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『記憶の海、沈まぬ君へ』  作者: 梅犬丸
第二章『想起する剣は血を流さない』
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第八話「記録と旋律と傷跡と」

記憶が旋律となって歌われる街、セファリア。

 その静けさは、昨日よりも少し深かった。


 カイとティラは、アウラの案内で《記憶の譜庫》へと向かっていた。

 この都市最大の音律記憶保管所であり、歌に変換された記憶の旋律が譜面として残されている場所。


「……ここに、歌えなくなった旋律が増えてきているの?」


 ティラの問いに、アウラは黙ってうなずいた。

 3人の足元には、滑らかな白石でできた床。その隙間からは、かすかに旋律が漏れていた。


「記憶は、旋律になって残る。でも……“誰にも歌えない”旋律がある。

 その旋律が増えているということは、“記憶そのもの”が削がれている証」



 譜庫の奥。

 アウラは一冊の譜面を取り出した。表紙にはこう記されていた。


【詠:無題(沈む舟の子守歌)】


「この旋律、私の師匠が残したもの。でも――」

アウラは震える声で言う。


「私はこれを、一度も歌えたことがないの」


 ティラが譜面を覗きこむ。そこに記された旋律は、確かに――不完全だった。

 音階が跳び、拍子が崩れ、まるで意図的に記憶が断ち切られているかのようだった。



「……これって、“記憶の外傷”だよ」


 カイが静かに言った。


「リュカの村で見た。記憶魔法を奪われた人の思い出は、こういうふうに“穴”になる。

 “思い出せない”じゃなく、“思い出せるはずがない”記憶」


 アウラは目を伏せた。


「師匠は、生きている。でも今は“歌えない記録詩人”になってしまった。

 歌うたびに、過去が抜け落ちていくように、音がにじんでいくって……泣いていた」


 それが――この街で今、静かに進んでいる“侵食”。



 その時、遠くで鐘楼の鐘が外れた音を立てた。

 ティラが顔を上げる。


「昨日も、鐘の音がずれてた。あれって……」


「“旋律の空白”が生まれた合図よ」


 アウラは立ち上がる。

 譜庫の外では、数人の記録詩人たちが慌ただしく動いていた。


「また“ひとつ”、誰かの旋律が、失われたのよ――」



 街の北、静かな居住区。

 彼らが辿り着いたのは、小さな楽器工房だった。


 そこにいたのは、アウラの師匠――バルト・エイヴァンス。

 元・記録詩人。今は記憶喪失のため、旋律もほとんど歌えない。


 カイたちが訪ねると、彼は無言で彼らを見つめた。


「……誰、だっけ?」


 その声は穏やかで、それゆえに残酷だった。


「師匠……」


 アウラが駆け寄るが、バルトは彼女をただ静かに見つめるだけだった。

 その目には、もはや何の旋律も宿っていない。



「なあ、アウラ。君が言ってた“歌えない旋律”……それは本当に、君が忘れたから歌えないんじゃないんじゃないか?」


 カイが静かに語りかける。


「“誰かに忘れさせられた”んだ。強制的に、記憶ごと切り離された」


 アウラは唇を噛んだ。


「……そんなの、許せない」


 その言葉に、ティラも頷く。


「なら、歌いましょう。私たちの記憶が消える前に」



 その夜。

 アウラは、父がかつて手渡してくれた古い譜面を見つめながら、ひとつの旋律をつむいだ。


 その旋律は――微かに震え、そして止まった。


 “そこ”に音がない。音が、欠けている。


 それは、記憶が傷ついている証拠。


 その旋律の向こう側に、まだ見ぬ存在の気配があった。



 同じ頃。

 鐘楼の上では、フードを被った男が空を見下ろしていた。


「なるほど……“旋律の感応者”が目覚めたか。予想より早いな」


 男は、手に持つ黒い譜面を開き、ひとつの音をなぞった。

 それは、バルトの記憶から切り離した**“名前の旋律”**だった。


「次は、あの少女の記憶に触れてみよう。――“歌えない旋律”は、いつも一番美しい」


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