「魔法のジャムと祖母の記憶」
夕暮れどきのカフェ・アポクリファは、ゆったりとした時間に包まれていた。
店内には、深煎りのコーヒーとほんのり甘いバターの香りがただよっている。
奥の席では、葵さんが新聞を広げて、あくびをひとつ。
「今日は静かね」なんて言いながら、ページをめくる音だけが店内に小さく響いていた。
カウンターに腰掛けた常連の大学生――坂上光希は、手元のマグカップを見つめたまま、小さな声でつぶやいた。
「最近、なんか……気分が上がらなくて」
セラさんは、静かにカウンター越しに目線を向けた。
「……就職活動、うまくいってないんですか?」
光希は苦笑して、うなずいた。
「就活で、また落ちました。今日も。『真面目だけど、何か物足りない』って言われて」
「そんな風に言われると、戸惑ってしまいますよね」
「……はい、そう言われると、自分が何なのかわからなくなるんです」
光希の声には、自嘲にも似た疲れがにじんでいた。
少しの沈黙のあと、彼はぽつりとつぶやいた。
「婆ちゃんが生きてたら、なんて言ってくれただろうな」
三年前に亡くなった祖母は、いつも光希の一番の理解者だった。
それを聞いたセラさんは、少し首を傾げてから、静かに微笑んだ。
「光希さんのおばあ様、よく言ってましたよ。
『あの子はね、失敗してもすぐ立ち直るんです。ちょっと不器用だけど、本当に真面目でいい子なのよ』と。」
「……そういえば、婆ちゃんもここによく来てましたよね。
俺も、婆ちゃんに連れてきてもらったのが、初めてだったかも」
セラさんは、その言葉に静かに頷いた。
「ええ、よくいらしてました。雨の日も、晴れの日も。
必ずホットミルクにイチゴのジャムをひとさじ。
……あの方は、あなたの話をするのが好きでしたよ」
光希の目が、少し驚いたように揺れた。
「……ほんとですか?」
「ええ。『優しくて、人の痛みに気づける子なんです』って、
何度もおっしゃってました。……うふふ、葵さんは、孫自慢がまた始まったなんて言ってましたね」
光希は、ふっと息をついた。少しだけ目元を拭うようにして。
「……そんなふうに思っててくれたんだな、婆ちゃん」
セラさんはうなずき、少しだけ懐かしむように目を細めると、カウンターから身を引いた。
「そういえば、おばあ様はジャム作りの名人でしたね。
うちにもよく分けてくれてました。今日は甘いジャムを食べて元気になりませんか?」
そう言って、彼女は奥の厨房へと消えていった。
セラさんが厨房へと姿を消すと、店内の気配がふっと変わった気がした。
カウンター越しに見えるキッチンの奥、セラさんは冷蔵庫を開け、透明なパックをそっと取り出す。
詰まっていたのは、朝摘みのような艶やかなイチゴ。
触れた指先から淡い光が滲み、その輝きは果実の赤をさらに瑞々しく照らした。
「こぼれ落ちた時間の欠片よ、錆びた心の歯車に甘さを注げ…」
セラさんは静かに呟きながら、指先で空中に光の文字を描いていく。
「――あの子が忘れかけた、『大丈夫だよ』の声を、イチゴの種に刻んで」
イチゴを鍋に落とすと、熱がふんわりと立ち昇る。
途端に、幼い笑い声が鍋の中から微かにこぼれた。光希の、幼い日の声。
祖母の家の台所で。
「ばあちゃん、これ、おいしいね!」
「光希はほんとに、イチゴのジャムが好きだねぇ」
その幻のような声が湯気に乗って立ちのぼる。
セラさんの影が窓ガラスに映り、その輪郭が一瞬だけ、優しい老婆の姿に揺れた。
「真面目すぎるのは、君の強さの裏返しだと――おばあ様は知っていたでしょう?」
セラさんの声は、もう彼女一人のものではなかった。誰か懐かしい人の響きを帯びていた。
「焦らなくていい、迷わなくていい。あなたはもう、あの日の台所で答えをもらっているから」
イチゴは音もなく煮詰まり、果肉の輪郭がとろけていく。
その間にも、セラさんの指は止まらない。
空中に綴られる光の文字列が、まるで祈りの旋律のように、ゆっくりと回っていた。
「さあ――この甘さを『物足りない』なんて言った大人たちに、思い出させてあげなさい」
セラさんは静かに笑った。
「本物の優しさの味を」
鍋の中には、赤く澄んだ、たった一杯ぶんのジャム。
イチゴが、魔法のレシピに応えていた。
光希は何も言わずにぼんやりとカウンターを見つめていた。
疲れた目の奥に、何か遠いものを探すような影が宿っている。
やがて、ふわりと甘い香りが店内に広がった。
焼き立てのトースト。溶けかけたバター。そして――どこか懐かしい、いちごジャムの香り。
皿の上に乗せられたトーストはこんがりと焼かれ、艶やかな赤のジャムがぬられている。
セラさんは、それを光希の前にそっと置いた。
「召し上がれ。これには、ひとつだけおまじないをかけました」
光希は、そっとトーストを手に取った。
焼き目の香ばしさと、いちごジャムの甘い香りがふんわりと立ちのぼる。
ひとくち、かじる。
サクッという小さな音とともに、バターの塩気と苺の酸味が、じんわりと口の中に広がった。
「……うまい」
ぽつりと、光希がつぶやいた。
それは誰に向けたわけでもない、ただこぼれた感想だった。
もうひとくち。
そして、もうひとくち。
味わうたびに、胸の奥に積もっていた何かが、ゆっくりと溶けていく。
不意に、思い出した。
小学生の頃のことだ。
祖母と買い物帰りに重い荷物を持ったら、「ありがとうね」と、にこっと笑って――
次の日の朝、いつもより多めにジャムを塗ったパンを用意してくれていた。
「優しい子には、ご褒美あげないとね」
祖母はそう言って、光希の頭を撫でながら笑った。
……あの時のパンの味、今でもちゃんと覚えている。
「……たぶん俺、就活に落ちたことより、
誰かに『物足りない』って言われるのが、怖かったんだと思います」
光希は、そっとマグカップを手に取る。
「……優しくて、人の痛みに気づける子、か……」
光希はぽつりとつぶやいた。
その言葉が、心の奥のどこかで、ふわりと広がった。
セラさんは、黙って微笑んでいた。
その表情に、どこか祖母の面影が宿っている気がした。
「……また、頑張ってみます。
自分の“足りない”ところじゃなくて、“持ってるもの”を見つけてくれる場所を探してみたい。
そんな場所が、どこかにあるって信じてみます」
言葉にしてみると、不思議と気持ちが軽くなった。
光希は、最後の一口をゆっくりと味わった。
セラさんは、静かに頷く。
「ええ。きっと、ありますよ。
たとえ遠回りになっても、自分の味を信じた人は、
ちゃんと自分に合った居場所を見つけられますから」
店内には、静かなオルゴールのようなBGMが流れていた。
夕暮れの光は、すっかり紫色に染まり、ガラス窓の外には街灯が灯り始めている。
光希は立ち上がり、深く一礼した。
「ごちそうさまでした。……また来ます、セラさん」
「はい。お待ちしてますよ。光希さん」
会計を済ませたとき、カウンターの端で黙って新聞を読んでいた葵さんが顔を上げた。
「光希、就職決まったらここでお祝いパーティーするから、がんばれよ~」
と笑った。
扉が開き、カラン――と、鈴の音が鳴る。
その背中には、ほんの少しだけ、新しい風が吹いていた。