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『記憶の海、沈まぬ君へ』  作者: 梅犬丸
第三章『失われし海に死者は歌わず』
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第十六話「欠落した名」

浮律海域ルナ=マーレに朝は来ない。

 時間も天候も存在しないこの場所で、ただ記憶の波だけが、ひたすらに“誰か”を語り続けている。



 波打ち際に、名もない記憶が漂っていた。


 それは、言葉を失くした旋律。

 誰のものでもない手紙のような魔法断片だった。



「……“これ”には、名前がない」


 アウラがそれを拾い上げた。

 譜面のように見えるそれは、何層にも複雑に折り重なっており、一部が欠けていた。


 譜の中心には、一文字も記されていない“空白の名”が刻まれていた。



【記憶魔法核断章:No.0】

機能不全

所持者不明

名称:____



 カイがそれを見て、ふと眉をひそめる。


「これは……術式の“鍵”が抜かれてる。

 本来は“名”を記すことで機能する記憶魔法だ」



「でも名がないなら、これはただの“音の残骸”じゃないの?」


 ティラが首をかしげる。


 カイは否定するように、静かに言った。


「いや、“名を失った”んじゃない。

 **“最初から名を与えられなかった魔法”**なんだ」





 突然、海面が音もなく震え、薄い霧が差し込む。


 波の先に、ひとりの人影が立っていた。


 黒と白を基調とした法衣。目隠しの仮面。

 そして、両手には左右逆転の譜面を携えていた。



「――記憶の深層へ、ようこそ。

君たちは、既に“許されぬ名”に触れ始めている」



「……誰だ」


 カイの声に、使徒は微笑んだように言う。


「我は“ナミス”。

“名を持たぬ者”の代弁者。

虚白の王の意思のもと、“君たちが呼ぶ名”を消しに来た」



「つまり……記憶の“名前”を壊すのが、お前たちの仕事か」


「その通り。

記憶とは痛み。名とは罪。

“名づけること”こそが、世界を歪めた――そう我らは信じている」



 ナミスが一歩進むたび、空間から“名前の断片”が砕け散る。

 そのたびに、周囲の音がひとつずつ消えていった。



ナミスの魔法が発動した


【記憶魔法・無名結界ネイムレス・アリア

効果:周囲に存在する「名前付きの記憶体」をすべて消去/または変質させる

特性:結界内で名を呼ぶと、その記憶が書き換えられる恐れあり

代償:術者自身も「自分の名前」を永遠に持てなくなる(アイデンティティ喪失)



 カイの目が鋭くなる。


「……なら、お前も“名を呼ばれる”ことはできないわけか」


「そう。“名を呼ばれた時”、私たちは存在できなくなる。

だから、私の真名に至った者は――例外なく、消す」



 ナミスが手を広げ、記憶の海に“名の空白”が生まれる。


 カイがティラを庇うように立ち、静かに剣を構えた。



「名を失くした世界に生きるくらいなら、

 俺は……“名を背負って死ぬ”ほうが、ずっとましだ!」



 ティラが叫ぶように詠唱を始める。


【記憶魔法・記名再誓インスクリプト・プロミス

効果:失われた名を“信念”で書き換え、再度魂に刻む

特性:対象が“誰かに覚えていてほしい”と願っていなければ無効

代償:書き換えた名が本来と異なる場合、“記憶の暴走”が起きる恐れ



「だったら、あたしがあんたの名を作ってあげる!

 誰にも呼ばれたことがないなら、あたしが最初の一人になる!」



 その瞬間――ナミスの結界が崩れ始めた。


「……何を……貴様、私に……“名を与える”気か……!?」


 ティラが叫ぶ。


「“ナミス”じゃない――

 あんたは、もう“ひとりの人間”だった頃の名前があったはず!」



 海が吼えるように波を立てた。


 次の瞬間、記憶の海が彼らの周囲を呑み込み、

 “ナミスのかつての記憶”が暴走し始める。


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