第十六話「欠落した名」
浮律海域ルナ=マーレに朝は来ない。
時間も天候も存在しないこの場所で、ただ記憶の波だけが、ひたすらに“誰か”を語り続けている。
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波打ち際に、名もない記憶が漂っていた。
それは、言葉を失くした旋律。
誰のものでもない手紙のような魔法断片だった。
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「……“これ”には、名前がない」
アウラがそれを拾い上げた。
譜面のように見えるそれは、何層にも複雑に折り重なっており、一部が欠けていた。
譜の中心には、一文字も記されていない“空白の名”が刻まれていた。
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【記憶魔法核断章:No.0】
機能不全
所持者不明
名称:____
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カイがそれを見て、ふと眉をひそめる。
「これは……術式の“鍵”が抜かれてる。
本来は“名”を記すことで機能する記憶魔法だ」
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「でも名がないなら、これはただの“音の残骸”じゃないの?」
ティラが首をかしげる。
カイは否定するように、静かに言った。
「いや、“名を失った”んじゃない。
**“最初から名を与えられなかった魔法”**なんだ」
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突然、海面が音もなく震え、薄い霧が差し込む。
波の先に、ひとりの人影が立っていた。
黒と白を基調とした法衣。目隠しの仮面。
そして、両手には左右逆転の譜面を携えていた。
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「――記憶の深層へ、ようこそ。
君たちは、既に“許されぬ名”に触れ始めている」
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「……誰だ」
カイの声に、使徒は微笑んだように言う。
「我は“ナミス”。
“名を持たぬ者”の代弁者。
虚白の王の意思のもと、“君たちが呼ぶ名”を消しに来た」
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「つまり……記憶の“名前”を壊すのが、お前たちの仕事か」
「その通り。
記憶とは痛み。名とは罪。
“名づけること”こそが、世界を歪めた――そう我らは信じている」
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ナミスが一歩進むたび、空間から“名前の断片”が砕け散る。
そのたびに、周囲の音がひとつずつ消えていった。
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ナミスの魔法が発動した
【記憶魔法・無名結界】
効果:周囲に存在する「名前付きの記憶体」をすべて消去/または変質させる
特性:結界内で名を呼ぶと、その記憶が書き換えられる恐れあり
代償:術者自身も「自分の名前」を永遠に持てなくなる(アイデンティティ喪失)
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カイの目が鋭くなる。
「……なら、お前も“名を呼ばれる”ことはできないわけか」
「そう。“名を呼ばれた時”、私たちは存在できなくなる。
だから、私の真名に至った者は――例外なく、消す」
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ナミスが手を広げ、記憶の海に“名の空白”が生まれる。
カイがティラを庇うように立ち、静かに剣を構えた。
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「名を失くした世界に生きるくらいなら、
俺は……“名を背負って死ぬ”ほうが、ずっとましだ!」
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ティラが叫ぶように詠唱を始める。
【記憶魔法・記名再誓】
効果:失われた名を“信念”で書き換え、再度魂に刻む
特性:対象が“誰かに覚えていてほしい”と願っていなければ無効
代償:書き換えた名が本来と異なる場合、“記憶の暴走”が起きる恐れ
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「だったら、あたしがあんたの名を作ってあげる!
誰にも呼ばれたことがないなら、あたしが最初の一人になる!」
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その瞬間――ナミスの結界が崩れ始めた。
「……何を……貴様、私に……“名を与える”気か……!?」
ティラが叫ぶ。
「“ナミス”じゃない――
あんたは、もう“ひとりの人間”だった頃の名前があったはず!」
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海が吼えるように波を立てた。
次の瞬間、記憶の海が彼らの周囲を呑み込み、
“ナミスのかつての記憶”が暴走し始める。




