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『記憶の海、沈まぬ君へ』  作者: 梅犬丸
第二章『想起する剣は血を流さない』
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第十一話「名前を呼ぶ魔法」

 記録詩人の間で、ある言い伝えが残っている。


 「名を呼ぶとは、魂を繋ぐこと」

 ただ音を発するだけではない。

 呼びかけるという行為そのものが、記憶の奥に触れる魔法だと。



 セファリアの音律は一時的に回復したが、浮島全域で“旋律の欠落”が続いていた。

 黒衣の敵を退けた後も、空白の譜面が増え続けている。


「……記憶の“喰われ方”が変わってきてる」


 アウラが小さくつぶやく。


「前は“人”の記憶だった。けど、今は“街そのもの”の記憶が、まるごと剥がされてる……」


 それはただのデータではない。

 生きてきた人々の旋律が、“なかったこと”にされていく現象。


 そして、ある地図に記された“場所”の名が、完全に消えていた。



「……“ソウ”って、どこ?」


 ティラが見せた譜面の断片に刻まれていた、かつて存在していたはずの地名。

 そこにあったのは、削り取られた空白。何の記録も、記憶も残っていない。


「俺の記憶の中にも、あるはずなんだ。けど、思い出せない」


 カイの胸が軋む。

 確かに、“そこ”にいた誰かを守ろうとしていた。

 けれど、その“誰か”の名前が、どうしても思い出せない。



「なら、思い出すための魔法を使えばいい」


 アウラがそう言って、ひとつの譜面を差し出した。


「だけど、それは“本当に大切なもの”を代償にする魔法。使う前に……覚悟が必要よ」



 夜。譜庫の屋上。

 カイはその譜面に向かって、静かに右手を翳した。

 胸の奥、まだ触れていない、**“本当の名前”**の記憶が揺れる。



【記憶魔法・原名起動ネイム・リコレクト

効果:自らの内に封じられていた“真の名前”と、それに繋がる過去の記憶を強制的に開放する

特性:一時的に感情・記憶が過剰に流入し、精神の境界が曖昧になる

代償:使用者は、他者に“名を呼ばれる資格”を一時的に失う(一定時間、誰からも名を呼ばれなくなる)



 魔法陣が輝いた刹那、風が止まる。

 カイの脳裏に、波の音が響いた。


 そして、誰かが呼んだ。


「カイじゃない。君は――“セリオン”だ」


 その名が触れた瞬間、胸が裂けるような痛みが走る。

 かつて確かにあった“本当の自分”。

 誰かに呼ばれていた、“守るべき名”。



 ――“セリオン”。


 この名は、かつて世界に“記録されることを拒んだ少年”の名だった。

 自ら名を隠し、記録に残らぬよう、記憶を捨てて戦場を渡った者の名。



 目の奥が痛む。

 そして、口を開こうとした瞬間、何かが喉を塞ぐ。


「……あ……れ……?」


 誰かに呼ばれても、返せない。

 代償が発動したのだ。



「カイ! 大丈夫!? ――あ、違う、“セリオン”……!」


 アウラが駆け寄っても、カイは反応できない。

 その名は“届いて”いる。けれど――返す術が、ない。


 まるで世界に“名前を持たない存在”として、切り離されたかのようだった。



 それでもカイは、前を向いた。

 胸の奥には、確かに蘇った記憶があった。


 ソウの町。記憶を失う前、自分が守ろうとしていた少女の笑顔。

 名前もまだ思い出せないが――そこにいたことは、確かだった。



「……俺は、戻る。

 過去に、じゃない。“その場所”に。

 もう一度、ちゃんと名前を呼びたい。俺が守れなかったものの、すべてを……」



 風が、再び動き出す。

 彼の中の“封じられていた名前”は、今、ようやく解かれた。

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