後悔
ヒギンズ教授は、駅前の喫茶店『ワルツ』に先に到着していた。ネイビーブラックのトレンチコートが、細身でしなやかな体躯によく似合っている。
十分前に到着するようにと考え、余裕を持ち自宅を出発するのだが、いつも教授を待たせることになってしまう。
私の姿を見付けると、彼は片手を挙げ穏やかに笑った。パリッとした服装と端麗な容姿の中にも優しい雰囲気は残っていた。長年付き合った友人に向けるような、親し気な眼差しを私に向けている。ずいぶん慣れたが、反射的にまだ少し胸が高鳴る。だが、私に時間を割いてくれる教授と有意義な話をしたいと思った。
さぁ行きましょうと、教授はさり気なく私をエスコートし店内に入る。
「久しぶりになりましたね、真由美さん」
私が席に着くと、教授はコートを脱ぎ店の入り口に近い席に腰掛けながら言った。
「そうですね、ずいぶん直接お顔を拝見していない気がします。日々の生活が充実し、楽しい時間を過ごしていました。悩みもありますが、なんとか切り抜けられる部分は生意気ですが自分で乗り越えたかったんです」
私は、教授にとても感謝していた。優輔と再会し言葉を重ね、会う機会を増やし関係を深めることで、過去から消したいほどの手痛い失恋から立ち直りつつあった。それは教授に直接指導され、また失敗し学んだことにより、以前は見えなかったことに気付けるようになったことが理由だ。
「僕の元から貴女が、自立していくのは淋しいですが嬉しいことなんですね」
どこか他人事のように彼は言った。まだ、教えてほしいことがたくさんあります、そう言いかけ飲み込んだ。言いたくても言うべきじゃない。
「私は出会った頃から、教授の目からみて成長出来ていますか?」
橘さんの出現は、育ちつつあった自分を受け入れてくれる人がいるという喜び、今の私でも大丈夫だという小さな自信を根本から波立たせた。教授の顔を見つめ返答を待つ。私は弱いな。
「ええ、もちろん。若さは眩しくそれだけで魅力でしょうが、真由美さんが悩んできた日々、貴女を形作ってきたものはなくなったりしません」
彼の言葉は、私の心の奥の柔らかい部分にカチッと嵌った。教授はどうして生徒の欲しい言葉がわかるのだろう。
「ありがとうございます。無意識に彼女と自分を比較していたのかもしれません」
「比較すること自体は悪いことでもないです。ただ、忘れないでください。人それぞれに魅力があるんです」
ヒギンズ教授は、私の目を薄茶色の瞳で瞬きもせず見つめた。彼の言葉は当たり前のことで難しくない。ただそれを常に意識できるかといえば、とたんに困難になる。もっと強い心を持ちたい。もちろん自分の幸せのためだ。でもそれと同じくらい、いつも私を導いてくれる教授に恩返しをするために賢く強くなりたかった。
「真由美さんは、優輔さんのことが大切ですか?」
教授が真剣に訊ねてきた。
「大切です」
私は迷わずに答えた。優輔との沢山の優しい思い出。それが、感情を豊かにしてくれた。真剣に、残念な私を好きになってくれた人。優輔が大切だから、見合い相手の橘さんが気になるのだ。
「答えられたらでかまいません。失礼な質問をします。それは、恋愛感情を伴っているかわかりますか?」
彼は、私自身が回答を出せていない問題に切り込んできた。
「わからないです」
それだけを返答する。
「自分の心をよく見つめて、後悔がないようにしてほしいのです」
懇願するように教授は言う。その声音から、苦しさと切なさのようなものを感じた。『教授は何かを後悔しているのですか?』 聞きたかった。私は狡いな、もう答えはわかっているのに。彼の本音を感じとれるくらいには、付き合いも長くなり深くなったのだ。
そのときなぜか橘さんの切羽詰まった表情が脳裏に浮かんだ。きっと近いうちに、私は優輔への気持ちに答えをださなければならないんだろう。
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