六話 還迷③
この世界……もう、千夏はとりあえずここを異世界とすることにした。その方が考えるのが楽だからだ。そして何か驚く事があったときに自分を納得させやすい。
という事でこの世界の文明レベルで言うと、日本ほどは科学が進歩していないが、暮らすにあたって特に不便はなさそうなレベルだった。
火をつけるのに火打ち石とかそんな世界だったらどうしようかと思っていた千夏は安心する。『呪文』という魔法みたいな力がある時点でそこまで不便でないのだろうとは思っていたが。
それはさておき、この世界の住人もどうやら当然のように風呂に入る。シャワーと、珍しくはあるらしいのだが湯船までセリーズスの家には備えられていた。
大きな鏡もあり、もはや元の生活レベルと遜色がないのではないか、千夏は自身の全裸を鏡で見つめながらぼんやりと思った。角度を変えて、じっくりと見る。
「これ中学は入学してないな」
「何言ってんだお前」
鏡の前で奇妙な動きをする千夏に後ろから黒崎が呆れた声を出す。彼女も当然、裸で人生初の長い髪の毛を洗うのに四苦八苦しており、困りに困って千夏に助けを求めようとしていた所だった。
「ちょっとさ、この小さい身体はこれ異世界転生……転移? にしてはハード過ぎない? すごい超人的な力があるわけじゃないし……『リベリオン』以外はさぁ」
愚痴めいたことを言いながら千夏は振り返り黒崎を見る。シャワーを浴びて少し上気した肌、シミ一つない白い肌……は、千夏も同じだが、手のひらで包み込める程の胸、僅かにくびれを見せるお腹、つるんとした小尻。
うーむ、と千夏は腕を組む。
「見違えたな。あの黒崎大伍が……どちらかと言うと細マッチョ系のヤンキーくんがねぇ……」
脳内で思い出すのは、かつての黒崎の姿。背が高く細身とはいえしっかりと鍛えられていた肉体……そしてそんな彼だった頃の面影のない、可愛らしい見た目の今と見比べる。
黒崎は不機嫌そうに眉を吊り上げた。
「ジロジロ見るなっ。お前恥ずかしくないのか!? そんな、裸でっ」
千夏は自分の身体を見下ろす。凹凸のない平坦な体。以上。
「そんなことより、変わった身体を確認しときたいよね」
「……あっそ」
それは、やましい意味ではなく……千夏にとって、肉体の状態を確認しておくのは重要な事だった。
まだ聞いた話だけで全容は目にしていないものの、この街は外部から閉ざされておりこのままでは未来が無いらしい。
この世界で目を覚ましてすぐに遭遇した『死神』、そして巨大な『ボスゾンビ』、その中から出てきた『真のボス』。
千夏が今生きているのは奇跡に近い、と本人は考えていた。死神の時は小さな身体だから攻撃を切り抜けられた。ボスゾンビの時は軽い身体だったから、恐らく吹っ飛んだ際のダメージが少なかった。
そう考えると、小さな身体も悪くないのかもしれないが……この身体の『体力』は見た目相応に低い。『叛逆剣』の力がなければ《敵》を倒すことなんて不可能だろう。
千夏は自身の手を見つめて、握っては広げてを繰り返す。《敵》とは、何を指すかは自分でもハッキリしていない。ずっと嫌な感じがあって、漠然とそれに対峙する可能性を考えていた。
千夏の『叛逆剣』の使用回数は、五回。使用回数の回復は、迷宮への出入りと言っていた。
一度出れば回復する……という意味でもあるが、あのゾンビが居た迷宮で多くの人間が……千夏の目の前だけでも四人の命が散っている事を考えると、迷宮を気軽に出入りするのは容易ではない気がする。いや、中に入って入り口から出ればいいのか? それは可能なのか? 分からない事ばかりだ。
しかし自分がまた迷宮へ行くことがあるのなら、この五回を上手く扱わなければいけない。当たり前のことだが、千夏はそう考えていた。
そのためにと、まずは自身の『呪文』の性能をもう一度頭の中で整理する。
まず、発動時の衝撃波。大剣の形成される地点から放たれるそれは威力としてはかなりのものだ。何故なら巨大なボスゾンビの拳を正面から止めたのだから。もしあのタイミングで勢いを殺せていなかったら、あの一撃で千夏は死んでいただろう。まぁその後引っ掛けられるように吹き飛ばされたのだが。
五回という限られた回数の中で、その後出てきた王冠骸骨に躱された時の様に無駄撃ちするのは避けたい。
次に、形成された光の剣。これのサイズは「な、なぁ」千夏のか「おい、おいって」
「な、なに……?」
考え事をしていた千夏に、黒崎が執拗に声をかけてくる。側から見ればボーッとしていたのかもしれない、心配をかけたか? と千夏が黒崎の方を見ると、何故か彼女は手に石鹸を持って目を瞑っている。
「え……なに?」
もう一度千夏は聞いた。分からなかったからだ、黒崎の意図が。目を瞑っているので前が見えないのか、ウロウロと手を上下させながら黒崎が言う。何故急に目を瞑った? 洗剤でも入ったか?
「あ、あ、洗ってくれ……」
「は?」
顔を真っ赤にして意味のわからない事を言う黒崎に、千夏は真剣に眉を顰めた。更に顔を赤くさせた黒崎が叫ぶ。
「身体洗ってくれって! 言ってんだ!」
「なんで!?」
*
「いや、恥ずかしいって……黒崎さぁ、多分この身体とはこれから付き合っていかなきゃなんないんだよ? そんなこと言ってられる?」
「ウルセェな、お前は恥ずかしくねぇのかよ。お、女の身体だぞ」
「まぁ、妹で見慣れてるなぁ……アイツとは歳離れてたし」
風呂上がりに歩きながら千夏が呆れたように言うと、顔をまた赤くする黒崎。そもそも、傷の確認をするから一緒に入るぞとあっさり言われた時は、逆に男の時はモテてたし不良っぽかったので女遊びもしてたんだろうな、だから女の身体に慣れているんだ……とまで千夏は考えていたのに、むしろその逆だったとは。
「くっ、俺もお前くらいガキになってれば……」
「そっちもまぁまぁ幼い部類じゃないかなぁ、高校の時周りはもっと大きかったでしょ? 何とは言わないけど」
黒崎と千夏は、男だった時の交流はほとんどない。名前と顔を知っているくらいで、要はただのクラスメイトという関係性だった。千夏から見れば黒崎は不良の類だったのでなんとなく気が合わないだろうと思っていた。
しかし、今こうして同じ状況に叩き込まれ、悩み事を共有出来る唯一の存在だというのもあるのか、意外と気負いなく話す事ができていた。
「てか、妹居たのか」
黒崎がふと、気付いたように言う。それに対して千夏は特に顔色を変えることもなく答える。
「まぁね」
短いその答えに、黒崎は少し複雑そうな顔をして立ち止まる。突然立ち止まった黒崎を不思議に思って千夏も歩くのをやめて振り返り、首を傾げる。
「帰りたく、ねぇのか?」
黒崎が言う。
元の世界に、という意味だろう。そもそも異世界と決めつけているだけでそうと決まったわけではないが……少なくとも自分達が居た所とは、大きく離れた場所だということは分かる。だからこそ千夏はもうここは異世界だと考えることにしたのだ。
「帰りたいよ」
千夏は、素直にそう言った。どこか達観したような顔で続ける。
「でもとりあえず、死なないようにしないとね。まぁ死ねば戻れるという可能性はゼロではないけど……怖くて俺は、試せないな」
「それは、そうだが……てかその見た目で俺って、違和感あんなぁ」
「口調の違和感に関しては黒崎ほどじゃないだろ……」
顔を見合わせ、互いに柔らかく笑って再び歩き出す。口調に関しても、変に目立たない様に変えていかないとダメかもしれないな。そんなことを考えながら千夏は口を開く。
「ここで目を覚ました時、死にそうになったんだ。その時にさ……まずは戦うって、決めたんだ。とりあえず自分の目の前にある『やれる事』ってのを、やっていくっていうか、さ」
うまく言えないな、と千夏は唸る。だが、黒崎はそれで納得したように何度か頷いている。
「なんとなく、わかるけどな。なんか色々悩むには余裕が無い」
やがて二人がたどり着いたのは、食堂への扉だ。セリーズスの家の食堂はそれなりに大きく、中に入ると既にガラハッドとレイン、そしてセリーズス本人が座っていた。
「ゆっくりできた? 別に、明日でもいいのよ?」
優しい声色で二人の調子を聞くセリーズスだが、千夏も黒崎も小さく首を振るだけで椅子に座る。
この集まりは、千夏が最後を看取った探索者達について、彼らの最後について千夏から聞く為だ。ガラハッド達によるとあの『屍還』という迷宮に入ったのは合計で十六人。それぞれが四人で構成された四つのパーティーだったという。
そして、生き残ったのはレイン一人。千夏が目を覚ましてから体験したことを話していくと、レインは悔しそうに歯軋りをする。
「くっ……あそこは、セーフゾーンじゃなかったのか。一度全員で入った時は問題なかったのに……」
セーフゾーン、とは迷宮内において魔物と遭遇することが無く、罠もない場所らしい。何故か迷宮にはそういった休憩に適した場所がいくつか配置されている事があるらしい。だが、今回はその思い込みが四人の命を奪った。
「条件を満たす事で発生する魔物だったのだろうな」
ガラハッドがため息を吐いて言う。迷宮では、よくある事なのだろう。それこそあの部屋自体が、『罠』だったのだ。気を抜いた探索者の寝首をかく様な。
「そういえば、レインさんや黒崎はどこに……? 特にレインさんは、どうやって生き残ったんですか?」
ずっと疑問に思っていた事を、この機会に千夏は聞くことにした。彼女にとって、レインと黒崎の登場は突然であり、その時までどこに隠れていたのか全く分からなかった。
「ああ……俺はみんなであのデカい魔物に遭遇した時に、真っ先に飛ばされたんだ。そこで気を失って、目を覚ますとクロサキが居た」
チラ、とレインが黒崎の方へ視線を送る。
「俺は目覚めたらレインの近くだった。そんで、ダボダボの服とかをひとまずなんとか出来ねぇかと弄ってたらコイツが起きたんだ」
その辺りは、千夏も共感できる事だった。目覚めてすぐに死神との戦闘があった為、起きてすぐにとは行かなかったが千夏もサイズの変わった体には動揺した。
「そういえば、お前達の身体は変わってしまったんだったな」
突然ガラハッドにそう言われ、千夏はどう答えるべきかと視線を泳がせた。答えたのは黒崎だ。
「ああ、元々俺と四季は男で、もっと大きい身体だった。四季、この三人には事情を全て話してる。その上で他の奴には言うなって話になったんだ」
「あ、そうなんだ」
どうやら黒崎と彼ら三人の間で随分と話は進んでいたらしい。
「そんな事例は聞いたことがない……いや、迷宮ならば、あり得る事なのかもしれんな。『ニホン』という国は聞いたことがないが」
「やけにボロボロのデカい服着てたのはそういう理由だったんだね」
ガラハッドとレインは黒崎の話を特に変な目で見ることなく聞いてくれる人材らしい。セリーズスも、今までの話を顔色を変えることなく聞いてくれている。
成る程、話が分かる奴ら……と黒崎が言っていたが、そういうことか。千夏は一人納得して、変に隠し事をしなくてもいい相手がいる事に心底からホッとする。
「大変だったのね……二人とも。それとシキ、貴方には、お礼を言っても言い足りないくらいなの。ありがとう」
今まで聞いているだけだったセリーズスが、柔らかな笑みを浮かべて何かを取り出した。それは、小さな板……千夏が持ち帰った認識票、その一つだった。
「それ……」
何故、セリーズスがそれを握っているのか分からず千夏は戸惑いがちに言う。しかし、何か直感めいた嫌なものが胸に広がる。
手に持った小さな板を、少し悲しげな瞳で見つめてセリーズスは言う。
「貴方が看取ってくれた中の一人、私の孫だったのよ」
ひゅっ、と。喉が干上がる音がした。震える瞳でセリーズスから目を逸らし、部屋の片隅に置かれた写真立てが目に入る。仲睦まじく、セリーズスと寄り添い合う若い男の写真。何となく既視感を感じる男の顔と、死神に首を落とされた男の顔が被る。
重なった男、彼はあの時『風弾』と言った。あれは、今思えば『呪文』だったのだろう。その直後に千夏の身体は遠くに飛ばされていて、もしかすれば、あれがなければ千夏の命は既になかったかもしれない。
気付かぬ内に千夏は俯き呼吸が荒くなっていた。突然の千夏の変容に周りの人間達は狼狽える。本人も自覚していない所ではあったが、あの迷宮ですぐ目の前で『死』を見た経験は、深く千夏の心に傷を残していた。
特に黒崎が立ち上がってオロオロとする中、セリーズスが千夏の側に立ち背中をさする。ゆっくりと、優しい手付きに千夏の荒い呼吸が落ち着きだした。
「ごめんなさい、貴方には……辛い事を思い出させたのかもしれない、ごめんなさい」
千夏はいつの間にか泣いていた。この身体になってから泣いてばかりだと思いながら、震える声を絞り出す。
「た、たふけられたんです、殺されてた、そのひとが、おれをスペルで飛ばしてなかったら、多分もうここにいなかった。でもその時は分からなくて、あの人はすぐやられちゃって、ありがとうともいえなかった」
嗚咽混じりに何とか言い切って、収まらない涙を千夏は一生懸命に拭き取る。セリーズスは、千夏の背を撫でながら一度瞠目する。千夏の言葉を、心の中で反芻する様に。
「あの子は、最後のその時に人を救ったのね。ありがとう、生きていてくれて」
お礼を言われたことに驚いて、思わず顔を上げた千夏の目に入ったのは、潤んだ瞳で誇らしげに微笑むセリーズスの顔だった。




