やれって言われると決してやらないわたし
わたしは昔から捻くれていた。生まれた時から捻くれていたと思う。 捻くれているというより、それを通り越して歪んでいたとも言える。 なにしろ。やれって言われたことは、意地と誇り(プライド)にかけて、決してやるこたはなかったのだ。誇りを持って(?)言える。 そう。やれって言われたことは、断じてやってはならないと思っていた。 毎朝の歯磨き、洗顔から始まって、毎日の手洗いも。お風呂入りも。御飯の時「いただきます」も、「御馳走さま」だって言えと言われたら言わなかったし、自分の食器も洗わなかった。学校から出される宿題も、連絡帳の提出ももちろん。親に渡すプリントだって先生からお母さんに渡せなどと命じられようものなら決して渡すことはなかった。自慢じゃないけどらおかげでわたしのランドセルの中身はいつでも、なにかの印刷された藁半紙でいっぱいになり、いつでも重量級のランドセルを背負って学校の往き帰りをしなければならなかったのだ。 先生からはいつでも通信簿に、忘れ物が多いとか、宿題をして来ないとか書かれていたし、他の児童、生徒たちからも白い目で見られていたと思うのだけれど。 それでも、何故わたしは、やれと言われるとやらなかったかと言うと、その理由は、自分でもよくわからないのである。 それでも考えてみる。ASDとか、ADHDといわれる病気を持っていたというのももその大きな要因ではあろうけど、それ以上の根本原因があったハズである。 それは即ち。 やらなければならないとは思っている→やろうとはしている→やれ、と言われる→やろうとしていた事を否定されると感じる→侮辱されたと感じる→それでも言われた事をやったら、言われるまでのやる気がなかったという事実誤認を逆に事実として認めることになる→ならばやらないことによってそう思われた事への抗議、報復を行おうと思う→やらない→やったら敗けただと思う→◯んでも(らない・・・というような一見、複雑なような単純なようなわかり易い流れなのであろうけど、それでもひとたびその流れにのってしまったら、引くわけにはいかない。そうでなければわたしがやる気もない怠け者であるという誤解を認めることになる。だから・・・そんなループだ。 そんなだから、是非、わたしにはやらなければならないことを、「やれ」と言わないで欲しいのだ。ただ、それだけ。 やらない人間ではないのだから。そうでなければ、やらない。