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「ただいまー」
「あ、遅かったね」
「……むしろ母さんが早くない?」
自宅マンションのドアを開けると、珍しいことに電気が点いていた。
時刻は十九時。美郷さんの家を後にして、家に帰ってきたらこんな時間になっていた。
帰宅部の俺からすれば随分遅い時間ではある。だけど、名の知れた大手メーカーにて課長職をしているバリキャリの母が家にいる時間としては早すぎる。
「部長がうるさくてねー。私が早く帰らないと部下も帰りづらいってさ。今は働き方改革だなんだって本当に面倒よ。終わらないぐらい仕事があるんだから、時間を投下するしかないじゃない」
母はそう愚痴りながらパソコンでカタカタと作業をしている。結局、家で仕事をしているなら早く帰る意味はないのに、と言いたげだった。
「なんか、お疲れ」
「全然、大丈夫。ご飯作っておいたから好きなタイミングで食べて」
「分かった。ありがとう」
この人には隙という隙がなかった。シングルマザーでありながら仕事では管理職を務め、かといって家事をおろそかにすることもない。多少は家事を分担しているのだが、猫の手程度の働きでしかなく、母にとっては余計なお世話という感じだ。
世の中にはこうして何でも一人でこなしてしまう超人がいる。父はその生き方に合わせることができずに出ていくことになった。
俺までも父のようになるわけにはいかない。母の望む距離感を維持し続ける。
「春哉」
「ん、なに?」
「……やっぱ、何でもない」
母はたまにこうして何かを言いかけて止める事がある。たぶんだけど、俺に対して負い目のようなものがあるのだと思う。離婚のこととか色々と。
別に珍しいことじゃないし気にはしていない。そういう運命だっただけだ。
二ヶ月に一度は父と会っていて関係も良好だし、母も父も「自分が悪かった」と他方を悪く言うこともない。あるべき姿に戻ったという感じだった。誰も悪くない。
「あはは、何だよそれ。じゃあ俺、先に風呂もらうから」
勧善懲悪モノのような分りやすい敵などなかなか存在しない。全ては折り合いと調整だ。空気を読んで、互いの妥協点を探す、そういうのは得意だった。
「美郷さんはいま何をしているんだろうな」
何故かそんな事が気になった。
「キキ、この後ダーリンとちょっと色々あれだから——」
「はいはい、遅くなるのね」
電話を切る。電話越しの母はやけに上機嫌だった。それに関しては一向に構わないのだが、親の情事とか一ミリも聞きたくないので配慮してほしい。
両親の仲が良いというのも考えものだ。
「一人、か」
私にとってはよくあることなのだが、今は殊更その事実が意識される。それは久々に誰かと過ごす時間を経験した後だからだと思う。
朝の奇行により、日部春哉と関わるようになった。彼は私のことを変な女だと思っているんだろうけど、それはお互い様だ。
彼、春哉もだいぶ変わり者だと思う。
私が無理やり押し通したとはいえ、こんな地雷女に関わるメリットは皆無なのに春哉は受け入れてくれた。あの時は素顔を隠していたので、顔がいいからとかそういう理由で協力してくれたわけでもない。顔を見られてからの態度も変わらなかったし。
「察する力が強いというか、相手の嫌がることをしない」
贅沢な悩みなのかもしれないけど、容姿が整っていることで苦労をしてきた。
美人は周囲から色々と与えられてしまう、望もうと望まないと。嫌味に聞こえるかもしれないが、もらえる立場というのもそれはそれで不快なのだ。さらに押し売りされものに対価を求められる。うんざりだった。
ほしいものは自分で手に入れる。
だから、顔を隠して「美人は得だよね」という言論を封じた。
春哉はそんな私の真意を、意識的あるいは無意識的にも察してくれたんだと思う。
「何が自分は凡人だって感じ」
相手を慮る、私が苦手とすることを悠々とやってのける。私からすればすごい才能だ。
それに本人は自覚がないだろうけど、巻き込まれ主人公としての才能もある。なんかこう絶妙に揶揄いたくなるというか、振り回したくなるような感じだ。
例えるならサンドバッグみたいな。いや、それは可哀想かな。まぁ、春哉ならいいか。
「ほんとへんなやつ」
今の発言を聞かれたら、『美郷さんに言われたくないよ!?』 なんて無駄に勢いのあるツッコミが飛んでくるんだろうなと、容易に想像できてくすりと笑ってしまう。
もうちょっとツッコミのパターンを増やしてもらいたいところだ。
「今ってどれくらいRJエネルギー溜まっているんだろう……って、あれ?」
体の芯に意識を集中させると、何となく自分が持っているRJエネルギーの総量が分かる。これまでの生活で蓄積した分(ごく僅かだが)、春哉から強奪した分、そしていつの間にか貯まっていた分、なんなんだろうこれは。
銀行口座に突然振り込まれた、謎の入金みたいなものだと考えてほしい。
「RJエネルギーが溜まるようなことしたっけ?」
覚えがない。今日したことといえば、春哉と路地裏でぶつかって、一緒に登校して、自分の家に招き入れて、部屋で話して、押し倒されて、そんなくらいだと思うけど。
「まぁ、いいか。棚からぼたもちってことで」
謎の入金でもお金はお金、私は容赦なく使うタイプだ(ダメだけど)。
さて、明日はどんな風に春哉を揶揄ってやろう。
***
「……よし、ツッコミのパターンを増やそう」
湯船に浸かりながら一人反省会をしていた。その日の立ち振る舞いを振り返る。今日は美郷さんのペースに乱されっぱなしだった。
ぐぬぬ、もう無駄に勢いのあるツッコミとは言わせない。絶対に見返してやるぞ。
明日こそはもっと上手くツッコんでみせる。待ってろよ、美郷さん。