第十二話「君がくれた旋律」
朝。風が静かに譜庫を撫でる。
セファリアの街は、目に見えるほどに変わっていた。
街の北側にある「記録の庭園」は立ち入り禁止になり、中央譜塔には常に監視の魔導兵が配備されている。
それでも、市民は気づかない――“記憶が静かに抜き取られている”ことに。
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カイ――否、“セリオン”は、未だ誰からも名前を呼ばれていなかった。
魔法を使った代償。
一定時間、他者に名を呼ばれる資格を失うその効果は、カイに思った以上の空虚をもたらしていた。
ティラとアウラは気づかぬふりをしていたが、
呼べないことが、こんなに苦しいとは、誰も想像していなかった。
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「……私、呼べないの、すごく嫌だよ」
夜。屋上で星を見ながら、ティラが言った。
彼女の声は、少し震えていた。
「ねぇ、名前ってさ、誰かのためにあるって思ってたけど、
ほんとは、“呼びかけるための魔法”なんだよね」
カイは頷いた。
たとえ、何も言えなくても。
たとえ、自分が何者か分からなくても。
「誰かが名を呼んでくれる限り、人は消えない」。
――それが、この世界の真理だった。
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「私、覚えてる。カイが初めて私の名前を呼んでくれた時、
なんだかこの街の景色まで、明るくなった気がしたの」
その言葉に、カイはゆっくり目を閉じる。
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あの時も、そうだった。
崩れかけた橋の上、身を挺して守ってくれた彼は、
最期のような顔で、微笑みながら言った。
「大丈夫だ。ティラって、名前があるだろ?」
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名前は、命を繋ぐ旋律だった。
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ティラは、彼の手をそっと取る。
「……だったら、私も返したい。
あなたに、名前を返したい」
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◆ティラの魔法発動
ティラは、胸に抱えていた譜面を開いた。
【記憶魔法・名唱奏】
効果:対象の“真名”を旋律として呼び出し、名の存在を世界に再刻印する
特性:術者の“感情”が旋律の質を左右する。成功すれば、対象の記憶と存在が安定化する
代償:使用者は、対象の“未来に関わる記憶”を一時的に背負う。すなわち、その人が向かう未来を一部“見てしまう”
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旋律が、夜空に流れた。
星と風が、その旋律に呼応する。
ティラの声が、静かに響く。
「セリオン――あなたの名前を、もう一度呼ぶよ。
だって、それは私が……初めて、“生きたい”って思えた名前だから――!」
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魔法は、発動した。
風が渦を巻き、譜面が光に包まれる。
その中心で、カイの記憶が静かに回帰していく。
名も、想いも、痛みさえも――そのままに。
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「……俺の名は、セリオン。
でも、カイでもある。
どちらでも、構わない。
お前たちが、呼んでくれるなら――」
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夜の風が通り抜ける。
その中心で、“名前を取り戻した少年”が、静かに立っていた。
ティラは涙を拭いながら、笑った。
「おかえり、セリオン」
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翌朝、譜塔の上で、アウラが言った。
「動き出すよ。“記憶の泥”が、セファリアの外にも広がり始めてる。
今度は、私たちが“名前を救いに行く”番」
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彼らは歩き出す。
“忘れられた町・ソウ”へ。
かつてセリオンが守れなかった、少女の笑顔があった場所へ。




