記憶の中の味
《……その瞬間、汗だくになりながら目覚めた私は、握り締めた見慣れぬハンカチに気付いて……背筋を凍らせたのでした》
《……お便りありがとう御座いました。いやぁ、なかなか……怖い、お話でした……》
じっとりと肌を舐めるような昼間の暑い空気が、湿気を含みながら徐々に冷えていく夜。俺は一人で車を走らせていた。
《……はい、では最後のお便りをご紹介しますね……》
毎晩同じ道を通る車内で、同じラジオ番組を聴きながら帰宅する、そんな夏の夜だった。
夏と言えば、どの放送局でも恒例の視聴者が寄せる怪談話で番組を盛り上げるのがお約束らしく、今流れている放送でも男性パーソナリティーが、視聴者から送られてきた話を読んでいた。
(……まあ、怖くはないけど、一人で運転中の車内で聴くもんじゃないよな……)
そう思いながら、ラジオのボリュームを絞ろうとしたその時、パーソナリティーが聞き覚えのある名前を読み上げた。
《えーっと次は……本名は伏せますが……下の名前でヤスジロウさん、かな? お便り有り難う御座います》
ヤスジロウ……安次郎? 去年亡くなった大叔父さんの名前だけど……偶然だよな。
思わずハンドルを握る手に力が籠るが、流石に苗字は読まれていない上に、大叔父さんは既にこの世を去っている。只の偶然だろう、そう考え直すと再びラジオのボリュームに手を掛けた。
《……あれは、太平洋戦争の最中。……私は南の島で地上部隊に配属され、先細る補給による飢餓と、南国特有の熱病に怯えながら日々を過ごしていました》
……大叔父さんは、去年亡くなったんだ。名前が同じ他人の話だと、そう安心しながらボリュームを絞った。
しかし、音量を下げてか細く聞こえるパーソナリティーの声が俺の耳にしつこく残り、その内容を克明に伝えてくるのだ。
《……遂に定期的に来ていた潜水艦による物資の補給も途絶え……食料は底を尽き、軍用の馬まで殺して肉にし、やがてそれも食べ尽くして失くなったある日。同じ部隊のキスケが、馬の肉を手に入れたと言いながら、空腹に喘ぐ兵士が横たわる宿舎にやって来たのです》
……キスケ。戦争で亡くなった爺ちゃんは、喜助だった。キスケと喜助が同じ人物なら、この手紙を書いたのは誰なんだ。大叔父さんは、もう居ないんだ。
《何処で調達したのか判らないけれど、バナナの葉に包まれたその肉は……ちょっと筋張っていて、血抜きも下手でしたが、まだ温かく新鮮だった上に、久々に食べた馬肉という事もあり、とても旨かった。けれど持ってきた筈のキスケは、何故か一向に手を出そうとはしません。自分はもう食べたから、みんなで食えの一点張りで決して箸をつけません》
……大叔父さんは、馬肉……それも赤身の刺し身は食べなかったな。しかし、この手紙の中のヤスジロウは食べているが。
《……そのまま、部隊の皆で馬肉を食べ、これで馬のように足が速くなったらいいなと笑いながら、就寝しました。そして翌朝になり、いつものように敵の爆撃で荒れた飛行場の整地をしていると、隣の基地から伝令が現れてこう告げたんです。【昨夜、脱走兵が出たんだが、ここには来ていないか】、と。我々は知らないし見なかったと答えたんですが、キスケは黙ったまま何も言いませんでした》
《……そんな出来事から暫く後、本当に何も食べる物が無くなり、部隊の中から餓死する兵士が現れるようになった頃、熱病に罹って呆気なくキスケは死にました。彼は最期の時、私に向かって【どうか何も聞かずに見送ってくれ】とだけ告げて、亡くなりました》
《……あれから今に至るまで、私は馬の肉を決して口にしないよう心に決めました。何故なら、あの時食べた馬の肉の味が、戦争に行くまで口にしてきた馬肉と同じだったのか、判りたくなかったからです》
長い沈黙の後、パーソナリティーは明るい口調になり、手紙を送ってくれた人物に感謝を述べつつ話を締め括った。
……読まれた手紙は誰が書いたのか、今となっては判らない。果たして登場する名前の二人が、俺の知る大叔父さんと祖父なのか、確かめようがないからだ。
手紙の中では詳しく説明されていなかったが、大叔父さんは一度だけ、昔食べた馬刺しは飼い葉の質のせいか今の物とは全く違い、口の中で蕩けるような舌触りが心地好く、それを知ったら他の肉が食えなくなる程だった、と言っていた。
……俺は、馬刺しの良さは判らない。でも、ラジオで聞いた話がどうしても忘れられない上に、思い出話を語っていた大叔父の表情と重なってしまうのだ。
その時の彼の顔は、二度と出会えない過去の味を思い出そうとしているようには見えず、まるで克明に記憶している味を、頭の中で再現しながら話しているように見えた。
……その日を境に、俺は馬刺しを……それも赤身の新鮮な肉が食べられなくなった。