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「行きたいところって、『ココ』か……」
「そう、この行列がずっと気になってたの」
美郷さんが言っていた店とは国道16号沿いにあるラーメン屋、黄色看板が特徴的で店の前にはいつも行列ができている。
俺もこの手のラーメンは一度も食べたことがない。
丼の上に盛られた大量のもやしやキャベツ、添えられた刻みニンニク、巨大なチャーシュー、とにかくボリューミーなイメージ。
よく耳にするのは各店ごとに細かなルールが定められているらしいこと。暗黙の了解も多いため、わりと初見殺しとかそうじゃないとか。
「……あのさ。せっかくだけど別のところにしない?」
こういう過度に空気を読まなければいけないお店は普段避けている。人の目が気になって食事に集中できないし、失敗したらと思うと味そのものが分からなくなりそうだ。
「え、なんで?」
「なんか色々とルールも多いはずだからさ。今度ちゃんと調べてからにしようよ」
「でも、興味はあるんでしょ?」
「ま、まぁ……」
それはもちろん、有名なラーメンジャンルだし気になってはいた。
「興味があるなら挑戦しないと損でしょ! 分かんないことあれば、前に並んでる人に聞けばいいし。ほら行こ!」
「ちょ、待って!」
美郷さんに腕を引かれて、二桁以上の人が並んでいる列の後ろに並ぶ。
それから自分たちの後ろにも人が並び始める。これで今更この列を抜けるという選択も取りづらくなった。
「み、美郷さんはこういうのは大丈夫なの?」
「大丈夫じゃないよ、私って陰キャだし。けどさ、それで挑戦しなかったら後悔するでしょ? 私はそれが嫌なの」
……俺は失敗するのが怖い。
失敗するくらいなら諦める、そんなことばかりしてきた。
「別に死ぬわけじゃないんだし! あとは少しでも上手くいくように人を頼る! あの、ちょっといいですか?」
そう宣言するや否や、美郷さんは前に並ぶ小太りな男性に声を掛ける。
これもまた俺が苦手とすることだ。人を頼る、相手に迷惑なんじゃないかと考えたらなかなか踏み出せない。
「なにか?」
男性は訝しそうにこちらを見る。その冷たい眼差しに俺は空恐ろしくなった。寒くもないのに手足が震えている。相手を不機嫌にさせることがただ怖い。
「私たち初めて来るんですけど、お店のルールとかよく分かってなくて。もしよかったらレクチャーしてもらえませんか?」
「あぁ、なるほど! 私でよければぜひ!」
用件を伝えると、小太りの男性は人懐っこい笑みを浮かべて快諾してくれた。
俺はその様子を見て、ホッと胸を撫で下ろす。
美郷さんはすごいな。自分がやりたいことのためなら恐れずに進んでいく。そんな彼女を見習いたいと心の底から思った。
「基本は前に並んでいる人の真似をする、店員さんの指示に従う、これだけ守ってれば全然オッケーなんですよ。ここの店員さんは比較的に優しいですからね。ただあれだ、『コール』に関しては分かりづらい部分があると思うので、お伝えしておくと——」
小太りの男性は一○年以上ジロリアン(この手のお店を愛好する人)をしているベテランで、このお店がオープンしたニ○○四年から足繁く通っているらしい。そんな人のレクチャーは、微に入り細に入りといった感じで非常に分かりやすかった。
食券を買うタイミング、おすすめのメニュー、店の入り口前に立つ流れ、お冷を入れるタイミング、麺の減らし方、コール(無料トッピング)の仕方、退店時のマナーなど。
「ニンニクヤサイアブラカラメ……」
「呪文みたいですね、ほんと」
教えてもらったコールの仕方を、美郷さんはうわごとのように繰り返している。
とりあえず、「ニンニク入れますか?」と聞かれたら、好みの無料トッピングを答えればいいみたいだ。この時にニンニクの有無だけではなく、他のトッピングの有無も答えないといけないところが、初心者殺しと言われる所以の一つだとか。
「いやー初めてだと難しいよねー。私も何度も通っているうちに味の好みを調整できるようなってね。まぁ、気がついたら週に三、四回は食べてしまっているんだけど」
頭を掻きながら小太りの男性は笑った。
「いや、そんなに食べたらさすがに体に悪くないですか!?」
「そうだねぇ。常にニンニク臭すぎて会社では二重の意味で窓際社員だし、医者からは『そのままだと死ぬよ』ってマジトーンで言われてるねぇ」
「えーと、ちょっとは控えようとか——」
「絶対ないね」
「な、なるほど」
目がバッキバキだった。……うん、この人はあれだ。浦さんとか宮さんと同じタイプだ。親切でその分野に精通しているけど中身はかなりやばい人的な。
「まぁ、また何か困ったら頼ってよ。他のお店にも顔を出すし。あ、これ私の名刺ね」
「あ、どうも」
店の看板と同じ真っ黄色の名刺には、『ジロリアン 越谷一郎』と書かれている。
どう考えても会社用の名刺ではない。個人用で作ったものみたいだ。
「これって本名なんですか? なんというか惜しいですよね」
「そうだね、残念なことに『一』なんだよ。一度そのことで親と取っ組み合いの喧嘩をしたなぁ。なんで『二』にしてくれなかったんだって。それで今は絶縁中さ」
やばい、とんでもない人と知り合いになってしまった。
「あはは……ご親切にありがとうございました」
春哉はもう二度とこの男と会うことはないだろうと思っていた。
しかし、ジロリアン・越谷一郎との出会いが、後にラーメン大戦争の引き金になるとは、この時の彼には知る由もなかった。
「(突然のナレーション!?)」
今日はよく分からない電波を受信しまくっている。
どうしてしまったんだ、俺の頭は。医者に診てもらった方がいいのだろうか。美郷さんと出会ってからおかしなことばかりである。
店員さんの指示に従って席に着く。
越谷さんはロット(?)が別になったらしく、山盛りに盛られたヤサイの山を一瞬で平らげて先に店を出て行ってしまった。
恍惚とした表情でサムズアップをし、カッコよく退店していったのが印象的だ。
さぁ、いよいよ我々の番というわけである。
「奥、小汁なしの方、ニンニク入れますか?」
まずは隣に座る美郷さんに声が掛かる。……きた、コールだ!
「ニンニク『マシ』で」
「!?」
なん……だと……。越谷さんから最初はベーシックな味を知った方がいいからと、ヤサイはそのままないし少なめ、アブラやカラメのコールはしない方が無難だと聞いていた。とりあえず、ニンニクの有無と量を答えればいいと。
てっきり美郷さんは、ニンニクを抜くと思っていたがまさかの『マシ』だった。
店によってマシでどれくらい増えるのかは違うらしいが、普通の店で言うところの多めを意味する言葉だ。翌日の口臭を恐れていない姿勢に戦々恐々としてしまう。
「隣、小汁なしの方、ニンニク入れますか?」
「……っ! じ、自分もニンニク『マシ』で!」
だけど、少しでも美郷さんから学び取りたい。他者の目を気にしない姿勢、その先に何を得られるのか気になってしまった。
周囲に気を遣って食べるのを避けていたが、ニンニクは大好物だからな。
「はい、汁なしニンニクマシね。こっちも」
カウンター前に暴力的なビジュアルのラーメンが置かれた。それぞれ丼を持ち上げて、卓上へと移動する。丼を持っただけで両手が油まみれだ。
「(すごい見た目だ……)」
中央の卵黄、くたくたになったもやしとキャベツ、添えられた刻みニンニク、散らされたフライドオニオン、見るからに柔らかそうなブタ(チャーシュー)、そんな数多くのトッピングたちが肝心の麺を覆い隠している。
「いただきます」
「い、いただきます!」
見た目に圧倒されていたところ、美郷さんの声で正気に戻る。俺たちは今からこれを喰らわねばならない。呆気に取られている暇などなかった。
まずは底の方から麺を掬い上げる……重い! なんだこの重量は! トッピングの下に隠されていた麺は想像以上に量が多い。これで『小ラーメン』だと……?
「初心者はまず『小』にすること。足りなければ次回から増やせばいいから」
越谷さんの言っていた意味が分かった。たぶんこれ、小でも普通のラーメンより全然多い。知らないで大きいサイズを注文していたら完全に詰んでいた。
あの時はリアリティーがなかった言葉が、ようやく理解できるようになる。
「食事じゃなくて戦いだから」
最初は何を言っているんだと思っていたが、確かにこれは簡単には平らげられない。
この店に限らず食事を残すのは御法度。この戦い負けるわけにはいかない……!
「春哉、また店の外で」
「あ、あぁそうだね」
この先、会話をしている余裕はない。
そもそもこの手のお店はダラダラ食べることを推奨していないこともあるし、脳が満腹と認識する前に食べ切る必要があるので速さが重要になってくる。
——では、麺をリフトアップして啜るッ!!
「(味濃っ! けど、これ美味すぎる!)」
これは本当にラーメンのジャンルなのか。今まで食べてきたラーメンと全く違う。これはもう『そういう食べ物』としか言いようがない。
甘辛いタレとニンニクが絡みついた麺はもはや味の爆弾だった。
あ、そうだ。忘れないうちに、ブタ(チャーシュー)を食べておかないと。越谷さん曰く、後半に残しておくとキツイので前半に食べた方が良いとのことだった。
「(分厚い! でも、ほろほろで食べやすい!)」
肉を食べたという確かな食感と肉特有の臭みを若干感じる。
だけど、咀嚼していくうちにそれは口の中でほろほろと溶けていく。それからじんわりと甘みが広がってきて口の中が大変幸せになる。
さて、箸休めにタレと絡んだ野菜をパクつく。クタクタになったヤサイとタレが合う。
なんだ、こんなに美味いなら何度食べたって——
そのまま一心不乱に食べ進めていたところ、麺が全く減っていないことに気が付く。結構な量を食べているはずなのにまだまだ麺が残っている。
くっ、完全に失念していた……。
俺たちは食事をしていたんじゃない、戦いをしていたんだ。ここからは俺たちが喰うか、喰われるかの一騎打ちだ(自分でも何言っているのか分からない)。
隣の美郷さんを見ると苦しそうにしている。
最初に麺の量を減らすこともできるのだが、「大丈夫大丈夫、こう見えて結構食べるから」と啖呵を切っていたのが完全に裏目に出ていた。
きっと今、美郷さんはさっきの言葉を後悔してるに違いない。
だがすまない。美郷さんを助けられるほど俺にも余裕はない。いざ、勝負!
「もう無理……お店や越谷さんには申し訳ないけど二度と行かない……」
なんとか完食して店を出た。相変わらず列は継続しており、そんな人たちを横目に少し離れたところで美郷さんを待つことにする。俺が出る時には美郷さんも九割は食べ切っていたので、そろそろ……あ、出てきた。
「ゲフ……お腹パンパンで死んじゃいそう」
「おつかれ、完食した?」
「うん、でも超ギリギリよ。あと数グラムでも多かったら無理だったと思う」
「俺も途中で『あ、無理かも』って思ったけど、なんか後半もう気合いだったよね」
「本当に戦いだった、ね。ちょっともうリピートはないかな」
「うん、俺も同じこと思ってた」
「まぁ、気になっていたものを食べられて満足かな」
「そうだね。美郷さんのおかげでいい経験ができたよ」
満腹で重たい体を引き摺りながら、二人でのそのそと駅まで向かう。電車に乗る前に少しだけ話をして、それぞれ別方面の電車に乗って解散という運びとなる。
ちなみに自分の体臭が店と完全に同化しているみたいで、電車の中で他校の高校生が「なんかニンニクと、動物の油? そんな感じの臭いするよね」と話をしていた。
はい、犯人は俺です。
味も量も匂いも強烈なお店だった。何だかんだいい経験にはなったな。
翌日。俺は不思議な感覚に襲われていた。
あんなに苦しい思いをしたのに、あのラーメンがまた食べたくなっているのだ。
いや、なんというのだろう。高級レストランのそれとは違うし、世の中には他にも美味しい食べ物が無数にあることは分かっているんだ。それでもまたあの体験がしたい。
口の中がまたあの味を求めている。
そんな最中、突然ピコンとSNSの通知音が鳴る。……美郷さんからだった。
教室で話しかけられてトラブルになるのは懲り懲りなので、SNSの連絡先を交換することにしたのだ。
ちなみに美郷さんはまともにSNSをやっていなかったので、アプリをDLしてからユーザー登録するまでの作業を代行することになった。結構大変でしたね。
『(美郷清姫)なんかさ、自分でもよく分からなんだけどさ』
『(日部春哉)どうしたの?』
『(美郷清姫)またあのラーメンが食べたい』
『(日部春哉)え、めっちゃ分かる』
『(美郷清姫)また二人であの店に行かない?』
『(日部春哉)うん、行こう。絶対に』
美郷さんも同じような現象に遭遇しているらしい。一体この現象は何なんだ。
あのラーメンが持つ謎の中毒性に、俺と美郷さんは沼りかけていた。通学途中も今度はどんな風にコールをしようか、そんなことをずっと考えてしまう
「おはよう、智慧!」
晴れやかな気持ちで教室に入る。
「よー春哉……って! なんかお前、今日ニンニク臭くね!?」
「うわあん!」
智慧からニンニク臭を指摘され、羞恥の感情がじんわり噴き出てくる。
これでも昨日はブレスケアのタブレットをバカみたいに飲みまくり、何度も何度も入念に歯を磨いたのに。
それでもあの強烈なニンニク臭を覆い隠すことは叶わなかった。
「あぁ、やっぱりもう二度と行かない!」
言うまでもないがそんな宣言は守られるわけもなく、春哉は再びあのラーメンをニンニクマシで食べることになる。この時の彼はそれをまだ知らない。
「(この謎電波はどこから!? 俺の一人称に割り込むのやめてくれない!?)」
脳内でもツッコミを始めたら、いよいよ終わりだとも思う。