下の名前
「はい、淑女養成コーディネータ桂司です」
心地よいバリトンに、思わずうっとりしてしまう。『いかんいかん』気を取り直し用件を伝える。
「先日交差点で名刺を貰った者です。私、自分を変えたいんです。それを貴方に手伝ってほしいんです。思い切って連絡しました」
声が震える。私はとんでもない詐欺師に引っ掛かったのかもしれない。不安でいっぱいになりながら、桂さんの言葉を待つ。
「貴女でしたか。連絡を待っていました。僕のことを頼ってくださりとても嬉しいです。貴女のことは何とお呼びしたらいいでしょうか?」
「矢野と呼んで下さい」
「矢野さん、もしよろしければ、下の名前を教えて下さいませんか?」
桂さんがさらっとたずねた。
「真由美です」
電話口で耳まで赤くなりながら私は答えていた。なんでこんなに動揺しているのか、自分でもわからなかった。
桂さんとは、これからの詳しい話をするために今度の日曜、喫茶店で会うことになった。
私は自転車の重いペダルをこぎ、坂道をのぼりスーパーに向かう。今日は仕事が休みだ。休みの日くらい自炊しなければ! 特売品のブリのあらと新鮮な大根を買い『ブリ大根』を作ろうと計画する。料理は面倒さもあるが、作り出すと楽しい。なにより買ったものより美味しい気がする。自分のための料理も、たまにはいいものだ。でも、一緒に食べてくれる人がいればなと思ってしまう。
帰宅すれば、相変わらずの寂しい空間が広がる。
『真由美のカレーが一番好きだよ』
そう言った彼は、もういない。西日は人をセンチメンタルにさせるらしい。涙がポトリと落ちた。私だって、辛かったんだ。気持ちが溢れる。
「絶対綺麗になってやる!」
十年以上前のCMのキャッチコピーを思い出し、唱えた。そしていそいそと『ブリ大根』作りにいそしんだ。
読んで下さりありがとうございます。少しでも筆力アップにつながると信じて。
 




