「眠れぬ夜に、カモミールを」
藤井雪乃は、今朝も結局一睡もできなかった。
布団の中で天井を見つめながら、昨日のプレゼンテーションのことを何度も反芻していた。資料の不備、上司の厳しい表情、同僚の視線——全てが頭の中でぐるぐると回り続けて、気がつけば窓の外が白んでいた。
シャワーを浴び、コーヒーを一杯飲んで出社したものの、案の定一日中頭がぼんやりしていた。会議中にうとうとしそうになって、課長に「大丈夫か?」と心配そうに声をかけられた。
その優しさがかえって胸に刺さって、思わず「すみません」と謝ってしまう。
最近こんなことばかりだ。眠れないから集中できない。
集中できないから仕事でミスをする。
ミスをするから不安になって、また眠れなくなる。
悪循環だとわかっているのに、抜け出せずにいる。
定時を少し過ぎた頃、私は重い足取りで会社を後にした。
いつもなら真っ直ぐ家に帰るところだが、今日はなんとなく、あのカフェに寄りたくなった。駅から少し外れた住宅街の裏道を歩いていく。
通い慣れたこの小道には、今風の家々が肩を寄せ合い、夜にはどこか懐かしい匂いが漂ってくる。
灯りは少ないが、その静けさがむしろ心地よい。
そんな一角に、ぽつんと灯る温かな光がある。
――カフェ「アポクリファ」
最初にここを見つけたのは、半年ほど前のことだったか。
仕事の帰り道、いつもより一本奥の道を通ってみたその偶然の中に、その小さなカフェはあった。控えめな看板、アンティークな扉、小さなテラスには植木鉢と、毛づくろいをしているネコが一匹。
今夜も、扉を開けると、ほのかにコーヒーと甘いスパイスの香りが鼻をくすぐった。
小さなベルの音が、静かに響く。
「いらっしゃいませ、雪乃さん」
優しい声が出迎えてくれる。
カウンターの奥でコーヒー豆を挽いていたのは、店主のセラさんだった。
艶のある銀髪に白い肌、そしてどこか異国的な、けれど親しみを感じさせる穏やかな雰囲気の女性だ。年齢は三十代前半くらいだろうか。いや、高校生くらいにも見える。この人は年齢不詳だ。
今日は、白いブラウスにベージュのエプロンを身に着けている。
店内を見回すと、いつもの常連さんたちがいた。
窓際の席では、白髪の紳士が分厚い本を読んでいる。
雪乃と目が合うと、穏やかに会釈してくれた。
カウンターの端には、黒い毛並みの猫がちょこんと座って、まるで常連客のようにくつろいでいる。
奥のテーブル席では、大学生らしい女性がノートパソコンを開いて、何かを真剣に入力している。
BGMには、静かなジャズピアノが流れていた。
決して大きすぎず、小さすぎず、会話の邪魔をしない絶妙な音量だ。
壁には古い時計がかかっていて、秒針の音が規則正しく時を刻んでいる。
この音が、なぜか心を落ち着かせてくれる。
「……最近、全然眠れないんです」
いつもの席——カウンターの真ん中あたり——に座りながら、ぽつりと漏れた言葉。
セラさんは人の気配や心の動きにとても敏い。
だから、雪乃が何も言わなくても、その日どんな気持ちでここに来たのかを、まるで見透かすように分かってしまうらしい。
「そうですね……疲れの色が、いつもより濃く見えます」
セラさんは頷き、にこりと微笑んだ。
その笑顔には、責めるでもなく、同情するでもない、ただ受け入れてくれるような温かさがあった。
「では、今夜はカモミールティーなんていかがでしょうか」
「リラックスできそうで、いいですね」
そんなセラさんとの会話を楽しんでいると、ふと黒猫が脚の上に飛び乗ってきた。
温かな重みと共に、ゴロゴロという音が胸に響く。
私はその黒猫の背中をなでる。
「あら、珍しい。カノンが懐くなんて」
セラさんが微笑みながら、そっと指を組んだ。その瞬間──
セラさんの唇が微かに動く。
声にはならない囁きが、カップの縁で螺旋を描くように溶けていく。
(過ぎた憂いは風に乗せ.....この子の夜を星が包みますように)
今日はずっとカウンターの奥で帳簿を睨んでいた葵さんが、ちらりと視線を上げ、ため息混じりに言った。
「また始まった、その”おまじない”」
おまじないとやらは、私には聞こえなかった。
ただ、ふと窓辺のカーテンが揺れた気がした後、不思議な風が頬を撫でていった。
見回しても窓は閉まっている。
窓際席の老紳士がふと顔を上げ、私と目が合うと、小さく頷いてこう囁いた。
「大丈夫ですよ、娘さん。ここにいれば、きっと」
なぜだかわからないが、私はその言葉で胸の奥の棘がひとつ、ふわりと抜けていくのを感じた。
「葵さん?おまじないって何のことでしょう?」
「とぼけないの。その指先のきらきら、見えてるから」
「……葵さんには、敵いませんね」
二人の掛け合いを見ていると、まるで古い夫婦のような、あるいは姉妹のような親密さを感じる。
「はい、こちら。カモミールティーに、少しだけシナモンと、秘密をひとつ」
セラさんが差し出したカップから、いつもより少し甘い香りが立ち上った。
「……秘密?」
「ふふ、飲んだら分かりますよ」
苦笑しながらカップを受け取る。
陶器の温かさが、手に心地よく伝わってくる。そっとひと口飲むと——。
あたたかくて、やわらかくて、心の奥にまで染みわたるような味だった。
林檎のような香りの向こうに、ほんのり甘いシナモンが香る。
そして、そのどれでもない「何か」。言葉にできない、でも確かにそこにある、優しさのような味。
気がつけば、ずっと張りつめていた肩の力が抜けていた。
呼吸も、いつの間にか深くゆっくりとしたリズムになっている。
「おつかれ雪乃ちゃん。セラさんの"魔法のお茶"飲んだら、三日ぐらい眠れるかもよ?」
葵さんの冗談めかした言葉に、思わず笑いがこぼれた。
こんなふうに笑うの、いつ以来だっただろう。
「え、そんな……いや、まぁ、逆に助かります」
「でも本当に……最近顔見てなかったし、どうしたのよ?」
葵さんの表情が、少し真剣になった。
「……眠れなかったんです、最近ずっと。仕事がうまくいってなくて……というか、なんとなく、全部どうでもよくなってて……。でも、眠れないと、もっとだめになっていくんです」
ぽつぽつとこぼれ落ちる言葉たち。
いつもなら人に話すのをためらうような内容も、この空間にいると自然に口から出てくる。
「昨日もプレゼンで失敗して……資料の順番を間違えて、上司に迷惑をかけて……。みんな優しくしてくれるんですけど、それがかえって申し訳なくて」
セラさんはそれを遮ることなく、ただ頷いて聞いていた。
葵さんも、少しだけ帳簿から目を上げて、静かに私の表情を見つめていた。
「眠れない夜って、いろんなことが、余計に大きくなって見えますよね」
セラさんの声は、カウンター越しでも、まるで隣にいるかのように優しく響いた。
「……はい」
「私も昔、眠れない夜ばっかりだったなあ」
葵さんが、ふと遠い目をした。
「私はそんなとき、夜中にバイクで走ってたけどさ」
「雪乃さん、大丈夫です」
セラさんが、もう一度微笑む。
「今日はちゃんと眠れますから。眠れれば……きっと、大丈夫です」
その言葉が、なぜか心の奥にまでしみていく。私はふと気がつく。
セラさんの言葉は、ただの慰めじゃない。
何か、もっと根源的な「力」が宿っている気がした。
けれどそれは、あまりにもやさしくて、気づけばそばにある春の風のように気持ちがいい。
「雪乃ちゃん、眠れなかったら羊でも数えにおいで」
「羊、ですか?」
「この店、深夜でもたまに開いてるから。まあセラさんの気分次第だけど」
葵さんの冗談めかした言葉だったが、どこか本気の響きもあった。
「……また、来てもいいですか?」
「もちろん。いつでも、お待ちしています。雪乃さん」
セラさんは、カウンター越しにもう一度、やさしく微笑んだ。
カモミールティーを飲み終え、会計を済ませて店を出る。
扉を開けると、小さなベルがまた優しく鳴った。
店を出た帰り道、夜風が少し冷たい。
足取りも、来る時より軽やかだ。
家に帰ると、ご飯を食べ、シャワーを浴びて、パジャマに着替えた。
ベッドに横になると、枕に頭をつけた瞬間、不思議と瞼が重くなった。
(ああ、今夜は、ちゃんと、眠れそうだ)
意識が静かに闇に溶けていく頃、私を見守るようにふわふわ浮かんでいる淡い光を見た気がした——いや、それは夢の中の光景だったのかもしれない。
久しぶりに、深く、静かな眠りが私を包み込んでいった。