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「歩いていけるところにある幸せ」

牛乳が切れていた。

 

朝のコーヒーに一滴も入れられなかったことで、セラさんはすっかり目が覚めてしまった。苦いだけのコーヒーを一口すすって、思わず顔をしかめる。


カウンターの片隅で、小さなラジオがささやくように流れている。


(……本日、山口は全域で晴れの予報です。風も穏やかで、昼には気温が二十五度近くまで上がるでしょう。お出かけの際は、日差し対策もお忘れなく......)

 

「今日は天気もいいし……歩いて行こうかな」

 

カフェの窓から差し込む光が、木の床に柔らかい影を落とす。洗い立ての白いワンピースに袖を通すと、生地が肌に心地よく触れた。つばの広い帽子を手に取り、鏡で自分の顔を確認する。頬に少し血色が戻っているのを見て、小さく微笑んだ。

 

ヒールの少し高いサンダルを履いてから、レジの奥で丸くなっていた黒ネコに目を向けた。

 

「牛乳だけ買ってすぐ帰るから、ちょっとだけお留守番ね。お利口にしてたら、今夜美味しいお魚食べさせてあげるからね」

 

ネコは半目だけ開けて、「にゃあ」と短く返事をした。

 

扉を開けると、かすかな潮の匂い。そして魔素の気配が頬を撫でていく。この混ざり合った空気を胸いっぱいに吸い込む。一瞬、肺の奥にちりちりとした異物が広がる。けれど、それはすぐに体内で浄化されていくのがわかる。この土地で生まれ育った葵さんは、この空気を何の抵抗もなく吸い込んでいるのだろう。

 

東京にいた頃は、いつも空調の効いた密閉された空間にいた。天上界の澄んだ空気は確かに完璧だったけれど、どこか人工的で、生きている実感が薄かった。ここの空気は違う。雑多で、時には荒々しくて、でもとても生きている。

 

坂道を下りながら、セラさんは一歩一歩を味わうように歩いた。石畳のところどころに生えた苔が、朝露でしっとりと濡れている。

 

セラさんのカフェがある街は、決して裕福とは言えない。道路は崩落の傷跡を残し、電線には蔦が絡まり、古い建材を組み合わせた家々が肩を寄せ合うように建っている。それでも、玄関先に小さな花を植えている家があり、手作りの看板を丁寧に描き直している店がある。人々は諦めずに、今日という日を大切に生きていた。

 

「セラさん、朝のお散歩ですか?」

 

声をかけてきたのは、坂を少し下ったところにある薬草店のミドリさんだった。腰の曲がったおばあちゃんだけれど、いつも目がきらきらと輝いている。

 

「牛乳が切れちゃいまして。それに、こんなに良い天気なのに散歩をしないのはもったいないなって思ったんです」

 

「まあ、それはいいこと。歩くのは薬になりますからね。時間があれば、帰りにお茶でも寄ってってくださいな。今朝、美味しいクッキーを焼いたんですよ」

 

「本当ですか?ふふ、それじゃあ、帰りに少しだけ……楽しみにしてます」

 

ミドリさんは嬉しそうに手を振って、店の奥に消えていく。きっと今頃、お客様用のカップを準備してくれているのだろうか。

 

街には今日もトラックのほのかな唸り音が響き、子どもたちは空き地になった瓦礫の広場で鬼ごっこをしている。その声が坂を駆け上がってきて、セラの足取りを軽やかにした。

 

空を見上げれば、丘の上の風力塔のプロペラが静かに、でも力強く回っている。あの塔には最新の魔素変換技術が使われていると聞いた。科学で魔素を利用しようという、この国ならではの風景だ。

 

けれど、この坂の途中の街角は、どこまでも手づくりの温もりに満ちていた。

 

商店の扉を開けると、冷房の涼しさが頬を撫でた。棚を見回すと、牛乳が三本だけ残っている。

 

「今日はラッキーですね」

 

セラさんは一本手に取り、隣の棚で目についた小さなカップのプリンに手を伸ばした。カスタード味と書いてある。東京にいた頃は、こんな素朴なお菓子は食べなかった。でも今は、このささやかな甘さが恋しくてたまらない。

 

(……葵さんには内緒にしよう)

 

レジの女の子——確かユミちゃんだった——が、人懐っこい笑顔でお釣りを渡してくれる。

 

「セラさん、今日もカフェ開けるんですか?」

 

「はい、今日は午後からですね。今度時間があるときに、新作のレモンタルトを食べに来てください」

 

「やったあ! 絶対行きます!」

 

ユミちゃんの弾むような声に見送られて、セラさんは店を出た。

帰り道は少しだけ遠回りすることにした。

 

丘を登りきった場所に、手作りの小さなベンチがある。海が一望できる、この街でいちばん好きな場所だ。誰かが色褪せた木材で作ったベンチは、長年の風雨で角が丸くなって、座り心地がとても良い。

 

帽子を風で飛ばされないよう押さえながら、そっと腰を下ろす。買ったばかりのカッププリンの封を、ぺりりとめくった。付属の小さなプラスチックスプーンで一口すくって、口に入れる。

 

甘くて、やわらかくて、舌の上でほろりと溶けていく。ああ、生きてるなって思う。この小さな幸せが、胸の奥でほんわりと広がった。

 

海の向こうで、白い船体に複数のアンテナを立てた船が進んでいる。たぶんあれは、汚染海域の調査船だったか。彼らは、魔素に侵され長らく人類が踏み込むことを拒んできた海へ挑戦している。まだまだ世界は傷だらけだけれど、それでも少しずつ、確実に回復している。人間は諦めない。この街の人たちを見ていると、そのことがよくわかる。

 

風が髪を揺らし、白いワンピースの裾をひらりと踊らせた。プリンを食べ終わったセラさんは、空になったカップを大切に手に持ち、立ち上がった。

 

「よし、私もがんばろう!」

 

心の中でだけそう呟いて、坂道を下り始める。午後には、常連のお客さんが来るかもしれない。あるいは、新しい旅人との出会いがあるかもしれない。

 

でも今は、この坂の途中で味わった小さな甘さを胸に抱いて。世界の隅っこで、ひとつずつ集めた幸せを大切にしながら、セラさんは今日という日を歩いていく。

 

足取りが軽やか過ぎて、気がつくともうミドリさんの薬草店の前まで来ていた。店の奥から、ほのかに甘い香りが漂ってくる。きっと、約束のクッキーを温めてくれているのだろう。

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