表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/2

後編

 次の朝、眠れていないような気分で真紀は高校へ行った。天気はそれほど悪くはないのに、自分の心には曇っているように感じる。


「いったい……どうしたの?」


 疲れ切って元気のない顔を見て、あやかは心配した。


「夜更かししちゃった。好きなラジオをずっと聞いてたら遅くなっちゃって」


 あやかは下手な嘘に気が付かなかった。それどころか、缶コーヒーを買ってきてくれて、ますます悪いことをした気分になった。


 今日も、栗田はギターを担いで学校に来ていた。昨日の過ちを思い出してしまい、まともに見ることはできない。ずっと顔をそむけたまま、真紀は一日を過ごした。


 最後の授業のチャイムが鳴った。


 生徒たちがいそいそと教室を出る中、真紀はある言葉を聞き取った。


「先帰ってろよ。今日は一人で練習するから」


「分かった。じゃあな」


 最初の声は栗田だ。どうやら彼は一人でギターの練習か何かをするらしい。


 好都合だ、と真紀は瞬時に思った。栗田が一人になるところを狙って謝りに行きたいと思っていたが、彼はいつも友人に囲まれていてめったに一人でいる場所を捕まえられない。

それが偶然にも真紀の手に転がり込んできていた。


 横目で栗田が教室を出ていくのを確認する。すぐに後をつけるのはまずい。他の人にも見られてしまうかもしれないからだ。


 あやかに用事があるからとことわると、彼女も今日はやるべきことがあるらしい。問題なくあやかとも別れることができて、ほっとする。


 栗田が教室を出てからしばらく時間をおいて、ようやく腰を上げた真紀は音楽室まで急いだ。


 だが、音楽室は吹奏楽部の練習場所だった。トランペットやクラリネットがチューニングをするにぎやかな音が聞こえるが、ギターの音は聞こえない。


 真紀は面食らってしまった。てっきり栗田がギターの練習をする場所は音楽室だと決めつけていたからだ。ちょっと考えてみれば、音楽室は吹奏楽部の部室だってことは明らかだったのに。


 では栗田はどこに行ったのだろう?


 不安になってきた。

 栗田は学校で練習するとは言っていなかった。ふと頭に別の考えが思い浮かんだ。もしかすると近くに音楽スタジオがあり、そこで練習しているのかもしれない。


 真紀は学校を当てもなくさまよい始めた。三階に上がり一階に下り、再び三階へ戻ったとき、ギターの音が聞こえた。三つ先の教室だ。


 真紀の心の中で二つの感情が衝突した。


 栗田が学校にいてくれてうれしく思う気持ち、もう一つは栗田に会いたくないと思う気持ち。


 行きたい、でも行きたくない。謝りたい、でも謝りたくない。


 真紀は壁に手を置いてのろのろと進んだ。心臓の音がはっきりと聞こえ、肩はこわばり、手先の震えを感じる。


 謝らなくたっていい、と思った。謝らなくても、栗田と仲が良いわけではないし、話すこともないから問題なく過ごせるだろう。一週間くらいは気にするかもしれないが、きっとお互いに忘れてしまうだろう。


 そのとき、ギターが奏でているのはランダムな音の集まりでないことに気が付いた。ゆっくりなスピードでところどころつまずいてはいるが、確かにこの曲を知っている。


「……レイラ」


 レイラの印象的なイントロを、栗田は弾いているのだ。


 それを知ったとき、お世辞にも上手いとは言えない演奏だったのに、真紀は思わず聞き入ってしまった。


 レイラはどの曲よりも素晴らしいと真紀は思う。イントロのギターリフで心をぐっと掴まれ、曲に容赦なく引きずり込まれる。緊張が張り詰め、音が積み上がり、そしてエリック・クラプトンの影のあるヴォーカルが始まる。ものすごい勢いと力を感じる前半に対し、曲後半はピアノの柔らかい響きにほっと息を付き、美しいメロディに身をゆだねる。緊張感と解放がこの名曲を作り上げているのだ。


 部屋に一歩ずつ近づくごとに音はだんだんと明瞭になった。弾いている男子生徒の後ろ姿も見える。


 ギターの音が止まった。


 彼はこちらを見て、片手をあげた。昨日と同じような挨拶だ。


 真紀は急にのぞき見していたことが恥ずかしくなった。


「別に、見ようと思ったわけじゃないんだけど、」真紀は下手な言い訳をした。「たまたま、通りかかっただけ」


 教室に入り、椅子を引っ張ってきて栗田の横に座ると、ゆっくりと言うべき言葉を思い出そうとした。

 そうだ、謝ろうと思ったんだ。


 真紀は膝に乗せた両手を見つめた。体全体が石になったように重い。なかなか口は動かないし、手には妙な熱がこもっている。


「昨日の、ことだけど」


 見なくても、栗田の肩がこわばったのが分かった。やはり気にしているのだ。


「ほんとうに、ごめん。悪いこと言っちゃったと思う」


「悪いこと? 真紀ちゃんは別に悪いことなんて言ってない」


「わたしが、栗田くんを馬鹿にしたみたいなこと言ったでしょう? その、何も知らないのにギターやってる、とかって」


 栗田は肩をすくめた。


「悪いこと言われたなんて思ってないよ。それよりも…」


「でもさ」


「こっちが気にしてないんだから、謝る必要なんかない」


「わたしは悪いって思ってるの。いきなり怒り出して、言いたいことだけ言って帰るなんて、本当に馬鹿だった。ごめんなさい」


 二人とも何も言わなかった。どきどきしながら真紀は返事を待った。どんな言葉でも、彼女は耐えるつもりだった。


 しばらくして栗田が沈黙を破った。


「それよりも、おれも悪かったんだ」


「え?」


 突然のことに、やっと真紀がまともに栗田を見た。彼は真剣だった。


「ロックが好きなことが意外だったって。そんなこと言われたら傷つくよな、自分が好きなものなのに否定されてさ。おれって思ったことすぐに口に出す癖があって、いつも直さないとって思っているのに」


「待って、栗田くんは別に悪くない。何も気にしてないって」


 そう言ってから、先ほどまでと立場が逆になってしまっていることに気が付いた。なぜか、それが面白くなって、真紀はかすかに笑ってしまった。つられて、栗田も微笑んだ。


「真紀ちゃんがここに来るから、責められるのかなって思ってた。なんだ、二人とも悪かったって思ってたのか。

「それに、悪いことばっかりじゃない。真紀ちゃんとあの店で会えて良かったと思うんだ。そうじゃなかったら、この曲だって知らなかった」


 栗田はギターのネックをそっとなでた。


「エリック・クラプトンって名前は知ってた。イギリスのすごいギタリストだろ? なんとなく敷居が高いように感じたんだ。ああいうのはおれみたいな子どもじゃなくて大人が聴くもの、みたいな。だからどんどん後回しにしていった。でも、真紀ちゃんが好きならば、おれだって聴きたいって思った」


「ギターが同じだったから、弾いて欲しかったんだと思う」


 栗田ははっとした表情をした。


「ギターの形、見てたんだ」


「ロック好きとして見なきゃ気が済まないの。どんなモデルで、誰が使ってたとか」


「なんだろう、ちょっと嬉しい」


 照れ隠しのためか、栗田は簡単な曲を披露した。


 それを見て真紀は思った。彼も音楽が好きなのだ。自分とは違う方向かもしれないけれど、やっぱり音楽が好きなのだ。


「ちょっと気になってたんだけど、真紀ちゃんはレコード好きなの?」


「うん」


 すこし緊張して答える。


「CDなんかとは違うことがあるんだろうなあ」


「音が柔らかい気がする、なんとなくだけど」


 真紀がためらいがちに話すのを、栗田は辛抱強く聞いていた。彼は会話上手だった。話が終わりそうになる瞬間に質問したり、興味を示したり、相槌をうったり。おかげで真紀はこれ以上にないほどリラックスして話していた。


 最初はお父さんの趣味だったけど、自分も集めたくなった。レコード盤に針を落とす瞬間が好き。準備が面倒? 全然。ちょっと時間がかかるけど、これから音楽を聴くんだっていうメリハリになると思う。もちろん、音楽プレイヤーでも聴くよ、レコードは持ち歩けないから。スピーカーは少し良いのを持っている、誕生日プレゼントだった……。


 そんなことを自然にべらべらと喋っていた。


「変でしょ?」真紀は思い切って訊いた。「女子が古臭いロック聞いて、レコードを集めてるなんて」


「いいや、かっこいい。ずっと、真紀ちゃんのことはおとなしい子だと思ってたのに、かっこいいなんて知らなかった」


 かっこいい。

 そんなことを言われるなんて思いもしなかった。

 いつでも「変だ」と言われることばかり考えていた。だから隠そうとしていた。それが原因で、真紀の心にはいつも重石が置いてあるようだったのだ。


 その重石が、ようやく取り除かれようとしていた。


 暖かい気持ちだった。もう少しで舞い上がってしまいそうだ。


「で、どう?」


 ぼうっとしていた真紀は何を尋ねられているのか分からなかった。


「どう、って何が?」


「曲だよ。レイラ、真紀ちゃんのお気に入りなんだろ? きっと聞きたいだろうなって、昨日家帰ってから動画見て練習してたんだ」


 真紀は頬が熱を持つのを感じて、顔をそむけた。


 レイラを弾いてくれたのは嬉しい、練習してくれているなんて思いもしなかった。

 だが、口に出した言葉は別だった。


「……初めてにしては、上手いんじゃない? 完璧ではないけど」


「これからもがんばれ、って意味?」


「そんなこと言ってない!」


 むきになって反論すると、栗田は屈託のない笑みを浮かべた。どきっとするような、きれいな笑顔だ。何一つとして相手を馬鹿にしているような様子がなく、心からの喜びに満ち溢れている。


 これこそ栗田だ。わたしの……嫌いな。


「完璧に弾けたら、ギタリストに認めてくれるんだろ。それまで頑張るさ」


 そんなつもりで言ったわけではないのに、と真紀は思った。


 妙に居心地が悪くなって、真紀は立ち上がった。

 後ろ髪をひかれる思いをしたが、もう真紀がここにいる理由はないのだ。これ以上、彼女が栗田とかかわることはないのだから。これまでと同じように二人は過ごすだろう。一緒の教室にいても、まるで違う世界にいるように。


「もう帰るね。練習頑張ってね」


「真紀ちゃん」


 彼は素早く引き留めると、真紀はそれを待っていたかのように振り向いた。


「何?」


 真紀が首を少し傾ける。


「好きな音楽を教えてくれたら、うれしいんだけど、どうかな? 俺だっていろいろ知るべきだと思うんだ、その……、ギタリストとして」


「いいよ」


 するりと口から答えが流れた。


「ギター、ちゃんと弾いてくれるのなら」





 家に帰ると、ベッドに横たわり、ふうっと息を吐いた。


 頭の中でいろいろな曲があふれ出す。どれもギターの印象的な曲だ。


「次はどれを弾いてもらおうかな」


 自然に口元がゆるむ。


 音楽について話せる相手が欲しいと思ったことはいつでもあった。あやかは友人の趣味を知っているだけで語り合う相手ではない。本当は、好きな曲やアルバムやアーティストについて話し、感想を聞きたい。


 それが栗田になるとは一度だって思っていなかった。

 でもうれしくてしょうがない。




 嫌いという感情が、たった一つの出来事で真逆になってしまうことがある。


 例えば、真紀がレイラを弾く栗田の姿を見たとき。それは今まで作り上げていた栗田の印象を揺らがせ、新しい印象を持たせるほどに強烈な光景だった。彼は思っていたほど軽薄でうるさいやつではなく、真面目で、思いやりがあり前向きな人物だった。もはや、栗田を過去のように見ることはできないだろう。


 真紀自身はまだそれに気が付いていない。いまだに「嫌いな栗田」のままであり、嫌いな相手だけど妥協して付き合ってやっている、と思っている。


 だが、それが変わり始めるには時間はかからない。


 真紀のスマートフォンが振動した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ