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残業マン  作者: 伊賀谷
第一章
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その男残業につき

〈先輩、二十三時過ぎましたよ〉

〈おっと、もうこんな時間かよ〉

〈ぼくそろそろ地元駅の終バスに乗り遅れますので〉

〈そうだな。まったく仕事は終わっていないが、そろそろ帰るか〉


 夜神(やがみ)シンヤは二つ下の後輩、根津(ねづ)クロウとプライベートチャットで会話をしている。

 繰り返される同じ日々――。

 定時とは会社が定めた労働時間である。退勤時刻である午後六時を過ぎて働くことを残業と言う。

 深夜に近い午後十一時。仕事は終わっていない。いや、終わることはない。

 シンヤはシステムエンジニア。

 仕事相手はシステム。つまりは機械だ。機械は休むことがない。人間さえ動き続けることができれば、二十四時間仕事をすることが可能なのだ。

 定められた開発期間内に時間をかけて働けば働くほど、品質がよい製品(システム)を作ることができる。つまり一日の労働時間を長くすれば良い。簡単な論理である。

 それがシステムエンジニアという職業だ。

 シンヤが携わっている大規模なシステムになると開発期間は数年にも及ぶ。

 つまり仕事が終わることのない日々を数年間過ごさなければならないのだ。

 この時間でも静まり返ったオフィスでみんな黙々とパソコンに向かって手を動かしている。

 仕事以外の私語は控えた方がいい。

 なぜなら暴力団さながらの強面(こわもて)をした強羅(ごうら)課長に見つかったが最期。


「よう、楽しそうじゃねえか。笑顔を出せるってことはまだ余裕があるってことだよな。ならもっと仕事ができるよなあ」


 目を覗き込まれて凄まれた被害者は引き攣った笑顔で黙るしかない。

 なので個人会話は専らプライベートチャットで行われる。


〈この雰囲気、帰りづらいんですよねえ〉

〈分かるよ。まだほとんどの人が残っているからな。二十三時半になるまでは誰も動かねえよ〉

〈それにぼく、常本(つねもと)係長が苦手なんですよ〉


 強羅課長はすでに退社している。課長は毎日夜の九時には帰って行く。

 東京行きの最後の急行電車に乗るためにはその時間に帰らないといけないからだ。

 噂では缶ビールを煽りながら電車に乗っているらしい。

 暴力団幹部のような男が周囲を睨めつけながらビールを飲んでいるとしたら、同じ車両の乗客たちも落ち着かないのではないか。

 いらぬ心配をしつつも、課長が帰ったあとは職場に張り詰めていた緊張感が少し緩むので、シンヤとしては就業時間内でも唯一落ち着く時間帯だ。

 だが、職場から脱出するための障害は強羅課長の圧力だけではない。いや、実はもっと具体的な障害が存在するのだ。

 それは課長配下の係長たちだ。

 彼らに終電時間という概念はない。そもそも家に帰る気がない。帰れなければ会社指定のホテルに泊まればいい。なんなら会社に泊まって床で寝ても構わない。

 そんな人種だ。

 シンヤが思うに、彼らは神経回路の構造が狂っていて、「苦しい」という神経が脳の「気持ちいい」と感じる領域に繋がって刺激しているとしか思えない。

 その一人が常本係長だ。

 得意技は「人が帰ろうとする時にナチュラルに仕事を頼む」だ。

 常本に悪意はないとシンヤは思う。ただ単に本人の仕事熱心さに端を発しているのがやっかいなところだ。

 さらにクロウは常本の隣の席だ。そのためか声をかけられやすい。クロウが常本を苦手とするのも納得であった。


〈しかしこのまま悩んでいても終バスを逃すだけだろう〉

〈またタクシーですかねえ。でもうちの会社はタクシー代も出ないしなあ。まあ、今日の残業代がタクシー代だと思えばいいですかね〉

〈悲しいこと言うなよ。誰かが最初に帰らなくちゃいけないんだ。それが今日はおまえなんだよ〉

〈えっ。先輩、無茶言わないでくださいよ〉

〈心配するな。おまえが帰ったら、おれもすぐにあとを追う。みんなきっとぞろぞろ帰りだす。そうしたら常本係長もなにも言えないさ〉

〈なるほど。信じていいんですね、先輩〉

〈ああ、任せておけ。今日はおまえがみんなを救うヒーローになるんだよ〉


 シンヤがふとモニタから顔をあげると、向かいの席の女性社員、紅月(こうげつ)サヨが目に入った。

 サヨはシンヤと同期だ。シンヤは一年間浪人をしていたので、年齢的にはサヨの方が一つ下になるが。

 赤いフレームの眼鏡は少し愛嬌があるが、どちらかと言うとぽっちゃりとした体型で、髪はあまり手入れがされていない。何よりいつも紺のパンツスーツを着ているのが地味な印象を与える。

 席も近いし強羅課長もいない。少しくらい声を出して話してもいいだろうとシンヤは思った。


「紅月さん、まだ帰れないの」

「はい」


 消え入るような声で答えながら、サヨは焦った顔でディスプレイを食い入るように見つめている。

 彼女はいつも小動物のように怯えた様子で仕事をしている。


「また終電になっちゃうよ」

「わたしは家が近いですから」

「ふうーん」


 同期である自分に対して丁寧語を使う必要はないのだが。そういうよそよそしさが人を近づけないのだろう。そう思いながらもシンヤはサヨを見る目を細めた。


 ――うーん、やっぱりデカいんだよなあ。


 サヨの胸が、だ。

 水着を着たら化けるのではなかろうか。シンヤが密かに気がついているサヨの魅力だ。

 一緒にプールなんかに遊びに行ったら楽しいかもしれないとシンヤは妄想する。

 するとシンヤから離れた席で小太りのクロウが立ち上がった。その童顔は少し恐怖に(おのの)きながらも、心なしか目には決然とした輝きがあった。

 クロウのとなりの席の常本係長は仕事に夢中で気がついていないようだ。


 ――そうだ、クロウ。おまえならできる。


 クロウはカバンを手にして小声で「お先に失礼します」と呟き、出口に向かって振り返らずに進んだ。


「おい、根津。この仕事頼むわあ」


 常本の声。と、同時に人が倒れる音。


「おい、だれか倒れたぞ」

「大丈夫か」

「根津だ」

「失神しているぜ」

「救急車、救急車」


 途端にオフィスが慌ただしくなった。

 不安とストレスの限界だったクロウは、恐れていた常本の一声が止めとなり、遂に失神してしまったのだ。


「応接室のソファに寝かしておけば大丈夫だろ。おーい、だれか仕事頼めないかあ」


 常本がのんびりした声をあげる。

 まだ騒然としているオフィス。

 可哀そうなことに、クロウはこのオフィスで明日の朝を迎えることになってしまった。

 だが、シンヤはどさくさに紛れてオフィスを脱出することに成功していた。


 ――クロウ。おまえの尊い犠牲は無駄にはしねえ。

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