九話 迷天②
「迷宮化……!? この街、全体が!?」
体を突き抜けた嫌な気配。それは、この街が『迷宮』に変容した際のものだった。事態を把握したレインが立ち上がり叫ぶ。その後すぐ何かに気付いて慌ただしく外へ向かおうとする。ガラハッドがそれを止めようとするが
「まて! レイン! 落ち着け!」
「ガラハッドさん! レベッカが……! まだ外に!」
焦った声でそう言っているのを聞いて、千夏もレベッカが一度家に戻った事を思い出す。そして、食料を手にその後またこの家を目指す事を。
「ぐっ……! 仕方ない、シキ! クロサキ! お前達も行くぞ! 何が起こるか、分からないからな!」
ガラハッドの言葉に千夏と黒崎は顔を見合わせ、一度頷きあってから後に続く。そしてレインが扉を開けるも、外は迷宮化以前と何も変わらない景色。
「何か、変わったか?」
「分かりませんね」
この街に住んでいた二人が言うのなら間違いないのだろう。千夏と黒崎は黙ったまま二人の後をついて行く。
「おい! 一体、何が起こったんだ!」
「俺達も調査中だ」
キッパリと即答するガラハッドに、不満を隠さない街人。
「調査中……!? 何を悠長な事を!」
「そうだぞ! 迷宮ギルドは何してる!」
「俺達どうなっちまうんだ!?」
声を荒げる街人に、それに便乗して詰め寄ってくる他の人間達。進路を妨害する彼らに苛立ちを隠さず舌打ちをして、ガラハッドは太い腕で彼らを押し退けた。
ところでガラハッドよりも怒っている人間がこの場にはいた。黒崎だ。吊り目を更に鋭くさせて、千夏の横で歯を食い縛り拳を強く握っている。
ガラハッドに押し退けられた街人が、そのことに怒って彼に掴みかかった。その瞬間、千夏は黒崎の頭からブチッと何かが切れた音を聞いた……ような気がした。
『巨攻ッ!』
半透明な巨人の拳が誰もいない地面を砕いた。轟音に周囲の者が呆気に取られ、ガラハッドの胸ぐらを掴んでいた街人も狼狽えてその手を離す。
「く、黒崎っ! や、やめなよっ」
「どいつもこいつも邪魔だッ! ブッ殺すぞ!」
顔を真っ赤にして吠える黒崎を、レインがすかさず脇に抱え込む。
「走ろう!」
このままでは黒崎を発端とした乱闘騒ぎが起きかねない。そう判断した面々は慌ててその場から走り去る。
ちなみに千夏の足は短く、とてもではないが大人の脚力には敵わないので、すぐにガラハッドに抱えられた。
「お前は短気すぎる。ちょっと落ち着け」
「アァッ?! 人に文句ばっかりのアイツらが悪りぃだろうがっ!」
「黒崎ぃ〜気持ちはわかるけど手は出さないでね?」
可愛らしい垂れ目顔に困った表情を浮かべ、目の前で両手を合わせて懇願する千夏を見て、毒気が抜かれた黒崎は一度ため息を吐いて舌打ちをする。
とはいえ機嫌がすぐ戻ることはないのか、口を閉じてむすっとしている。
「ほら、今はすごい可愛い顔してるんだからニコッとしてなよ。ニコッと」
自分の頬を指で持ち上げながら千夏が言うと、複雑そうな顔を浮かべて黒崎はまたため息を吐く。辺りをキョロキョロとしていたレインが、何かを見つけて「あっ」と声を上げる。
視線の先には、不安そうな顔を浮かべながら歩くレベッカの姿が。手には食べ物が入っているのか、蔦で編んだようなバスケットを握っている。
「あ、ほらレベッカさんだよ」
千夏が黒崎の肩を叩きながらレベッカの方を指差した時、ちょうど彼女もこちらに気付いて手を振った。千夏が手を振り返し、その場にいる全員が彼女の無事を確認してどこかほっとした気持ちで顔を綻ばせる。
だが、レベッカが通り過ぎた建物と建物の間の路地から何かが飛び出した。それは人の姿だったが、一目で異常な姿をしていた。頭部の半分が陥没している。
『雷!』
頭部を陥没させた人間が、虚な瞳でレベッカを背後から襲おうとする。それにいち早く反応したレインが呪文を叫んだ。宙を駆けた火花が彼女を襲おうとした人間の顔に当たって弾け、その身体を大きくのけ反らせる。
「きゃあっ!」
突如顔の横を火花が通り過ぎた事に驚き、その後聞こえた不快な音に思わずレベッカは耳を塞いで手に持ったバスケットを離す。それが地面に落ちるよりも早く、レインとガラハッドが地面を蹴って走り出していた。
「レイン! お前は二人を!」
ガラハッドが少し振り向いてそう叫び、レベッカの後ろで体勢を整えている……探索者のような服装の男だ。その男に向けて拳を振るう。
正確に顔面を捉えたガラハッドの拳は男の身体を吹き飛ばした。地面を滑るその男の顔や服装を見て、一瞬ガラハッドは顔をギョッとさせ、しかしすぐに表情を戻して腰からナイフを抜く。千夏から見ればもはや剣のようなサイズの大振りなナイフを、振りかぶりながらガラハッドは叫ぶ。
『氷牙!』
ナイフの刃を覆い、刀身を伸ばすように氷が伸びる。それを男の腹に突き立てて、そのまま地面に突き刺す。ポキッと氷を折って、ガラハッドはすぐに千夏達の方を確認した。
ガラハッドの指示通り、レインは立ち止まって千夏や黒崎の側に立っていた。しかし、レインもガラハッドが今倒した人物に覚えがあるのか顔を青褪めさせてこちらを見ていた。
その後方、千夏と黒崎の横の路地から何かが飛び出した。女だ。しかしそれが誰なのかすぐに思い至ったガラハッドは慌てて声を荒げる。
「レイン! 横だ!」
女の足取りは、おかしかった。足が折れているのか不自然な歩き方なのだ。だが、無事な方の足でしっかりと地面を踏み、飛ぶ。その先にはポカンと呆けている千夏が居た。
『巨攻!』
レインは遅れた、ガラハッドの言葉に視線を移したときには既に女は千夏に飛び掛かっていた。だがいち早く気付いた黒崎が横凪ぎに腕を振るい、現れた巨人の腕が女の体を薙ぎ払う。
壁に叩きつけられた女は、しかし全く狼狽える事なく立ち上がる。ゴキゴキと異様な音を立てて、折れていた足が治っていく。
ガラハッドの後方からも異音がした。彼が先程倒した男の方へ振り返ると、腹に刺さった氷の柱を抜きとり起き上がる男の姿が。頭部の陥没が、まるで逆側から押し込んだように膨らんで再生していく。その顔をしっかりと見て、やはりそうかとガラハッドは顔を引き攣らせた。
「四季! 躊躇うな! 化け物だ!」
「え、えっ!」
一方、黒崎は足の治っていく女を見てすぐに走り出し、拳を大きく後ろに振りかぶる。地面をしっかりと踏みしめ、全力でその拳を振るう。
『巨攻ォ!』
轟音と共に、巨人の拳が女の体ごと背後にあった建物を粉砕した。確かな手応えと共に、崩れ落ちる瓦礫を見つめて黒崎は言った。
「やったか……!?」
「それフラグっ!」
思わず突っ込んでしまった千夏に飛びかかられて、黒崎は地面に二人して倒れ込んでしまう。何をしやがると叫ぼうとして、すぐに風切り音が耳を過ぎていった。
「黒崎、『呪文』だ! また来るぞ!」
『風刃』
『叛逆剣!』
千夏の声と共に、潰れた声が何処かから微かに聞こえた。瓦礫の山から生まれた砂埃が風で揺らぐ。黒崎が見えたのはそれだけだった。千夏が手を伸ばし、呪文を叫ぶと同時、不可視の斬撃が『叛逆剣』の発動波に衝突する。
『雷弾!』
千夏の叛逆剣に掻き消された不可視の斬撃、その発生源に向けてレインの雷撃が飛ぶ。砂埃を吹き飛ばし、雷は中に隠れていた者を焼く。
そこでようやく見えたのは、潰れてぐちゃぐちゃになった身体を異音を立てながら再生させる女の姿。
「ヒョェっ」
千夏は、そのあまりにも凄惨な姿を見て喉を干上がらせた。そしてその恐怖を振り払う様に手に握る大剣を投げつける。
尾を引きながら大剣は女の身体に突き刺さり、一度明滅して爆発する。内側から粉々に吹き飛ばされた女の血肉が周囲を汚し、千夏は自分がやったことながら少し引いてしまい腰を抜かせて地面に座り込んだ。
だが、女が立っていた場所に肉の破片が吸い込まれていく。血や肉や骨が、粉々になったそれすら集まって人の形を為していく。
やがて形成されたのは、全裸の女性……先程から千夏達を襲おうとしていた人間の、傷一つない綺麗な姿だった。開いた瞳は虚で、とてもではないが正気とは思えない。
女性の全裸に対して、恥ずかしさよりも恐怖を覚えた千夏は後退る。どうやら他の面々もその様で、レインも黒崎も顔をこわばらせていた。
「レイン! 二人を連れて逃げろ!」
硬直する三人に、ガラハッドが遠くから声を掛ける。彼は脇にレベッカを構え、最初に襲ってきた男から逃げていた。
どうやら向こうの男も、どれだけダメージを与えても回復されている様で、男の服は無残な姿になっているのに包まれた身体は綺麗だった。
レインは即座に千夏と黒崎を抱え込み、走り出す。街のどこかから悲鳴が聞こえてきた。恐怖に駆られたその声は、一つだけでなく至る所から聞こえてくる。
「まさか……『全員』か!?」
二人を抱えたレインは自分の予想した街の現況にゾッとする。彼の様子を見て、黒崎が叫ぶ。
「一体何だアイツは! お前の知り合いか!?」
黒崎の問いに、レインは顔を青褪めさせたまま、まだ信じられないと言いたげの声で答える。
「あれは……この前の件で、死んでしまった探索者パーティーのメンバーだ」
千夏は、その言葉を聞いてすぐに意味を理解できなかった。だが、少し頭の中で整理をして、上げた視線の先に立つ『女性』を見て、ようやく全てを理解した。
「レインさん! 止まって!」
千夏の言葉と、自分達の走る先にいる人物を見てレインは急停止する。その瞬間に千夏はレインの手を振り払い、地面に降り立った。そしてすぐに腕を伸ばす。
『嵐槍』
進行方向の前に立つ女性……セリーズスのかざした手の先で空気が歪む。その歪みは吹き荒れる風だ。風は渦巻いて槍の形をとる。そしてその様子が視認できた時には既に、こちらに向かって槍は飛来していた。
『叛逆剣!』
竜巻の槍は千夏の叛逆剣によって爆音と共に四散する。しかし千夏が光の大剣を握る時、既にセリーズスは次の手を打っていた。
『炎波』
『巨攻!』
セリーズスの手から放たれた大きな火炎が千夏を襲う、その炎が千夏を焼く前に巨人の手が千夏の身体を横から拾い上げた。そのまま炎は後方にいるレインと黒崎に向かうが、二人は左右に飛んでそれを躱す。
巨人の手が消えて、空中に投げ出された千夏はセリーズスの動きを見ていた。彼女の両手が宙を包む様な動き、合わせて唇が動く。
千夏の背を、虫が這い回るような悪寒が走った。この世界に来て何度も味わってきた『嫌な予感』。咄嗟に大剣を投擲する。しかし、セリーズスはそれを一瞥し、最小限の動きで躱す。地面に大剣が突き刺さり、セリーズスが呪文を紡ぐ。
『空縛握』
ゴン! と、頭が揺さぶられるような衝撃で千夏の視界が揺れた。一瞬意識を持っていかれた千夏が正気を取り戻した時、セリーズスを中心に千夏、黒崎、レインが彼女の手に届く範囲で浮いていた。
浮いているというよりは、急激にセリーズスへ向かって引き寄せられたのだ。その際の衝撃で持っていかれた意識が戻った時には既に、セリーズスの至近距離に三人は集められていた。
そして、引き寄せられた身体は今なお慣性の中にあり、宙に浮いた状態なのもあって崩れた姿勢を戻すことは出来ない。
セリーズスの口が開く。不安定な姿勢の三人に、追い討ちをかける呪文だろう。
『巨攻!』
セリーズスが呪文を唱えるよりも早く、黒崎の蹴りが彼女を襲う。巨人の足はセリーズスの老体を捉えたかに見えた、しかし彼女の身体を一歩も退かせることもなく消滅する。
「っ! なにっ?!」
もちろん黒崎には知るよしもないことだが、呪文『空縛握』は周囲の空気を使用者に向けて圧縮する呪文だ。それによって生じた空気の塊は、超高密度の空気の壁となって使用者を守る。
そして対となる『呪文』によって、それは強力な爆弾として周囲を破壊する。
『空ば』
突如、セリーズスの足元の地面が砕けた。
側に突き刺さっていた『叛逆剣』の大剣が、刃を破裂させたのだ。その衝撃によって大剣を中心に地面が崩壊し、それに足を取られたセリーズスの呪文は一度途切れるが、彼女はすぐに唱え直す。
『空爆衝』
だが呪文が途切れたことによって生まれた一瞬の隙、千夏、黒崎、レインが同時に叫ぶ。
『叛逆剣ッ!』
『雷鳴衝!』
『巨攻ッ』
セリーズスの周囲に纏われていた圧縮空気が赤熱する。
同時にレインの眼前から莫大な雷が溢れる。そしてそれを押し込むように千夏の手から衝撃波が放たれた。
赤熱した空気が爆ぜる。音を置き去りにして、セリーズスを中心に四方が吹き飛んだ。周囲にあった建物は向こうの通りにまで至って跡形もなく、彼女を中心にクレーターを残すのみ。
しかし円の一角、巨大な両手に覆われた箇所。その後方だけが無事に形を残していた。
巨攻の両手が消えた後、千夏はバクバクと強く脈動する心臓を抑え、大剣を強く握る。横のレインと黒崎も無事で、しかし先程の窮地に二人とも顔から汗を垂れ流していた。
「セリーズスさんの、必殺呪文だ……! だが、彼女はあれに指向性を持たせて使っていた、そう使われたら多分終わってたけど、してこないってことは本人程の実力はないってことになる! と思いたい!」
口早にレインが言って、対してセリーズスへ拳を構えた黒崎が叫ぶ。
「何発も防げねぇぞ!」
「あれは一発しか……! いや、今のあの人に回数制限あるのか……?」
『嵐刃』
ゆっくりと話す間も与えてもらえず放たれるセリーズスの呪文。地面を割るような何かが空気を歪めながら千夏達を襲う。それは、つい先程見た『風刃』よりも強力な風の斬撃だ。しかし強力になった分、視認しやすくなったそれを三人は慌てながらも危なげなく躱す。
風の刃に分断されるように、千夏以外の他の二人は逆に飛んだ。二人から離れて、孤立した千夏をセリーズスの虚な瞳が捉える。
(呪文が、くる!)
咄嗟にそう判断した千夏は、大剣の刃を輝かせる。刃を消費して、どこに回避すべきか。だが千夏自身がセリーズスの『手札』を把握していない。『手札』とは『呪文』であり、ここにきて間もない千夏にはそもそも知らない『呪文』が多すぎる。
つまり、次にセリーズスが撃ってくる呪文は回避できる類のものなのか分からない。ならばと、頭の中でそれらの判断材料を言葉にするよりも早く千夏は覚悟した。
叛逆剣の刃が爆ぜる。光の尾を引いて、千夏の身体は急加速してセリーズスに迫る。千夏が選んだのは、自身から攻めるという一手だった。加速状態のまま、剣を振るえば彼女が呪文を唱えるよりも早く斬れる。千夏の選択は正しかった。
セリーズスとの間合いを詰めた千夏が剣を振りかぶる。
『あの子は、最後のその時に人を救ったのね。ありがとう、生きていてくれて』
ふと脳裏に、セリーズスの哀しげに微笑む顔がよぎった。
今、剣を振るえば彼女の身体を捉えられる。セリーズスの顔、目は虚で顔色は白く、まるで生気のない……それは記憶のものと大きくかけ離れている。そう、記憶の面影など感じられない。
「あっ」
なのに、千夏は彼女を前にして剣を振るえなかった。情けない声を出すだけで、剣を握った手から力が抜ける。
『そうだ。婆さんは、殺せなかった』
次によぎったのはガラハッドの言葉だ。
そして、無防備な千夏へセリーズスの呪文は放たれる。




