プロローグ/前
七月、初夏。
初夏というにはあまりにも暑く、もう八月ではなにのだろうかと、疑いたくなるほどの陽射しの強さ。アスファルトは白くなっていて、道行く人が自分なりの日よけ対策をして大通りを進む。そんな大通りに鎮座する小さなコンビニ。大通りと言いながらコンビニ自体、数の多い方ではなかったからいつも混雑していた。
俺はそんなコンビニで働いている。店内は、冷房が効いていて、店の出入口を境界線としてまるで別世界に迷い込んだかのような錯覚に陥るものだ。それでも汗が滴るから、それを客には見えないところで拭う。
俺は今日の夕食のことだったり、様々なことを思考しながら仕事に打ち込む。正直この仕事を楽しいとは思わない。早く終わってしまえ、と頭の片隅で思うのも恒例のことである。
ヒグラシが鳴き始めた頃、俺の勤務は終わる。今日もいつもと変わらない。それでも疲れていたのか、出入口の前で転んでしまった。いつもならこんなことはないけれど。立ち上がると膝の辺りに痛みを覚えた。
見てみると、だいぶ擦りむいていた。血が結構出ている。どうしたものか少し考えてしまう。店内に蛇口はないし、かといって俺自身も水などは持っていなかった。もう少し考えて、近くに公園があるのを思い出して、そこに向かうことにした。
その公園には出入口の近くに水飲み場があって、それに蛇口もついている。そこに向かい、足を洗う。園内には時間も時間だからだろうか、子供が一人もいない。そうは言っても、ここ出入口から遊具までの距離がだいぶ離れているから、いたとしても見えにくいといった方が正しいのかもしれない。
足を一通り洗い終わり、拭くものを持っていなかったから、手でそれなりに水を切って靴下を履く。その時、偶然にも遊具の方に視線をやってしまった。
そして俺は信じられないものを目にする。
距離が離れているから確かじゃないが、ブランコに女の子が座っていた。服装はきっと制服で中学生か高校生くらいだろうというのは分かる。その女の子が何をしているかまでは分からない。それでもはっきり見えたのは赤い液体。そう、血液だった。
彼女の姿はよく見えないが、その腕から流れる血液だけは鮮明に見えていた。
それを見て、彼女がいったい何をしていたのか一瞬で理解してしまった。
それはリストカットだ。でも謎だった。時間帯は夕暮れだから、女子高生が公園に居たってなんら不思議ではないけれど、彼女が何故こんなところでリストカットをしているのか、ただただ謎でしかない。
俺はそんな彼女を見て、猛烈に居たたまれない気持ちになってしまった。そして気づいた時には、彼女のその手を掴み、行為を辞めさせていた。
この距離感になると、彼女の姿に目を逸らさずには居られなかった。肩くらいの長さに揃えられた少し癖が目立つセミロング。目の下の隈が印象的で、ほんの少し着崩したブレザーが変に似合っている。そして左手首には今切り付けた傷の他に、瘡蓋になりつつある傷がちらちらと見え隠れしている。そんな女の子。
俺は目と共に、掴んでいた手を離せなかった。
「…………」
彼女は、静かに腕を振り払った。
「ご、ごめん」
俺はそれに反射的に謝罪をする。当然といえば当然ではある。こんな出会ったこともない人が、急に自分の前に現れて腕を掴んでくるなんて、俺自身からしてもかなり気持ちが悪い。
「……別に」
彼女はそうとだけ言うと、俺の顔をまじまじと見つめてきた。
「何?」
俺は少しだけ後ずさって、そう言葉を漏らす。というか言葉ですらない気がする。
「…………」
彼女は黙ったまま、今度は俺の身体をくまなく見始めた。正直、かなり不気味な子だと感じ始めている。
彼女は再び俺の顔をみつめて、口を開いた。
「私の自傷行為を止めたんだから、責任取ってよね」
「……はい?」
何を言っているのか分からなかった。責任? 何の? 俺の頭の中は疑問符でいっぱいになる。彼女はそんな俺をよそに、言葉を続ける。
「私は、有栖――汐川有栖、十七歳」
有栖と名乗ったその女子高生は、俺に背中を向けて「明日から、貴方のバイト先にお邪魔するから、よろしく」とだけ言ってその場を去った。
これが俺と有栖の出会いだった。