「なぜか、今日もアポクリファに来てしまう」
仕事帰りの道を、なんとなく遠回りしたあの日。
残業が長引き、帰宅するには気持ちがざらついていた。
コンビニに寄るつもりで細道に入ったところ、ふと視界の端に小さな光が揺れた。
白い看板に、控えめなフォントでこう書かれていた──
「cafe Apocrypha」
名前の意味はわからないけど、中二っぽいな。
ただ、柔らかな灯りと、どこか懐かしい木の匂いに引き寄せられるように、私はその扉を押した。
ガラン……と、小さなベルの音。
中は思っていたより広く、温かみのある木目調の家具に囲まれていた。
奥の棚には本とレコードが並び、カウンター席の向こうでは、静かに豆を挽く音がしていた。
「いらっしゃいませ」
声をかけたのは、小柄な女性。
年齢不詳で、落ち着いた雰囲気の中にどこか柔らかさがある。
長い銀色の髪を後ろでひとつに束ね、白いエプロンの胸には「セラ」と刺繍がある。
「おひとりですか? カウンター、どうぞ」
彼女──セラさんが淹れてくれたブレンドコーヒーは、すこしスパイスが効いていて、それでいてやさしかった。その日の疲れが、ふわりとほどけた気がした。
店内には、三人ほどの先客がいて、会話もなくそれぞれの時間を過ごしていた。
店先でうずくまっていた猫が、いつの間にか椅子の上で丸まっているのも見える。
不思議なカフェだと思った。
けれど、その不思議が、心にすっと馴染んだ。
半年が経った。
気がつけば週に三回、定時で帰れる日はたいていこのカフェに寄っている。
読みかけの文庫本を持って、決まった窓際の席に座る。
セラさんは多くを語らない。
だけど、必要なときに、必要な言葉だけを差し出してくれる。
たとえば、私が仕事で落ち込んでいたある日──彼女はこんなふうに言った。
「大丈夫です。今夜はちゃんと、眠れるようにしておきますね」
その日出されたカフェラテは、やさしい香りに包まれていて、本当にその夜は久々にぐっすり眠れた。
もうひとりのスタッフ、葵さんは快活で、セラさんとは正反対のようでいて、息の合ったやりとりがある。ふたりが厨房で交わす何気ない会話に、ほっとする。
「セラさん、今度の新作、試作うまくいった?」
「……ちょっと、レモンが主張しすぎたかもしれません」
そのやり取りを聞いていた常連のOLさんが、「それ、逆に気になります」と笑う。
気がつけば、猫がまた新しく来ている。
最近は、耳の欠けた黒猫がカウンターの椅子を陣取っていて、まるで客のひとりみたいだ。
このカフェには、名前も知らない誰かの日常がある。
受験勉強の合間に来ている高校生、無言でコーヒーを飲んで帰るサラリーマン、猫に会いにだけ来る近所の小学生──みんながそれぞれに、ほんの少しだけ、ここで呼吸をしている。
だから、私もまた今日、ここに来てしまう。
コーヒーの香り、カップの音、猫のあくび。
そして、カウンターの向こうで今日も静かに微笑む、セラさんの姿。
理由はわからない。でもきっと、明日もまた来る気がする。