記憶と自我が乖離しかけた時、自らの名を再定義することで存在を再固定
特性:“名乗る力”によって記憶汚染から回復
代償:過去の“真実の記憶”を永久に封印する
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棺が砕け、黒い海は静かに消えていく。
ティラは、今ここに――“自分自身の名前”で、存在し続けることを選んだ。
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「カイ……」
「……ああ。おかえり、ティラ」
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彼女は小さく笑い、頷いた。
かつての終末魔法を生み出した記憶。
その一部は、今もティラの中にある。
だが、彼女はそれを**“思い出さずにいること”で受け入れた**。
自分は誰かの模造かもしれない。
でも――“今”ここにいて、呼ばれ、笑うことができる。
それが本当の「生きている証」だ。
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一方その頃、《虚白》の奥深く。
復活の兆しを見せる影がひとつ。
「記憶は終わらせる。名前も、過去も、痛みも……
この世界に、“無”を取り戻すために――」




