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腕時計が止まるとき

一苦労。どっこいしょ。

 岡本さんの恋の話を聴いて、純粋だなと思うと同時に、自分の心が何処にあるのかを見つめるきっかけになった。

 手帳の余白の中心に頼りない私の姿のイラスト。周りに優輔と織部君を描く。織部君の横には、岡本さんがきらきらした様子で佇んでいる。はてさて私の恋心はどちらを向いているのだろう。織部君は気の置けない友人で自然体で色々な話をすることが出来る。

 優輔とも友達関係を改めて築いて好きな本の話で盛り上がったり、古いフランス映画を見に小さな映画館に足をのばしたりした。感動を共有出来る貴重な友人だ。

 

 私は生きていることが楽しい。様々な人々の間で自分から幸せを感じようとしている。思えば幸せに対してずいぶん貪欲になったものだ。いつの頃からだっただろう?

『ヒギンズ教授、貴方のお陰で私はこんなに変われましたよ』

 しみじみと思う。そして感謝の気持ちでいっぱいになった。

 そのときふと、教授は今幸せなのだろうか? と心配する気持ちになる。振り返ってみると、私は教授に寄りかかってばかりの情けない奴だった。

 人間ですらないと言っていた教授。もしかしたら、疎外感と孤独を感じながらずっとこの世界を漂っていたのかもしれない存在。

 初めて教授の立場に思いが至る。自分が幸せになってから、やっとなんて恩知らずな話だと、罪悪感に胸が締め付けられる。

 献身的に私のことを支えて、ときに自分を押し殺していたようにも思える桂司という男性のことが今私は気になって仕方がなかった。

 

 ホテルで突き放されたこと、苦いキスの味が蘇る。あの頃の私はヒギンズ教授の洗練された振る舞いや装った優しさに惹かれていただけに過ぎないことをはっきりと自覚する。

 年をいたずらに重ねただけのなんと愚かな私だったんだろう。自然に涙が零れてくる。それは自分の為に流すものでなく、大切なかけがえない者の為に流したものだった。

 その時、はかったようにスマートフォンが鳴った。この着信音は教授からの連絡だ。私は急いで涙を拭いて、一杯の水で喉を潤す。電話に出ると、

「真由美さん、こんばんは。私の予言も外れることがあるようで、びっくりしました」

 感情の読めないバリトンが響く。出会ったとき、最初からヒギンズ教授は私に本心を晒したことなんてなかったんだ。そんなこともわかっていなかったおめでたい自分に反吐が出そうになる。

「教授、ごめんなさい。私酷い生徒でしたね」

 口を開くと、教授は穏やかに

「藪から棒にどうしたのですか?」

 優しい声を出す。

「ヒギンズ教授、私幸せなんです。先生のレッスンのお陰でまた幸せを感じることが出来るようになったんです」

「いつかこんな日が来ることはわかっていました。僕は喜ばないといけないね」

「そうですね。思い起こすと、教授に頼りっきりだったレッスンは楽しくて思い出すと切ないです……。一つ伺います。もう私と教授に残されている時間は少ないんじゃありませんか?」

「真由美さんはやはり油断ならない女性だ」

 そう答えると教授は愉快そうに笑ったのだ。

「私、悔しいです。やっと教授に少しだけ近付けたのに」

「卒業はもうすぐです。じき、僕の腕時計が止まるでしょう、それが合図です」

 感情の読めない言葉。それでも、桂さんが人間に戻れるのなら残りの日々を精いっぱい彼の為に使いたいと思うのだった。

 そして結末がどうであれ、自分の心と可能性から逃げないと誓った。

読んで下さってありがとうございます。

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