第九話「呼ばれたくない名前」
朝の光が淡く譜庫に差し込む。
ティラは譜面に向かいながら、沈黙していた。何度読み返しても――旋律は現れない。
「……音が、消えてるんじゃない。“削られてる”んだ」
カイの声は低く、静かだった。
アウラはその言葉に、小さくうなずいた。
「記憶って、削られるものなの? ただ失うだけじゃなくて――」
「俺たちはリュカの村で見た。“記憶の形”は、人間の根幹に触れる。
その断片を切り落とされたら、もはや“元の自分”とは言えなくなる」
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そのとき、奥から走ってきた記録詩人が緊迫した声を上げた。
「北街の“風の墓地”が……浮島の一部が落ちた!」
アウラの目が見開かれる。
「風の墓地……あそこには、師匠の家族の旋律が埋まってる。急ぎましょう!」
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浮島を繋ぐ音律橋を渡りながら、アウラは口を開いた。
「……カイ、ティラ。さっきの話の続きをするね。
私の師匠は生きている。でも、“記録詩人としての記憶”を全部、失ってる。
今の彼はもう、誰かの旋律を覚えることも、歌うこともできない。
だから私は……記憶の中で、彼を“死んだ”と認識してるの」
その言葉は冷たくはなかった。
むしろ、彼女の中に残る“愛情”と“諦め”が、苦しく染みていた。
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“風の墓地”。
そこは、風に乗せて旋律を眠らせる、記録詩人たちの墓標の島だった。
だが、その日――風は、鳴っていなかった。
「……音が、しない」
ティラの声が震える。
カイが地面に落ちていた譜板を拾う。だがそこには、名前も旋律も、何もなかった。
「これ……“無名”だ。誰の記憶だったのか、すら分からない」
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「“誰の記憶でもない”旋律ほど、美味しいものはないですね」
不意に、影がささやいた。
振り向くと、フードを被った男が、中央の記録柱の上に立っていた。
「お前……何者だ」
「名なんてどうでもいい。お前には、もう“名前の意味”なんて残ってないんだから」
男が持ち上げた黒譜面の一角。そこに刻まれていた紋章に、カイは目を見開く。
「それ……俺の記憶か……?」
「正確には、“君が差し出した記憶の欠片”。
君の“本名”も、少しだけ触らせてもらった。
どう? 思い出してみる? それとも――知りたくない?」
男の嗤いに、カイの拳が静かに震える。
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そして、次の瞬間だった。
――“音が、斬られた”。
空を裂いて降る、黒い旋律の刃。譜面から剥がれた音そのものが、物理的な殺意を持って飛来してきた。
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「ティラ、下がってろ」
それは、確かに誰かを守るための声だった。
カイは、一歩前に踏み出す。そして、空間に指を滑らせる。
青白い光が軌跡を描く。
彼の内にある“過去”が、魔法陣として具現化していく。
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【記憶魔法・双影防壁】
効果:使用者の「過去の記憶」のうち2つを具現化し、それを盾として攻撃を相殺する
代償:使用ごとに選んだ2つの記憶は“回復不可能な断片”として消失する。自我に微細な断層を残す。
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展開された二枚の光壁は、記憶の中から引き出された――
一枚は、父に名を呼ばれた最後の夜の記憶。
もう一枚は、幼い弟が振り返って名を呼んでくれた、あの春の記憶。
それらは、音もなく彼の中から消えた。
彼はそれを、無言で受け入れる。
「この手は、誰かの名前を守れなかった。
けどそれでも、まだ“何か”を守りたがっている。
なら……俺が何者であろうと、構うもんか――」
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黒い旋律刃が防壁にぶつかり、弾けるように消えた。
その衝撃の向こうで、カイは膝をつく。
だが、顔を上げていた。失った痛みに、瞳が震えていた。
「……名を知らない者は、未来を築けない」
男が告げたその言葉は、警告のようであり、呪いのようでもあった。
「次は、“記録詩人の君”の記憶をいただこうか」
男の指先が、アウラの方を向いた。
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「……なら、私が歌う」
アウラが譜面を構える。
「たとえ私の記憶が欠けても、旋律が歪んでも、それでも――“誰かの名を呼びたい”って気持ちまで、奪わせたりしない!」
その瞬間、譜面が淡く光った。
かつて師匠が残した子守唄の断片が、微かに呼応したように。
「へぇ……まだ歌える余地があるんだ。君の記憶は、“まだ未完成”だってことさ」
男は不敵に笑うと、黒い譜面を閉じてその場から霧のように姿を消した。
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その場に残されたのは、静かな墓地と、奪われた旋律。
そして、またひとつ名を失ったカイの背中だった。




