七話 還迷④
「お前、そんなに泣き虫だったのか?」
寝室での、からかうような黒崎の口振りに千夏は顔を赤くして首を振る。
「ち、違うっ、なんか、身体が縮んで涙腺が緩んだんだ絶対! ここだけの話、トイレの方も」
「ま、まぁそれは物理的にな……俺もだし」
黒崎の言葉は最後に行くにつれて消え入るようで千夏には聞こえなかった。
二人とも、元は男だったのに何故か女の身体に……しかも少々若返った為に色々と生活に違和感がある。だがそれ以外にも考えなければならない事、というよりはどうすれば良いのか分からない事が多い。考えることが多く脳内が忙しいので、良くも悪くも女の体に混乱している場合ではなく……適応するしかなかった。
セリーズスの家に来るまでの道中に、すれ違う街人達は皆表情が暗く、それが街全体の空気そのものを暗くさせているようだった。
子供の無邪気な声が響いてきて、しかし大人は疲れた顔でため息を吐く。
閉じ込められた街、長くは保たない。物に溢れた日本から来た二人といえど、物資の流通が止まれば一体どのような事が起きるのか……それは何となく想像がついた。
「暴動、とか起きるのかな」
そう呟いた千夏の脳裏には、かつてテレビの向こうで見た外国のデモや暴動の様子がよぎっていた。街を歩く人達や、ガラハッド達の顔付きは日本人のそれではない。だからこそ、日本では馴染みのない暴動が、ここではありうるのではないか……特にパニック物の小説や漫画では、そういう危機的状況に陥ると人間が暴れるパターンが多い。
「……あり得るだろうな。来る時に俺達に絡んだ奴ら、あんなのから発展していくんだろ」
黒崎の冷静な言葉に、千夏はそうだよねとため息を吐くしかなかった。ベッドの上で膝を抱いて、そろそろパンクしそうな頭を落ち着ける。そこで黒崎が、追い討ちをかける様に言った。
「『呪文』は、迷宮の外でも使える。四季、お前も覚悟はしとけよ。俺は……いざとなれば、『やる』」
はっきり言い切った黒崎に、千夏は自分がどうするのかはすぐに答えることができなかった。
*
次の日。千夏と黒崎が起きたのは昼前で、既にセリーズスは何処かへ出掛けていた。食卓には二人の朝食が用意されており、ついでにレインが座っていた。
彼はどうやら千夏達が起きるのを待っていた様で、二人を見て顔を綻ばせた。
「おはよう、二人とも。いや疲れているだろうから起こすのは気が引けてね……まぁ、レディの部屋に入るわけにもいかない」
レディ扱いされるのは何やらむず痒い気分ではあるが、しかし否定できる身体ではないので適当に返事をして朝食を頂く。
色々と察せられる量の食事だったが、二人とも身体が小さくなったおかげでそれでも充分満たされた。その間、レインは何も話す事はなく二人をじっと待っている。
「えと、レインさんは、一体どうされたので?」
普通に気になるので千夏が聞くと、レインはニコリと笑って言う。
「ああ、セリーズスさんから君達の世話を頼まれているんだ。街を……危なくない範囲で案内でもしようかと思ってね」
「それは……どうも?」
とりあえずお礼を言う千夏。黒崎は黙々とパンを頬張っている。ジッと、レインは千夏の顔を見て真剣な顔で黙り込む。数秒、場を沈黙が支配した。
「下心を隠すつもりはないから言うけど、この街に少しでも愛着を持ってもらおうと思ってるんだ」
下心……と言われるとやらしい意味に聞こえるな。と千夏は思う。だがもちろん今のはそういう意味ではないだろう。
「君達は、強い。『呪文』はもちろんだが、それだけじゃない」
レインは、悲しげに顔を伏せて自身の手を見つめた。辛い何かを思い出して、ぎゅっと瞼をきつく閉じる。
「俺は、ダメだった。歯が立たなかった。シキちゃんの強力な《呪文》、そしてそれをサポートしたクロサキ。君達二人がいなければ……」
千夏達から見て、仲間を失ったはずのレインは明るく見えていた。しかしそれは、平和な世界で生きてきた自分達よりも少々『死』に慣れていただけで、共に苦楽を乗り越えてきた仲間達が死んでしまって悲しくないわけがなかった。
(大切な人が、死ぬ……か)
ぼんやりとそんな事を千夏は思って、握った拳を震わせるレインに何も言うことはできなかった。
探索者。迷宮へ向かう彼らが死んでしまう事なんて、この世界では良くある事らしい。なんなら、危険なのは迷宮の中だけではない。
その事実を千夏と黒崎の二人はレイン達から聞いている。だが、それを実感するにはまだ日が浅い。
「君達には、才能がある……気がする。『呪文』の事じゃない。《迷宮》を切り抜ける才能だ」
一度ため息を吐いて、気を取り直した様にレインが言う。
「探索者にとって、その才能が一番重要なんだ。いや、君達が探索者になるとは決まってないけど……なんだか、きっとそうなるんだろうって直感があるよ」
悲しそうな瞳のまま、どこか希望に満ちた視線。レインは千夏と黒崎を見て、強く……どこか懇願する様に語りかける。
「もし、俺や……他の誰も、この街を覆う《試練》を越えることができなかった時は……君達に、この街を救って欲しい。まだ幼い、君達に頼るなんて情けないけど……《屍還》の迷宮を攻略したのは君達なんだから」
話はそれきりにして、三人は街へ出た。
石造りの建物が並ぶ外国風情を感じさせる『ライア』の街は、人の気配がするというのにひどく静かだった。
街を覆う『壁』と、空に在る黒陽。薄暗いせいなのか、どこか辛気臭い。しかし歩いている途中、やけに騒がしい一角があった。そこは何かの建物だ。人が押し寄せてそこだけ賑わいをみせている。
とはいえ、あまり良い雰囲気ではなさそうだ。
「あれは、『迷宮ギルド』の支部だ。この先どうなるんだと街中の人が押し寄せてる」
人が集まっているのを不思議そうに見つめていると、レインが横から説明してくれる。
「自分達で迷宮を攻略すれば良いだろ」
迷宮ギルドの喧騒、その声は今千夏達がいる遠い位置まで聞こえて来る。内容としては、一体誰がこの状況を解決してくれるのか、というものが多かった。
それに対して黒崎が呆れた様に言う。レインはその言葉を否定することもできず、曖昧に笑った。
「まぁ、いずれはそうなるだろうね……そうするしか道はなくなる」
でも、とレインは続けた。
「迷宮の恐ろしさは皆、よく知っている。だからこそ……探索者という道を選ばなかった人にとって、迷宮は恐怖の対象でしかない。君達のように戦闘用《呪文》を習得できる人ばかりじゃないんだ」
「戦闘用?」
「ああ、魔物を殺せる威力を持った呪文の事だよ」
質問した千夏にあっけらかんと説明するレインの前に誰かが立った。レインが足を止めて、それに合わせて千夏と黒崎も足を止める。
通せんぼをしているのは、この街の人間がよく着ているような衣装に身を包む、赤みがかった茶髪が特徴の女だった。
ふんすと鼻息荒く、腕を組んだ彼女はずいっとレインに顔を寄せる。
「ちょっとレイン、あんた何こんな小さい子達に物騒なこと教えてんの!」
「レベッカ! ちょうど君のところに行こうと思ってたのに!」
「遅いから迎えに来たの! それより……」
レベッカと呼ばれた女性はジロリと千夏を見た。ビクリと千夏が身体を震わせると、ニコッと明るい笑顔を彼女は浮かべ、勢いよく千夏の手を握る。
「あんた、何よこの可愛い子は!」
気付けば千夏はレベッカに手をぶんぶんと上下に大きく揺さぶられていた。混乱する千夏を他所に、レベッカは興奮を隠さず捲し立てる。
「話は聞いてたけど、この子達があんたを助けたなんて……信じられない! やだー! 可愛いっ! そっちの子もかわいいー!」
千夏の手を握ったまま勢いよく視線を送ってくるレベッカに、黒崎が眉を顰めて一歩後退る。
「お、おいレベッカ、驚いてるだろ……離してやれよ……」
少し引き気味のレインだが、キッと強く睨み付けられて彼も一歩後退る。二人の関係性が何となく見えた黒崎だった。ちなみに千夏はまだ混乱している。
と、そこでレベッカは何かを思い出した様にハッとする。
「おっと。とりあえずウチに来て、今日は貴方達の面倒をセリーズスさんからお願いされてるの」
*
「すごい綺麗な髪……でも、なんだかお手入れが雑ねぇ。教えてあげるから、これからはちゃんとするのよ?」
レベッカからそう言われながら、鏡台の前に大人しく座って髪を梳かれている黒崎を千夏は半笑いで見ていた。
今千夏達がいるのはレベッカの家だ。アパートメントの一室の様な所で、レインも含めた三人でお邪魔していた。
ちなみに千夏の番は既に終わっている。ボサボサだった緑髪は艶を持ち、複雑に編み込んで後ろで纏めてあった。
「似合ってるよ」
「それはどうも」
鏡で、改めて現在の容姿を見て自分でもよく似合っていると思った千夏だった。子供の身体とはいえ将来有望……自分の身体をそう表現するのは少し恥ずかしいが。とはいえ我が身とまだまだ実感がないのも事実。
「これだけ長い髪をここまで綺麗にしてあるなんて……育ちの良さが伺えるわ。レイン、あんた誘拐でもした?」
「僕を何だと思ってるんだ……」
黒崎も、千夏と同様起きたら今の身体だ。レベッカの言葉を聞いて、千夏は少し思案する。
(誰かの身体に……というよりは、新しく作られたのか、それとも元の身体が変化した……? でも俺の身体にも、あの迷宮でついた傷以外には……元の身体にあった傷すら無くなっていた)
風呂で黒崎の身体を洗った時、迷宮でついたであろう傷を除くと綺麗な肌を見た時、今と同じ様な事を考えた。
意識を取り戻したときに、学ランを着ていたことから元の身体を変化させたものかと思っていたが……。いや、その場合でも古傷なんかは消えてしまうのか?
「俺、髪の毛切りたいん……」
「ダメダメ! そんなの! 髪は女の命っ! そこまで伸ばすの大変なのよ!」
長い髪の毛を鬱陶しそうに見て言った黒崎に噛み付かんばかりの勢いでレベッカが止める。男時代の黒崎ならこの辺りでこめかみに青筋なんかを浮かべて「あぁ!?」とか言ってそうだが、意外とレベッカの気迫にたじたじであった。
その様子を見てふすすっと、含み笑いを千夏がしていると、黒崎がギロリと睨みつけてくる。
「ごめんごめん。なんだか、大人しく聞いてるのが意外だったから」
「……お前、俺をなんだと思ってる?」
そりゃ、不良? とは言わないが、ニコリと笑顔を浮かべて誤魔化した。そんなやりとりを横で見ていたレインが、柔らかい表情を浮かべる。
「仲良いんだね、二人とも」
「いや、まともに喋ったのはここ来てからですけどね」
男時代は、正直黒崎の事を怖いと感じていたしそもそも関わる機会もなかった。千夏は、案外喋ってみていたら今みたいに気軽な雰囲気だったのかもしれないな、と今更なことを考えた。
「それにしても、レベッカ。あんたは、明るいんだな」
ふと、黒崎が急にそんな事を言い始めた。それに対してレベッカはキョトンと目を見開いて、黒崎の言っている意味が分からないと小首を傾げる。
「いや、なんていうか……外の奴らは、こう……辛気臭ェって言うか……」
「ああ、そのこと、そりゃあセリーズス様がいるからよー」
突然セリーズスの名前が出て千夏は驚いた。横を見ると、レインもレベッカに同意する様に頷いている。
「セリーズス様って、すごーく有名な探索者だったのよ? 今は、隠居なされているけれど……シキちゃんもセリーズス様の『呪文』を受けたんでしょう? いやもうあの方は生きる伝説よぉ」
「昔、セリーズスさんのいた探索者パーティーはすごい有名だったんだ。今はお年を召した事もあって前線を退いているけど、それでも彼女の培ってきた経験と実績は今尚衰えてはいない」
二人がかりで怒涛の説明をされて、千夏はもちろん黒崎も呆気に取られる。そんなに、凄い人だったのか……千夏は素直にそう思った。
確かに、あれだけボロボロになった千夏の身体は嘘の様に快調だ。実際に受けた記憶はないし、『回復呪文』というものがどれ程すごいものなのかを千夏は知らないが……もしかしたらとても貴重で、しかもセリーズスのものはその中でも強力だったのだろうか。
「回復呪文だけじゃないんだ、確かにセリーズスさんの回復呪文はかなり強力なものだが……一度共に迷宮へ行く機会があったが、探索者としての動きというかな、一流のものだった」
自分の身体を確かめる様に見ていた千夏に、レインが説明を付け加える。とりあえずセリーズスは凄い人らしい。コクコクと頷いて千夏は理解を示した。
「それにガラハッドさんも、少し前までブイブイ言わせてたのよぉ〜? そんな二人が、今迷宮を攻略してくれてるんだから……私としては心配なんてしてないわけ、と言ったら嘘になるけど……まぁ暗くなっても仕方ないじゃない?」
「……今あの二人は残った探索者パーティーと、合同で二つ目の迷宮に行ってるんだ」
二つ目の迷宮の攻略。
突然知らされたその事実は、千夏の胸に僅かに暗い影を落とした。それは、『嫌な予感』という不確かなもので、しかしその後にセリーズスの訃報をもって確かなものになる。