星のかけら
疲れ果てた身体を引きずり、たどり着いた懐かしい公園。
最後に食べ物を口にしてからは何日も経ち、今では水だけの生活をしている。
ふらつく身体をなんとか支えていたが、もう限界だった。倒れこむようにベンチに崩れ、仰向けになると夜空を見上げた。そして耳を澄ました。
この町を捨て五年の歳月が流れたが、星の輝きと草木の匂いはあの頃と変わりはなかった。
六年前、事業に失敗し多額の借金だけが残った。住んでいた家も追われ、妻の早苗の実家に転がり込んだ。その頃にはもう働く気力も失い、何もかも嫌気がさしていた。挙句の果てに、家族も人生も捨ててしまった。
違う。捨てたなどと体裁のいいものではない。逃げたのだ。煩わしい現実から家族から、しっぽを巻いて逃げたのだ。
五年前、着の身着のままで逃げ出した。
ねぐらを求めていろいろな町をさ迷い続け、雨露をしのげればどこでも寝た。プライドを捨ててしまえば、こんな楽な生活はない。路地裏の残飯をあさり、人が行き交う地下道で寝るのも苦にはならなかった。
だが、いくら苦にならないと言っても限界がある。今までの生活に疲れてしまった。もう、生きることに疲れてしまった。
五年ぶりに訪れた公園。五年前までは、家族でよく来た公園。
最後に来たのは、一人娘が十歳の時だった。
「美砂……」
夜空にぼんやりと、娘の顔が浮かぶ。だが、五年前の面影しか思い出せないのが辛い。十五歳になった美砂は、あの頃より確実に成長しているはずだ。だが、成長した娘の顔を思い描いてみても、上手く想像できない。目を凝らして夜空を見ても、十歳の娘の顔が浮かぶだけだった。
なにを求めてこの公園に来てしまったのか?
家族とやり直すことなど出来るはずがない。
答えは一つ。
幸せだった思い出の場所を目に焼き付け、最期を送るために来たのだ。
ベンチに仰向けになりながら、吸い込まれそうな星空に右手を伸ばした。痩せ細った腕は震えていたが、一番輝く星を強く握りしめた。拳を引き寄せゆっくり開くが、星も幸せも手のひらには何もあるはずがなかった。
「掴み損ねてしまったのかな……」
弱々しく呟いた自分の言葉を聞いて、逃げ出したことを今さら悔やんだ。
「まったく情けない男だ。ハハハッ……」
自暴自棄でも、まだ笑えた。もう笑うことなど、忘れてしまったと思っていたのに。まだ笑える。
人との交流がなくなり、会話することもなくなった。口を閉ざし、話し相手は自分自身だけだった。
でも、まだ笑うことが出来るのか……。
なぜか目頭が熱くなり、あとからあとから涙が溢れてくる。
人生を終わらせようとしているのに、笑うことも泣くことも出来る。そんな感情がまだ残っているのが意外だった。未練かな……。
あんなに綺麗に輝いていた星空が、涙で滲みぼんやりとしか見えなくなった。
死ぬ方法は何にしよう。
この公園の木で首を吊ろうか……やめよう。子供たちが遊ぶ公園を、俺の死体で汚したくない。飛び降り自殺がいい。明日、飛び降りる高いビルを探そう。高い所は苦手だが仕方がない。確実に死ねるだろう。
明日は夜空の星の仲間入りだ。こんな俺が星になるとは思えないが、そうでも考えないと辛すぎてしまう。
もう一度、一番輝く星に右手を伸ばそうとしたが、力が入らず腕が上がらない。
「無駄なことはやめよう、疲れるだけだ。明日のために少しでも体力を回復させなくては」
そう呟いた時、
「おじさん」
暗闇で若い男の声が聞こえる。
仰向けのまま首を向けると、少し離れた場所で犬がお座りをして俺を見上げている。そばに飼い主がいるのかもしれない。辺りを見回すと、犬が立ち上がり近づいて来る。
「おじさん、美砂ちゃんのお父さんだろ」
俺を見つめて犬が喋った。
「えっ……」
夢なのか。犬は俺の目の前にちょこんとお座りをする。
「僕、チロだよ。覚えているだろ」
チロ……?
白い首輪をつけた茶色の中型犬が、首を左に傾けて長い尻尾をパタパタと振っている。その仕草と白い首輪を見て、思い出した。
家を出る少し前、大雨の日に公園の前に捨てられていた子犬だ。偶然通りかかった時、土砂降りの雨に打たれ小刻みに震えていた。連れて帰ると美砂がチロと名づけ、自分のお小遣いで白い首輪を買って、とても可愛がっていた犬だが……。
犬が喋るなんて、現実とは思えない。これはやはり夢?
俺を見つめるチロの目は、全てを見透かしているかのように澄んでいる。
「思い出したようだね。でも、家族を捨てたおじさんが、なんで今さらこの公園に来たんだい?」
「いや……それは……」
「まあいいよ、言いたくなければ。それよりおじさん。自殺するなら、僕と身体を入れ替えてくれないかな。人間の生活が嫌なら、死なないで犬になってみなよ。死ぬよりはいいと思うよ」
「入れ替わる?」
「うん。そうすれば、美砂ちゃんと一緒に暮らせるよ。犬だけどね」
今日までの五年間、野良犬のような暮らしをしていた。入れ替わったとしても本当の犬になるだけで、暮らし方は大して変わりはしない。だが、いくら野良犬のような暮らしをしていても、人間より劣る犬になるなんて、そこまでプライドを捨てきれない。
人間でこの世界から消えて無くなるほうが、わずかなプライドを残したまま逝ける。
「おじさんはずるいね。自分のことしか考えていない。嫌なことから逃げるために死ぬのは、おじさんの勝手だからいいよ。でも父親として、美砂ちゃんを見守ろうという気持ちは無いの? 犬の寿命なんてそんなにないよ。僕だってあと十年くらいだ。どうせ死ぬなら犬になって、十年だけでも美砂ちゃんを見守ってあげなよ」
見守る……。チロと入れ替われば、二度と会うことが出来ない娘と暮らせる。美砂を見守り続けることが出来る。犬になることは、最低の親父が出来る精一杯の役目なのかもしれない。
「ねっ、そうしなよ」
自棄になっているのもあるだろうが、どうせ捨てた人生だ。それもいい。
「分かったよ。でも、どうすればいいんだ?」
「ベンチに寝て、目を閉じて」
俺はベンチの上で仰向けになり、そっと目を閉じた。
「そうしたら、星空に手を伸ばしてもう一度、一番輝く星を掴んでみて。方角は覚えているだろ」
「方角はわかるが、今はもう無理だ。疲れて腕が上がらない」
「おじさん、頑張って。美砂ちゃんに会いたくないの?」
「会いたい……」
俺は右腕の肘を左手で支えながら、右手を星空に突き出す。そして、残された力を振り絞り、強く握り締めた。
その瞬間、風の音も草木の香りも、ベンチの硬さも薄れてゆく。そして、意識が少しずつ深い暗闇に沈みこんだ。
暗闇に差し込む光で、意識が引き上げられる感じがした。
目を開けると、無数の星が夜空を輝かせている。
「ううっ……」
苦しそうな声が聞こえて目を移すと、ベンチに俺が仰向けで寝ている。一瞬わけがわからなかったが、先ほどの不思議な体験を思い出した。
慌てて自分の姿を見ると、犬になっている。
恐る恐るベンチに近づく。俺の姿になったチロは、目を閉じて弱々しく呼吸をしている。
「どうしたチロ? 苦しいのか?」
チロは薄目を開けると、微かにうなずいた。
「なぜだ? 腹は空いていたけど、さっきまで俺の身体はなんともなかった。そんな苦しくなかったのに……あっ」
チロの身体になった俺の姿を改めて見て、絶句してしまった。肉のない皮だけ張り付いた顔は土のような色をし、弱々しく薄く開いた眼は白く濁り生気がない。カサカサに乾いた唇から息が漏れた。
「はぁ、はぁ……おじさん、拾ってくれてありがとう……。五年間……僕はとっても幸せだったよ。おじさん……第二の人生は犬になっちゃったけど……生きてね……美砂ちゃんと……幸せにね……」
「チロ、お前、俺のために……」
俺の命は永くはなかった。この公園に着いた時には、すでに死にかけていたのだ。あの時、星空に手を伸ばしたのが、残された最後の力だったのかもしれない。
チロは俺の命の灯火が消えかけていたのを知っていた。それなのに、自分の命と引き換えにして……。
「僕は一度でいいから、人間になりたかったんだ。これで満足……だよ……」
チロは静かに目を閉じた。
力の抜けた右手がベンチから滑り落ちる。
開いた手のひらから、何かが光りながら地面に転がった。
それは、小さな星のかけらだった。