3-2
「(とは言ったものの、やっぱり二人乗りの機会なんてそうそう無いよなー)」
駅から高校までの通学路をぼんやり考え事をしながら歩く。
普段は知っている顔と電車が一緒になって、そのまま学校まで行く流れなのだが、今日は一本早い電車に乗ってしまった。おかげで一人寂しく登校している。
わりと一人の時間を大事にしたいタイプなので、こういう時間は貴重ではある。けど、いざ一人になるとそれはそれで寂しい。人間とは我儘な生き物である。
「あれ、日部くん珍しいね!」
「——あ、鶴島さん」
物思いに耽って歩いていたところ、知っている顔に声を掛けられる。
「いつもは一本遅いやつじゃなかった? あ、てかおはよう!」
「お、おはよう……。なんか今日は目が覚めちゃって」
鶴島さんがスッと隣に立って笑いかけてくる。何だか妙に距離が近い。油断していると彼女の肩に腕がぶつかりそうになる。
「へぇ〜そうなんだ! せっかくならいつもこの電車にすればいいのに〜」
「それは無理。できればギリギリまで寝てたいからね」
「こら、寝坊助!」
ニシシといたずらっ子の顔で、鶴島さんは軽く背中を小突いてくる。
あのですね。男はこういうボディータッチだけで、勘違いをしてしまうんですよ。鶴島さんは意図してやっているんだろうけど、分かった上でもやっぱりドキドキする。
つまるところ、惚れてまうやろー!
「ど、どっちかと言うと鶴島さんが早くない? 次の次の電車でもギリ間に合うのに」
「男の子と違って女の子は朝色々と準備があるの〜!」
「な、なるほど」
男なんて顔を洗って、寝癖を整えて、歯を磨いて、人によってはワックスつけるくらいで終わりだからな。対して女の人は色々とやることがあるのだろう。
具体的に何をしているのかは想像つかないけど。
「今日は前髪が決まらなくて残念賞〜! どう、変じゃない?」
鶴島さんが顔を近づけてくる。甘い香料の匂い、蠱惑的な唇、上目遣いの目。その全てが男心をくすぐってくる。何だかクラクラしてきた。
「べ、別に問題ないんじゃないかな?」
これ、なんて返すのが正解なんだ。学校の勉強では答えが導けない。
「え〜、もっと褒めるような言葉が聞きたーい! 早起きして頑張ったんだし〜!」
「いや、充分褒めてるというか」
「かわ……?」
俺に何を言わせようとしているのか分かった。
だけど、そんな浮ついた言葉を簡単に言えないから童貞なのであって……。
「か、カワウソ——ってイタ!」
何とか回避しようとするが脇腹をつねられる。
「よく聞こえなかった〜、もう一回!」
「………」
言うまで終わらないパターンのやつか。鶴島さんはずっと俺の脇腹を摘んだままで、正解を言わなければまたつねってくるつもりなのだろう。
「かわ、いい……と思う」
「はーい、よくできました〜! なでなで〜!」
「って、ちょっと!」
ただでさえ屈辱的なのに、鶴島さんはさらに頭を撫でてくる。
もう勘弁してほしい。こんなのもうイチャついてるカップルにしか見えない。周囲に他の生徒がいなかったのが救いだった。
「日部くんって揶揄い甲斐があるよね〜、ホント!」
「……最近、その特性に悩み始めているよ」
同性の智慧とか川越先生はともかく、美郷さんを筆頭に羽衣だったり鶴島さんだったりと、どうして俺はこうも異性に揶揄われるのか。
「日部くん、君は本当に罪な男だよ! そのなんか構いたくなってしまう天性の才能を使って、数々の乙女のハートを鷲掴みにしているじゃないですか!」
「いやいや、恋愛方面では全く役立たない特性だと思うけど!?」
「え〜、なんか聞いたよ〜? 教室のど真ん中で、絵莉に自分の好きなところを宣言させたってエピソード!」
「あれは完全なる誤解です!」
次の日にクラスメイトの誤解を解くのが大変だった。
まぁ、正直なところ誤解が解けているのかは微妙だけど。クラスメイトの「はいはい」「ごちそうさま」「そうか、そうか、つまりきみはそんなやつなんだな」とか納得してもらっている感じはなかったし。
「あとは美郷さんとの蜜月! 放課後、関内でデートしてたとか!」
「な、な、な、な、な、なんのことかな!?」
いくらなんでも吃りすぎだろう、俺。
でも、隠し事がバレそうになった時に平静でいられる人間の方が少ないと思う。
「このモテ男〜! えいえい!」
鶴島さんの細い指で頬をツンツンとされる。
どんどんボディータッチが激しくなっているな。「やっぱ、こいつ俺のこと好きじゃね?」なんてイタい男の子マインドを抑えられない。
「つ、鶴島さんだって、男子からの人気すごいじゃん!」
防戦一方のままではダメだ。このまま浮ついた状態だと余計なことを喋ってしまいそうだ。こちらからも相手のペースを見出すようなことを言っていかないと。
「え〜そんなことないよ! ……それに沢山の人に好かれるよりは、一人の人に大事に思ってもらえる方が嬉しいかな!」
「確かに、それはちょっと分かるかも」
「でしょ?」
良かった、なんとか普通の話に戻せそうだ——
「ちなみにさ」
「ん?」
「あたしが男子から人気あるって話だけど、その男子の中に日部くんって含まれてるの? だとしたら嬉しいかも!」
「それはどういう……」
「意味、伝わらない?」
言葉そのものとセンテンスは分かるんだけど、それにどんな意味があるのか咄嗟には理解できなかった。あらためて言葉を咀嚼してみる——って、うぇ!?
要約すると、「俺が鶴島さんを恋愛対象として見ているのか」「もしそうなら嬉しいです」って意味になるよね!? え、何この高度な恋愛テクニック!? 遠回しに好きアピールされてるってこと!?
い、一旦落ち着こう。この手のタイプは、思わせぶりなことを言って勘違いさせてくるのが定石だ。
相手のペースに飲まれて弄ばれるな。クールになれ、日部春哉。
「えーと、その、鶴島さん。俺は————」
「な〜んてね! ほらいこっ!」
拍子抜けだった。鶴島さんはくるりと半回転し、スタスタと歩いて行ってしまう。この絶妙すぎる引き際が彼女の技、あるいはあざとさの真髄なのかもしれない。
「……やっぱ揶揄われただけか」
早鐘を打つ心臓を押さえつけるように、大きく深呼吸をして後に続いた。
「そういえばさ〜、日部くんって帰宅部だよね?」
「うん、そうだけど」
校舎の中に入ってからも、相変わらず鶴島さんの距離は近い。
「もしかして体鍛えてたりする? なんかちょっとガッシリしてきたよね」
「あ、そうなんだよ。最近ジムに通うようになってさ」
いい兆候だ。普段あまり話さないような人から見ても分かるくらいに変化をしている。鍛えている身としては、その成果を人に気付いてもらえるのは嬉しい。
「でも、急にどうして? モテるため?」
「違うって! なんというか複雑な理由があって……」
「ふ〜ん」
鶴島さんは何かを見定めるような鋭い顔つきをする。しかしそれも一瞬のことで、次の瞬間にはニッコリとした笑顔に戻った。
「いいね! 鍛えてる男の人って魅力的だよね〜!」
「そ、そうかな」
そう言われると満更でもない。
「少なくともあたしは——キャッ!」
「鶴島さん!」
階段の踊り場部分に足を踏み入れるタイミングだった。鶴島さんは最後の段を踏み外してしまったみたいで、膝をごつんと床に打ち付けてしまう。
「イタッ!」
鶴島さんは痛みのせいか苦悶の表情浮かべている。
「だ、大丈夫?」
「イタタ……あんまり大丈夫じゃないかもしれない……」
「ひとまず保健室行こう。立てる?」
「あはは、ちょっと難しいかも……」
涙目でそう訴えられると無理強いはできない。痛そうに膝を摩っており、できれば早く保健室の先生に診てもらいたいのだが……。
「仕方ない、か。鶴島さんが嫌じゃなかったら、俺が背負っていくから」
「いいの……?」
悪目立ちはすると思うけど緊急事態だ、そうは言ってられない。
「うん、ほら乗って」
「ご、ごめんね」
「いいって」
人の体重が背中に乗ってくる。ちょっと前の自分であればしっかり体を支えることができなかっただろうけど、トレーニングのおかげか踏ん張りがきく。
「嫌かもしれないけど、足持たせてもらうね」
足を抱えさせてもらわないとグラグラして歩けない。
だが、そうなるとどうしても太ももの辺りに触れる必要が出てくるわけで、女子に対してそれは申し訳ない気持ちがあった。
「別に、嫌じゃないよ……?」
耳元で囁かれる。全身が打ち震えるような感覚があった。
ゾワゾワという擬音で表すべきような感覚だ。事態の緊急性からそういった方面のことは考えないようにしていたが、男の悲しい性で否応なく意識をしてしまう。
「わ、分かった。……じゃあいくよ、しっかり掴まって」
太ももの辺りに腕を添えてゆっくりと立ち上がった。
先程までとは違いズシリと重さを感じるが、鍛えた足腰や体幹のおかげでフラついたりヨロけたりはしない。そのまま安定感を保ちながら保健室に向かって歩き出す。
「重くないかな?」
「ぜ、全然平気!」
肉体的な面では全く問題がない。問題があるとすれば精神的な面で、だ。
耳にかかる鶴島さんの吐息、背中や腕越しに伝わってくる仄かな柔らかさ、包まれるような異性の甘い匂い。
その全てが理性をぐわんぐわんと揺らして、崩壊させようとしてくるのだ。
「なら、よかった」
こんな状況だ。互いに会話はない。しかし、そうなると余計なことを考えてしまう。
そんな雑念を必死に振り払い、湧き上がる情欲を抑え込む。
ねぇ、なんで女の人の胸ってこんなに柔らかいの? もうなんか服越しでも頭おかしくなりそうなんだけど! 美郷さんとの二人乗りでは、腰に腕を回されることはあっても、背中に胸を押し付けられることはなかった(そもそも押し付ける胸が……)。
そういう意味では、おんぶって二人乗りの上位互換なんじゃないのか。密着範囲が段違いだし。実現する難易度もこっちの方が高いような気がする。
「日部くん、さ」
「な、なに!?」
頼むから耳元で囁くのはやめてほしい。こればかりは悪気ないんだろうけど。
「ほんとに鍛えてるんだね。すっごくガッシリしてるもん、体」
「あ、あぁそうね……。こういう時に役立ってよかったよ」
「うん、頼りになる」
こんな時にまで、男心をくすぐるようなセリフはやめてくれぇ!
なんかもう色々と限界です!
「絵莉が好きになった理由も分かるなぁ」
「……っ!」
またさっきのやつか。こんなの勘違いしない方が難しいって。もう何を言っても墓穴を掘りそうだから、ここは沈黙という選択をとらせてもらう。
それにすれ違う生徒の数が増えてきた。ちょうど一本後の電車組や、朝練終わりの運動部など。学年やクラスが違う人たちは微笑ましそうな表情を浮かべ、顔見知りは口パクで「ヒューヒュー」とか冷やかしてくる。
「春哉?」
「ち、智慧!」
そんな最中で智慧とばったり遭遇する。
俺と鶴島さんを交互に見比べ、智慧は少し複雑そうな顔をする。
「……なんかあったのか?」
「鶴島さんが階段で足を滑らせちゃってさ」
「なんだ、そういうことなら佐山には言いつけないでやろう」
いつも通り、いたずらっ子の表情に戻る。
「やましいことはないって!」
「でも春哉、胸の感触を堪能してないか?」
「し、し、してないし!」
すみません。めっちゃ堪能してます。
「……日部くんのエッチ」
「ご、誤解だって!」
頼むから耳元でそんな風に囁かないでほしい。しかし、この囁きボイスをASMRとして販売したら儲かるかもしれないな、そんなくだらない事を考えてしまった。
女の子から罵倒されるのってなんかゾクゾクするし(唐突な性癖開示)。
「まぁ、あえて押し付けてるんだけどね〜。ささやかなお礼ってことで」
「わざとなんだ、これ!」
「嬉しいでしょ〜?」
「ノーコメントでお願いします!」
本当にこの人は男を弄ぶ能力が高いな。
一度沼ったら抜け出すことができない、そんな底なし沼のような危うさがある。あるいは捕まえたら離さない蜘蛛の巣か。
「ほらイチャついてないで保健室に連れてってやれよ」
「イチャついてないって! でも、うん。そうね。じゃあまた教室で」
「おう、鶴島もお大事にな」
「うん、羽生くんありがとう〜」
智慧と別れて再び保健室に向かう。
……頼むから、もう知り合いとはすれ違いたくないな。そんなことを思っている時に限って、神様(?)はイタズラを仕掛けてくるのだ。
「え、春哉と美希?」
「や、やぁ……絵莉……」
よりにもよって、である。下駄箱付近で絵莉と遭遇してしまった。
「美希、もしかして怪我でもしたの?」
「あ、うん。ちょっと階段で転けちゃって」
「だ、大丈夫なの!?」
絵莉は心配そうに鶴島さんの顔を覗き込む。……思っていた展開と違うぞ。この状況について問い詰められるものとばかり。
しかしそんなことはなく、絵莉は真っ先に鶴島さんのことを気に掛けていた。
「結構痛くて。それで日部くんに、保健室まで連れてってもらってるの」
「そっか。——春哉は相変わらずだね」
「え?」
絵莉は優しく微笑みながら、こちらを見つめてくる。
「なーんでもない! はい、じゃあここからは私が引き継ぐから!」
「いや、でも……」
ここまで来たら最後までという気持ちもあるし、そもそも絵梨に鶴島さんを背負うような力はないと思うんだ。
「何よ、少しでも美希の胸の感触を味わっていたいってこと?」
「ち、違うって!」
さすが元カノだ。俺の下心はお見通しである。
「じゃあいいじゃない。別におんぶしなくても、肩を貸せば歩けると思うし。私が肩を貸すからさ。……美希も同性の方が、何かと楽だもんね?」
「そ、そうだね」
絵莉の「圧」を感じ取ったのか、鶴島さんもただコクコクと頷く以外の選択肢を取れないみたいだった。
「それにしてもいいなー、私が付き合っている時はこんなのしてもらったことないなー」
「あは、あははは……」
絵莉がチクチクと攻撃をしてくる。顔は笑っているけど目が笑ってない。
「う、うん。ご、ごめんね? ちょっと日部くん借りちゃって」
「全然大丈夫だよ! だって、春哉は別に私の所有物じゃないもんねー。ねー春哉?」
「あは、あは、あは、あは、あははははは………」
目の前の元カノが怖すぎて、過呼吸みたいになっている。
「じゃ、じゃあ日部くんありがと。保健室までは絵莉に連れてってもらうね!」
「りょ、了解」
本人もそう言っているので、大人しく絵莉の指示に従うことにした。
鶴島さんを背中から下す。名残惜しいが、あの柔らかい感触ともお別れである。
「——日部くんありがとね。あらためて惚れ直しちゃった」
「…………」
最後に耳元で囁かれた言葉には返事をしないでおいた。
「ほら美希、行くよ」
「うん、ありがとね絵莉」
「じゃ、じゃあ俺は行くから。鶴島さんお大事に」
「またね、日部くん」
鶴島さんは笑顔で小さく手を振る。あんなに思わせぶりなことを言っておいて、複数人の場では平素と変わらない態度に戻るからすごい。
「あー、春哉」
「な、何かな?」
絵莉が何かを思い出したようにこちらに顔を向けてくる。今の俺は猫に睨まれたネズミのようなもので、絵莉の声一つで心臓がキュッと縮み上がってしまう。
「後で『話』があるからヨロシク」
「は、はひ!」
怖くて何の話かは聞けなかった。こういう時は余計なことを言わない方がいい。
そのまま絵莉は、鶴島さんを肩で支えながら保健室の方に歩いて行った。
「ふぅ、朝から色々ありすぎた……」
「本当にね」
「って、うわ!?」
後ろから声が聞こえて慌てて振り返る。そこには美郷さんがいた。
「お、おはよう。美郷さん」
「いい朝だったみたいね、春哉?」
「えと……」
最近習得した「口元で感情を推し量る技」を使ってみたところ、何故か分からないのだが、美郷さんはご機嫌ナナメで苛立っている様子だった。
「な、なんか怒ってる?」
「べっつにー? なんで春哉がクラスメイトをおんぶしてたからって、私が怒らなきゃいけないのかなー? いやーね? まぁ強いていうなら、誰のおかげでその頑丈な体を手に入れたのかってことよね。言うなれば、ここまで練習に付き合ってきた私との共有財産でもあるわけでしょ? それをなんの断りもなく、二人乗りとは全く別方向で使うのはねー。むしろ二人乗りより良さげなイベントじゃない?
なんか私が前座というか、ダシとして使われてるみたいというかー。そういうのはまず、ここまで協力してきた私と練習してから……ってのが筋じゃないかなー」
今日の美郷さんはやけに口数が多い。怒っているのは間違いなかった。
だけど、あらためて聞いても何に怒っているのか不明だ。
美郷さん的には、俺が青春イベントを数多く経験した方が、RJエネルギーが溜まって美味しいんじゃないのか。
「いや、なんというか突然のことだったし……」
ただそんなことを言ったら拗れるので、とりあえず言い訳をさせてもらう。
「み、美郷さんには感謝しているよ、もちろん。これまでの練習があったから、応用してさっきの件も上手く対応できたわけでさ」
「ま、良いんじゃない?」
全然良くはなさそうである。
「もし、納得いかない点があるなら——」
「私もう行くね。だって、学校では話しかけない方がいいんだもんね?」
「あ、ちょ! 美郷さん!」
俺の声を無視して、スタスタと教室の方まで歩き出してしまう。
……何だかんだ言って、美郷さんのことが分かるようになってきたと思っていたのに、それは思い違いだったみたいだ。放課後、ちゃんと話をしよう。これからも一緒にやっていくのだから、もっと彼女のことを理解したい。
はぁ、ドッと疲れてしまったな。
大きくため息をついて、トボトボと教室に向かうのだった。