誰も読まない自叙伝
私は図書館の司書をしている。司書の仕事というのは閑職だと思っている人も多いようだが、思われているよりは仕事量が多い。ただ、残業はなく、定時に帰れるので、それは利点と言える。低収入ではあるが、安定した仕事と言えるだろう。
司書をして十四年の月日が過ぎていた。私は速やかに仕事に馴れ、以来ずっと司書として働いている。仕事は合っていたらしく、それほどストレスも感じない。確かに、変化のない毎日は退屈だが、私にとっては退屈さよりも安定が好みだった。
これから私が語るのはある老人の話だ。その老人というのは、司書をしていると年に一度くらい来るような、どちらかと言えば凡庸なタイプの人である。しかし、私には老人の姿が今も鮮やかに脳裏に残っている。それで、こうした文章を記す事にした。
春の暖かい日だった。その日はとりわけ利用者は少なく、蔵書の整理や本の返却などを簡単にこなす事ができた。そうした日は、とても気楽な気持ちで仕事ができた。ーー昼過ぎだったと思う。全身黒ずくめで、古ぼけた中折れ帽を被った老人が自動ドアを抜けてやってきたのは。私は老人を一目見るなり、どうやら普通の人物ではないらしい事に気付いた。その手の人物は歩き方、服装、表情などで容易に見て取れる。端的に言えば、常軌を逸した所、狂気というのがその仕草や歩き方、ぱっと見た印象に現れているのだ。とはいえ、そうした人物というのもそれほどに珍しいものではない。トラブルさえ起こさなければ問題ない。私は、老人に狂気の閃きを感じたが、すぐに目を離して、仕事の続きに取り掛かった。老人は館内に入ってくると、まっすぐこちらへ向かってきた。私の方に向かってきた。嫌な予感がした。
「おい、ここは図書館か?」
それが老人の第一声だった。今もはっきりと覚えている。私はぎこちない笑みを浮かべた。
「はい。ここは用神図書館です。何か、御用ですか?」
「すまんが…ここは図書館か?」
「…はい。ここは用神図書館です」
最初の会話からして既にカフカ的な雰囲気を兼ね備えていた。私は、面倒な人間が来たなと感じていた。
「本当に…本当に…ここは図書館か? 図書館であっているか?」
「ここは図書館です。間違いなく図書館ですよ」
存在論的会話を交わしていると、私としても本当にここが図書館なのか信じられなくなりそうだった。実は、ここは図書館ではないのかもしれない。何かもっと「別の場所」なのかもしれない。
しかし、老人は私がゲシュタルト崩壊に陥る前に、存在論的対話をやめてくれた。私はほっとした。老人は代わりに、懐からゴソゴソと何かを取り出した。それは分厚い単行本くらいの大きさで、白い紙で厳重に包まれていた。紐で執拗に巻かれている所などにも、偏執的な雰囲気が感じ取れた。
「これだ…」
老人は言いながら、紐をほどこうとする。私は老人の様子をじっと見ていた。これは面倒な事になるな、と考えていた。こういう老人に時間を取られて業務がはかどらない。賃労働の身分としては一番面倒なタイプだ。
老人は、固く結ばれた紐をほどこうとしていた。中は何なのか、見た目ではわからない。本にも見える。老人は紐をほどこうと奮闘していたが、なかなかほどけなかった。蔦のような紐がぐるぐるに巻き付けられていて、容易にはほどけそうにない。老人は「これが…」「ちょっと待ってくれ」「お、う…」などと独り言を言いながら紐を取り外そうとしていたが、ビクリともしない。私はしびれを切らして、声をかけた。
「どうかされましたか? 大丈夫ですか?」
「お、おお……お兄さん、ちょっと待ってくれ。今、これを…」
「それはなんですか?」
「おお、兄さん。待ってくれ。これを、今ほどこうと…」
老人はなおも紐をほどこうとしていた。これでは日没までかかりそうだと思い、デスクからハサミを取り出した。
「お客様、その紐をこのハサミでお切りしましょうか?」
私は(おそらく)スマートな提案をした。老人は顔を上げると、顔を輝かせた。
「お、おお…。そうしてくれ。頼む。その紐を切ってくれ!」
私は体を伸ばして、紐を切った。紐はバラバラになり、いくつか破片がこぼれ落ちた。まあ、後で拾えばいいだろう。手に持った紐を取り上げ、荷を返した。老人は急いで包みから中身を取り出した。それは立派な装丁の書物だった。黒い地の上に金文字でタイトルと名前が書かれていた。老人は嬉しそうに、本を押し付けてきた。私は困惑した。
「これは…何でしょうか?」
「兄さん、これだ。これをあんたに渡したかったんだ…」
意味がわからなかったので、老人に詳細を尋ねた。老人はつっかえながらも説明してくれた。
老人の説明では、本は彼の自叙伝であると言う。先日、自費出版で五百部ほど刷って、ようやく出来上がったそうだ。彼はそれをほうぼうの書店や図書館に持ち込んだのだが、どこも置いてくれなかったのだそうだ。老人には、流通に載せるほどの金はなかった。持ち込んだ原稿を刷って本にしてもらうのが精一杯だったのだと言う。
「兄さん、あんた…これをここに置いてくれんか? 金は取らん。只でいい。わしはわしの人生を、誰かに読んでもらいたいのだ。わしの人生ももうそれほど長くはない。そう悟ったからこそ、自叙伝を書いた。ここにはわしの人生が詰まっている。どうぞ、耄碌した爺の頼み事と思って、引き受けてくれんか? お前さんを話の分かる相手と見込んでの事だ。わしは死ぬ前に、自分自身の事をどうしても書き留めて置きたかったのだ。自分を言葉にして、誰かに託したかったのだ。この図書館は立派だ。ここに本を置いてくれれば、必ず誰かが借りて読んでくれる。そうすれば、わしが死んでも、わしの人生もまた誰かに伝わっていく…」
老人の切なる願いを私は冷静に聞き流していた。こういう、自分の本を図書館に持ち込む物知らずというのは年に一度くらいは現れる。もちろん、全て丁重にお断りしている。図書館の蔵書は全て、市で管理していて、私の権限でどうにかなるものではない。私は以前、出版社の人間と話した事があるが、やはりこうした人物はよく来るそうだ。そこで持ち込まれる原稿は大抵、定年退職した初老の人物の自伝であると言う。つまり、こうした老人は自分を非凡とみなしているだろうが、非常に凡庸であると言える。非情であるが、そうした自叙伝は誰も読まない。なにせ、関係のない誰かの自叙伝など誰も興味が無い。せいぜい、家族に配る事が関の山であろう。
老人の話をバックミュージックにしながら、私はパラパラと自叙伝をめくってみた。めくる内に、ある考えが思いついた。私はーー退屈していたのだ。日常に。自分自身に。無意識的なレベルで。後から考えるとそれがよく分かる。
「わかりました」
事務的な声を出した。老人は私の顔を見た。
「おっしゃりたい事はわかりました。ですが、私一人の権限では、この本を図書館に置く事はできません。司書には、そんな権利はないのです。ただ、私の方から上に掛け合ってみる事は可能です。少し…お話を窺ってよろしいですか?」
「本を置いてくれるのか?」
「いえ、まずお話を聞いてからです。質問しますので、それに答えてください。面接のようなものです。それで、私が上に掛け合うか決めます。それくらいの権限は私にもあります」
もちろん、私にそんな力はなかった。ただ、ふと思いついたのだった。
「それではあちらのソファへ座っていただけますか。私も行きますので」
「…わかった」
老人はおとなしく受付を離れてソファの所に行った。老人がソファに座るのを見届けると、奥で作業している同僚の元に行った。悪ふざけするには、ごまかしが必要だ。私は同僚に「今面倒なお客さんが来て、対応をするから少し離れます」と伝えた。同僚は困った顔をしたが「わかりました」と言ってくれた。私の言った事には嘘はなかった。嘘は言っていない。
受付を出て、ソファに向かった。老人は本を抱えてしょんぼり座っていた。その姿に、私は極めて貧しいものーー精神的にも物質的にもーーを見た。
「お待たせしました」
私は厳しい顔を作っていたが、内心は嘲笑っていた。ひどいものだ。
「それで、その本を寄贈して、図書の一冊として扱って欲しい…そのような用件でよろしいですね?」
「あ、ああ…」
改まって話すと、老人は怯えたような表情になった。私は気にしなかった。
「もう一度、本を見せてくれますか?」
老人は黙って本を差し出した。私は手に取り、中身をパラパラとめくった。
「これは…自費出版で出されたんですか?」
「そ、そうだ…KY出版で…」
「何部くらい刷られたんですか?」
「…五百…そう、五百部刷った。大分金を取られたよ」
「書店に置いたりはされなかったんですか?」
「それは…また別に金がかかると言われて…もう金はなくて…」
老人はしょんぼりとしていった。私は嗜虐的な気持ちだった。
「そうですか。出版社に持ち込みはされました?」
「した。…したよ! K社に持っていったが、門前払いだ! 年寄りを馬鹿にしやがって! 見ておれ!」
「他に持ち込みは?」
「…したよ。だが、門前払いでな。一社、話を聞きましょうと言ってくれた人の良い編集者がいたが、奴は途中から金が必要だと言い出した。金! 金だ! どこに行っても金の話ばかり! わしの本には見向きもしない!」
私は本をパラパラとめくった。唇にはうっすらと笑みが浮かんでいたと思う。
「…状況は大体把握しました。ところで、本の内容を教えていただいてよろしいでしょうか? 自叙伝という事でしたけれど」
「そうだ。自叙伝だよ。わしの…人生が詰まっている」
「これは…貿易系のお仕事を?」
見ているページでは、貿易の仕事について語られていた。
「そうだ。わしはもう何十年もその仕事をしていた。それは色々な事があったよ…」
「今は退職されておられる?」
「もう退職して十年になる。十年だよ。わしは、懸命に働いた。家族を養う為に懸命に働いた。二人子供がいる。一人は海外へ行った。勝手に行った。わしの断りもなくな。もう一人は一緒に住んどるよ。向こうはわしを嫌っとるようじゃがな。孫もいる。子供達はいずれも、自分の事ばかり考えておる。わしの事なんて顧みない。妻はもうおらん。亡くなった。わしが看取ったよ。わししか看取る者はおらんかったからな。妻が亡くなると、急に人生が幻のように思えてきた。懸命に世の中の為に尽くしたつもりが、いつの間にか老いさらばえた自分が鏡に映るばかりだ。わしは自分自身が誰かの見た夢なんじゃないかという気がしてきた。それで、書いたんじゃ。自伝を。誰も賛成する者はいなかった。娘などはわしのする事なす事全て馬鹿にしておった。だが、わしはやり通した。いいか、わしの人生は夢じゃない。わしは懸命に人生を生きた。しかし、このままでは、わしという存在そのものが消え去りそうな気がしてならない。わしはそれが嫌だったのだ。だから、一冊の本を書いた。しかし、どこも取り扱ってくれん。人が、命をかけて書いたものを無碍に扱う」
「世界中の老人が自叙伝を書いて出版すれば、世界の本がそれで埋まってしまいますからね。」
私はパタリと本を閉じた。微笑していた。
「…大体、おっしゃりたい事はわかりました。切実な動機があるというのは十分に理解しました。…しかしですね、こちらとしては疑問があるのですよ。具体的に質問していきますが…例えば、本を書くに当たって参考にされた作家はいますか? 誰の影響を受けています? これまで、どんな本をお読みになりました? どれほど深く、表現というものを追求しました? あのね、自叙伝というものは大抵、立派な偉い人の書いたものだから他人が興味を持つんです。そうじゃなければ誰も読みません。もしあなたが偉い人でないとするなら、芸術的表現というものを学ばなければなりません。あなたが、自分の過去をただ羅列したとしても、興味のある人は誰もいないんですよ。現代人はみんな忙しいですからね。彼らは権威に裏打ちされたものか、表現として成り立っているものに興味を示します。…いえ、後者に興味を示すのはほんの少数ですがね。…あなたはこれまでどれほど本を読まれましたか? あなたは、自分の人生に一生懸命打ち込んだとおっしゃった。その事を私は疑いはしません。しかし、それを芸術的に表現するには、人生に対するのと同じくらい、表現という事に打ち込まなければなりません。あなたはこの本を書くにあたってどんな準備をされました? どれほど自分を客観的に眺めましたか? どれくらいの勉強をされました? どうですか?」
私は早口になっていた。そんな事を言うつもりはなかったが、思わず言ってしまっていた。老人は困った、情けない顔をしていた。
「そりゃあ、わしだって準備はしたさ…。過去の日記を揃えて、誤字脱字にも気を配って…」
「私が言っているのはそんな事ではないのです。『表現』の話です。『書く』というのはあなたが思っているように簡単なものではありません。よくいますよね。ライトノベルを書いて一発当てようなんて事を平気で言う馬鹿な若者が。努力もせず、結果だけ欲しがる。老いも若いもあまり関係はないですね。退職して暇を持て余した人間が、妄想を書き連ねたり、妙に言い回しを小難しくして『文学的』と思い込むというのは非常によくある話です。しかし、そういうものは全然、水準に達していないのですよ。残念ながら」
私はいつの間にか立ち上がっていた。老人の姿は最初に見た時より一回り小さくなっているように見えた。
老人は私の方を見ずに、言った。
「それでは…やはり駄目という事か? 置いてもらえないという事か? わしの本は…くだらないものだと?」
「いえ、そんな事はありませんよ」
私は立ち上がった。ここからが腕の見せ所だった。
「今、パラパラと拝見させてもらって…そうですね。わかりました。この図書館に一冊置く事にしましょう。ただし、館内でも隅の書棚に置くだけですけれどね。それで、金銭関係が発生するわけではないし、こちらは蔵書が一冊増えるだけです。厳しい事を言いましたが、内容は十分であると思います。今、そう判断しました。ユニークですし、あなたの実直な人柄が出ている。例えばここ……奥さんと結婚に至る経緯などは面白いですね。他の女との関係を精算してから結婚したと書いてある。おモテになったようですね…どうやら…。まあ、それはどうでもいいんですが。あなたの本は、面白いですよ。客観的に見て。図書館に置く事にしましょう」
老人は最初、信じられないという顔をしていた。ぼうっとしていた。それで、更に言葉を足さなければならなかった。
「この本はここに置きますよ! これで、あなたの人生は他の誰かに読み継がれていく事になりますよ! 安心してください。ええと…佐藤さん。『著者 佐藤雄二郎』とここに書いてありますね。安心してください。あなたの本はここに置く事になりました。私が上に要求を通します。それくらいの事はできます。大丈夫です、一冊くらいなら、できます。自叙伝はここに置いて、閲覧できるようにしておきます。もしかしたら、あなたの自叙伝の素晴らしさは口コミで広がって、話題になるかもしれません。あなたの人生、あなたの存在に再び脚光が当たる日が来るかもしれません。これは始まりですよ。何かの始まりです。そうなる可能性はありますよ。あなたの本が別の誰かに読まれ、世の中に広まっていく可能性は十分あります! …そうなると、いいですね。この本は預からせてもらいます。今日は安心して、お帰りください。あなたの本はここに置きます。紛れもなく、置きます。安心してください」
私はニコニコしながら言った。老人はようやく事態が飲み込めてきたようだった。何だかよくわからないがとにかく目の前の男は本を図書館に置いてくれるのだという事実のみが、彼の前に現れてきているようだった…。
「そうか」
老人は立ち上がった。
「兄さん、置いてくれるか。わしの本、置いてくれるか? 評判になるかもしれん…そうかもな。その可能性もあるだろうな。あるだろうな? な? そうだな? 兄さん? そうだな?」
老人は手を出してきた。私は老人の痩せた手を両手で握った。彼の手はガサガサで、生命力が感じられなかった。
「その可能性は十分ありますよ! 後の手続きは私がやりますから、今日はもうお帰りください。本は図書館に置きますから!」
「そうか! 兄さん、ありがとな! ありがとう、本当に!」
老人は嬉しそうだった。その表情に嘘は感じられなかった。
私は老人を促して、家に帰らせた。老人は何度も礼を言った。外に出ても自動ドア越しに、こちらを見てぴょこりと頭を下げた。私は笑みを浮かべて会釈した。全てはうまく行っているように見えた。
老人を外に出すと私は受付に戻った。受付に戻ると、受付業務をやってくれていた同僚が素早く私の元に来た。
「あの人、何だったの?」
同僚は中年の女性で、仕事がよくできた。その分、他人の仕事にも厳しかった。同僚の目には猜疑心が浮かんでいた。私は、老人と喋りすぎていたらしい。雑談でもしていないかと疑ったのだろう。
私は持っている本を素早く同僚の見えない足元に置いて、口を開いた。
「よくあるクレーマーですよ。なんとか、言いくるめて帰しました。大変でした。この図書館は何時まで開いているんだとか、以前、受付に職員がいなくて待たされた事があるとか、色々口うるさくて。随分時間を取られてしまいました。でも大丈夫です。もう帰しましたから。疲れましたよ」
「そう。…まあ、わかったわ。じゃあ、業務に戻って。私も忙しいんだから」
「はい、すみません。ありがとうございました」
私は受付業務に戻った。同僚は奥に入った。私は、済ました顔をしていなければならなかった。内心では、足元の本が気になっていた。
※
それから一ヶ月が経った。
私はある種のイタズラーー世界に対する小さな反抗の気持ちで、老人の本を書棚に置いた。もちろん、公的には認められていないので、密かに置く必要があった。図書館が使っているバーコードに似せたシールを貼り、他の本と同じような外観を持たせた。本を書棚に置き、一歩引いて見ると、それは確かに他の本と同格の存在感を持っていた。老人の人生そのものはこうして、棚の中の一冊として配置された。
もちろん、本が実際に貸し出されるとなると、問題が起こる事は明白だった。それは館のシステムに組み入れられていない。私にとっては、別にそれでも良かった。誰か一人でも借りる人がいるのか。それが私に気にかかった事だった。もし、本を誰かが借りようとしたら、何らかのトラブルが起こるに違いない。そうしたら、「誰かが借りようとした事」は少なくともわかる。誰かが老人の単調な人生叙述に興味を示した、それだけはわかる。私が知りたかったのはそれだった。
老人が去った翌日には、本は書棚の端に置かれた。普段いる位置から見えやすい場所に置いた。同僚が発見する可能性もあったが、もしそうなっても別に良かった。その時はしらばっくれるつもりでいた。
本を置いてから一ヶ月が経った。最初の一週間は期待して待っていたのだが、誰も本を持ってくる者はなかった。私は開館日には常に出勤しているが、本が書棚から消えた事は一度もなかった。手に取って見る人すらなかった。しかし、それも当然であるかもしれなかった。本には「佐藤雄二郎 自伝」とデカデカと書かれていた。どこかの「佐藤雄二郎」と間違えない限り、そんな本は誰も手に取らないだろう。誰か、一人くらいは興味本位で手に取っても良さそうなものだったが。
一ヶ月経っても状況は変わらなかった。本は手に取る人もなく、書棚に残されたままだった。不思議だったのは、書架の整理をする同僚もその本が見覚えないものだと気づかないという事だった。誰も「佐藤雄二郎」には見向きもしなかった。私も、次第に興味を失っていった。他にやるべき事があったし、関心も他に移っていった。
その頃の私はある女に惚れ込んでいた。惚れ込んでいたというのも変だが、気がおかしくなっていたのだろう。ある読書会で知り合い、向こうから話しかけてきた。私は最初、用心していたものの、次第に相手のペースにはまっていき、その後、何かにつけ、くだらない用事をさせられたり、夜中に呼びつけられたり、休日にどこかに出かけさせられたりした。金もいくらか貸したが、返ってこないのはわかっていた。
後から考えれば、その女というのは子供にすぎない存在だった。それで、同じく子供にすぎない私が彼女に惹きつけられたのだった。彼女は何かを求め、寂しさを埋めてくれるものを探し、わがままを言い、私はそれに従い、その通りにして、何とか彼女に気に入られようとしたが、それはそもそも無理な話だった。彼女は結局、自分が何を求めているのか、何を望んでいるのか理解できない愚か者であり、ああした人物は生涯、ああいう行動を続けていく。まるで同じ所で踊り続けている狂人のようなもので、自分の額にかかった眼鏡を探しに世界中に出かけていく人にも似ている。彼女の寂しさを埋めるものなどどこにもないし、彼女が気にいる男などこの世のどこにもいやしない。それなのに私は彼女に気に入られようと、必死だったのだ。
泥沼のような三ヶ月が終わり、私は疲弊し、別れを切り出した。彼女は別れを拒否し、私を脅した。包丁さえ持ち出した。それがポーズだとはわかっていたが、実際に持ち出されると、ゾッとした。私は最後には彼女を殴った。彼女の反撃にあい、刺されてもいいと覚悟して殴ったのだが、殴るとおとなしくなった。もしかしたら、彼女はその一発を待っていたのかもしれない。私が彼女のわがままに付き合うのではなく、押さえつける事を心底では望んでいたのかもしれない。それを、もっと早い内にやっておけば彼女との関係も変わったかもしれない。しかしいずれにしても全ては遅すぎた。
その喧嘩を最後に、私達は別れた。別れてみると、まるで悪夢を見ていた気がした。季節は変わっていた。老人がやってきたのは春だったが、もう夏の終わりになっていた。老人が本を持ってきてから、四ヶ月ほど経っていた。女と別れた私は精神的に安定しだした。その折に、ふと忘れていた事ーー老人が持ってきた本の事を思い出したのだった。四ヶ月の間、老人の本は誰にも貸し出される事はなかった。職員が発見する事もなかった。それはずっと、誰かに読まれるのを待ち続けて書棚の端で眠っていた。その姿は、日の目を見たくてもついに見る事ができない、老人そのものに似ているようにも思われた。
私は興を覚えて、その本を手に取った。休み時間、同僚に見つからないように気をつけながら。私はそれを自分の鞄に入れた。どうしてそんな事をしたのか、後になって考えてみてもわからない。老人のしょぼくれた姿と自分自身のつまらなさを重ね合わせていたのかもしれない。
アパートに帰ると、「佐藤雄二郎 自伝」を開けて読んでみた。パラパラとめくって読んでみた。私はーー気付いた。本の末尾に、ご丁寧に住所が書かれている事を。老人の住所だろう。私は、休日にそこに行く事に決めた。何故かはわからないが、女と別れた私にとって、行くべき場所であるように思えた。何かが待っているような気がした。…いや、何もないだろう、という気もした。
住所の場所は、電車で三駅ほどだった。駅から十五分ほど歩く。閑静な住宅街で、品のいい家が並んでいた。当該の家は三階立てで、それなりに裕福だと感じさせるものだった。私は老人のみすぼらしさとの差を思った。表札には「佐藤」とある。間違いないだろう。私はベルを押した。
「はーい」
甲高い女性の声がして、ほどなくしてドアが開いた。品の良い、清潔な感じの中年女性だった。この方が老人の話していた娘さんかと思ったが、まずはこちらの用件を先に伝える事にした。
私は用件を伝えた。私が何者なのか。老人が図書館にやってきて、自伝を置かせて欲しいと頼んだ事。自伝は私の一存で図書館に置いたものの、一度も貸し出されなかった事。自伝を図書館に置いておく事はもうできないと上司に言われ(私は嘘をついた)、こうして本を返しに来た事。それら全てを淡々と語った。
女性は、私の話にじっと耳を傾けていた。彼女は申し訳なさそうな、気の毒そうな表情をしていた。その表情の意味が私にはよくわからなかった。
「それは申し訳ありませんでした。ご迷惑をおかけして」
話が終わると、女性は深々と頭を下げた。私は驚いた。
「いえ、謝るような事では…」
「父がご迷惑をおかけして、大変申し訳ありませんでした」
女性はもう一度深々と頭を下げた。私はなんとも言いようがなかった。
その後、佐藤雄二郎の娘ーー名前を裕子と言ったーーから、話を聞いた。父は定年を迎えた後、おとなしく生活していたが、母(雄二郎の妻)が亡くなって以来、痴呆が進み、妙な事を言ったりするようになった。佐藤裕子と旦那の二人はほとほと困って病院にも連れて行ったが、病院の方でも処置しようがないのだと言う。老人ホームに無理矢理入れるほど状態が悪いというわけでもないので、夫婦が雄二郎を気をつけて見ていたそうだが、知らぬ間に自叙伝を書いて自費で刷っていたらしい。何かを書いている事は夫婦も知っていたが、それが自叙伝とはわからなかったそうだ。本はまだ沢山あって、二階のダンボールの中で眠っているという。私はその中の一冊を持ってきたわけだ。
それだけの話を聞いても、別になんとも思わなかった。よくある不幸、あるいはよくある人生であり、仕事を辞め、配偶者がなくなると精神的に拠り所がなくなり人としておかしくなるというのは普通の事でもある。私は、裕子さんの話をうなずきながら聞いていた。
しかし、気になっていたのは、それとは違う事だった。裕子さんの話が終わると、私は問いかけた。
「事情はわかりました。ところで、雄二郎さんはお元気ですか? 一言、お声がけしたいのですが」
「父は亡くなりました」
裕子さんはあっさりと言った。私は絶句した。
「え………? 亡くなった………?」
「父は一ヶ月前に亡くなりました。事故です。トラックに轢かれて死にました。二ヶ月ほど前から痴呆がひどくなっていて、私達夫婦が目を離している隙に外に出たのです。散歩だったのか何だったのか、今もよくわかりません。その時に轢かれました。即死でした」
裕子さんは淡々と話していた。私は驚きを隠せなかった。
「前に図書館に来られた時はそれほどひどい様には見受けられませんでしたが…そうですか…それは残念でしたね」
「いいえ、残念ではありません」
裕子さんは何故か、きっぱりと言った。そこには寂しそうな表情もあった。
「こんな事を言うと酷い人間と思われるでしょうが…あなたならわかっていただけますでしょう。正直に言って、父が亡くなって私達夫婦はほっとしたという面もあるのです。父はその…亡くなる前には…極めて横暴でしたから。私達にも、息子や娘に対しても…」
裕子さんは遠い目をして宙を見た。そこには家族の壮絶な闘いがあったのだろう。私が突っ込んで聞く話ではない。
「そうですか。わかりました。………では、お焼香を上げさせてもらっていいですか? 最後に、雄二郎さんに一目会っておきたいのです。もちろん、仏壇があればの話ですが」
「仏壇はあります。もちろん、結構ですよ。父も喜ぶと思います。あなたのような慈悲深い方は…始めてです。あんな父にも……いえ、やめましょう。さあどうぞ、奥へ」
裕子さんは私を家に入れてくれた。私は玄関から中に入った。
居間に通してもらうと、立派な仏壇があった。上に、遺影が二つ並んでいた。一つは図書館で見た老人。もう一人は、痩せた老女。雄二郎の妻だろう。
線香に火をつけ、合掌した。脳裡に老人の姿が浮かぶ。はっきり言って、私はあの時、老人を軽蔑していた。いや、今も軽蔑している。老人を愚者であると思っていた。しかし、それも死んでしまえば…ある種の尊敬の念が浮かんでくるのだ。人は死んで始めて浮かばれるのかもしれない。どんな賢者だってそれは変わらないかもしれない。
祈りが済むと、裕子さんに向き直った。
「これで安心しました」
私は言った。裕子さんは、お茶と菓子を持ってこようとしていたが、押しとどめた。すぐに帰るから、と。
「それから、これをお返しします」
鞄から本を取り出した。分厚い本。「佐藤雄二郎 自伝」 誰も手に取らなかった本。裕子さんに渡した。彼女は両手でそれを受け取った。
「わざわざありがとうございました」
裕子さんは受け取った本を、リビングのテーブルの上に置いた。本を置くとまた私の前に戻ってきた。
「今日はわざわざ、父のために来てくださってありがとうございました。父は本当に喜んでいると思います。天国で喜んでいるでしょう。私達夫婦は、色々な苦労もしましたが、あなたのような方が父の事を想って来てくださって、本当に嬉しい思いです…」
「ところで、あの本は読まれましたか?」
型通りの挨拶が始まると、唐突に私は切り出した。型通りの挨拶は苦手だ。
「え?」
「あの本…自叙伝ですよ。お父さんの自伝。中をめくって見ました?」
裕子さんは驚いた顔をしていた。そんな事を聞かれるとは思ってもない、という風だった。
「え、ええ…。読みました。本ができた時、うるさく読めと父が言ったものですから」
「どうでしたか? 内容は?」
私は鋭い眼光をしていた事だろう。裕子さんは怯んでいるようだった。
「い、いえ。それは…何分、素人の書いたものですので。確かに、あれは父にとっては大切な作品だったのかもしれない。しかし、人様に見せられるようなものではありません。父の過去については、読むとよくわかりますが、ただそれだけの……素人の書いたつまらないものです。残念ながら」
「傑作でしたよ」
うっすら笑みを浮かべながら私は言った。私は何かーー自分の中でも間違っている何かをーー確信していた。
「あれは傑作でした。お父さんは図書館に来られた時、言っていました。『自分の人生はもうすぐ終わるから、誰かに託したいのだ』と。これは作家としては、正当な動機ですね。偉大な作家も、こういう動機から作品を書き始める事がよくあります。例えば、プルーストなんかそうじゃないですか。両親が亡くなったという事が、創作の契機となった。両親の死によって、孤立し、自分の死について思わざるを得なかった。だからこそ、筆を取ったわけです。それまで以上に、作品というものに重い何かを託さなければならなかったわけです。お父さんの佐藤雄二郎さんもまたそう考えて自伝を書いたわけですね。『そういう意味では』傑作でしたよ。紛れもなく。良い本でした。図書館で借りる人は、一人もいませんでしたがね」
私は立ち上がった。帰る時だった。裕子さんはただ驚いていた。
「すいません、お邪魔しました。帰ります。本はお返ししましたので。確かにその本は素人の書いたつまらないものです。ですが、私はこんな風にも考えます。一体、どれほどの凡人でもつまらない人生など一つもないと。この世で個性のない、つまらない人生など一つもありはしないと。どの人生も特殊で、目に見えない所で波乱に満ちており、味わいがある。間違いないと思います。しかしですね、それをどうやって表現するかというのはまた違う問題です。ただ過去を書き写すだけでは表現にはなりません。文学にもなりません。問題はそういう特殊かつ平凡な人生をいかに意味のあるものにしていくかという事です。お父さまの持っている動機自体は極めて正当なものでした。しかし、お父さまはいかに表現するかを知らなかった。そこが問題でした。それだけが、彼をして第二のヘンリー・ダーガーとさせなかった。それだけが問題でした。後は…なんてことないです。……どうやら、私は話しすぎたようですね。お暇させていただきます」
私はスタスタ歩いて、玄関に向かった。人の良さそうな人妻はただただ困惑しているばかりだった。裕子さんに見送られて、家を出た。
帰り道は、汚辱に満ちた気持ちだった。
どうしてあんな事を言ったのだろうーーそれは問いである共に答えだった。一つだけはっきりしているのは、私が単なる馬鹿だという事だった。
あの老人は既に亡くなっていた。あんな凡庸な老人はすぐにでも忘れ去られるだろう。娘と、その旦那も老人の事では随分苦労したらしい。さぞ、死んでさっぱりしただろう。嫌な言い方ではあるが。
図書館に来た時の老人の顔を思い出す。あの時、私は老人を軽蔑していた。今も内心では軽蔑している。しかし、私と老人では一体何が違うのだろう。私もまた虚しい一生を送り、誰にも覚えられる事なく自分の人生を終えるだろう。
とぼとぼと道を歩いて行く。駅までの道のりは、天国へ至る道ーーあるいは地獄へ至る道にも見えた。
私もまた、死の前にはつまらない自伝を書くだろう。誰も読まない自伝を。
私の一生も老人の一生も大して変わらないに違いない。私は汚辱に満ちた気持ちで自分自身を振り返った。なんて情けないのだろう。私のつまらない人生が、目の前を横切っていった。働き、飲み、食い、女と付き合い、別れ、自分の愉しみだの仕事の能力だの様々な事で消費されていく人生。しかし、この人生を何に捧げればいいのだ? 結局は無為に帰すではないか?
その時、道のあちら側からトラックがやってくるのが見えた。大きなトラックだ。随分スピードを上げている。こちらにやってくる。
そう言えば、老人はトラックに轢かれて死んだのだったな。
そう思うと、ふいに、突っ込んでくるトラックに身を投げ入れたい気持ちに襲われた。老人の精神が一時的に憑依したのかもしれない。トラックがやってくる。飛び込もうーーそう思った時、私の目の前に、トラックに飛び込む私自身の姿が見えた。一瞬、幻影が前を横切った。
やめておこう、と私は思った。トラックは目の前を通過していった。私は取り残された。
私は死ななかった。歩いていた。死ぬのはまだ早かった。どうして死ななかったのか、それは自分でもよくわからないが、でも……私はまだ書いていなかった。
誰も読まないであろう、私自身の人生を綴った自叙伝を。老人が綴ったものは誰も読まなかった。私もまた、誰も読む者のない自叙伝を書くだろう。私の人生が無意味だという事を証明する為に。…しかし、それは書かれねばならない。無意味を目指して書かれなければならない。
私は、まだやるべき事を残していた。私は駅まで歩いていった。その歩みは猫背で、非常にみすぼらしいものだった。