プログラム ver 3.502
氷上は大急ぎでクロークに預けていた荷物を受け取り、先ほど確保した高級スイートルームへと急いで辿り着く。部屋に入ると、豪華な玄関、そして応接間がまず広がっていた。四隅に間接照明、中央にはふかふかの4人がけソファー、テーブルには果物の盛り合わせ、傍にはワインクーラーにシャンパンが入れて置いてあった。
ただでさえ電力が高騰している時代である。照明を用いて栽培された果物が何種類も盛りつけてある皿が用意してあるこの部屋がどんなに金のかかったものであるかは想像に難くないだろう。だが、氷上は大してありがたくもなさそうに無造作に何かの果物を一つ口に加えると、クロークから回収してきたアタッシュケースを開いた。
ケースの中にはノートPCが入っており、テーブルの上に置くと部屋のコンセントに繋いで起動した。くどいようだが、コンセントがあるこの部屋は異常である。電源を入れると氷上が作成したOSが立ち上がり、8つの画面が出てくる。彼女が関東の研究所で使っているものと同じシステムであった。
「サーバーに接続。プログラムダウンロード」
もちろん、音声認識も標準装備である。PCがプログラムのダウンロードを開始する画面が表示されると、待ち時間の間に氷上は部屋の電話でフロントにかけた。
「はい、フロントですが」
「氷上だが。これから人を呼んで会議することになった。大量のコーヒーと大量の果物が必要になるからひとまず50人分くらい用意してくれ。なるだけ早くな」
フロントが了承すると、手早く電話を切った氷上はスーツを脱ぎ、白いブラウスにタイトスカート、その上から白衣を羽織った。
「ふふ、やはりこの方が気合が入る」
氷上がそう独りごちたところで、部屋の扉をノックする音がする。ルームサービスの準備が整ったようだ。急ぎ部屋の中にコーヒーと大量の果物が運び込まれる。最後のトレイを持ってきたボーイにチップを払うと早々に追い出し、氷上はノートPCの前に座り、コーヒーと果物をすぐ手に届く位置に配置した。
PCの画面には「DNA activating program 3.502」と表示してあった。氷上は甘くしたコーヒーを一口飲むと、深呼吸をした。
「例を言うぞ。AAAの我が宿敵よ。貴様がいなければ、私は遺伝子活性化プログラムをこれ以上アップデートしようとは思わなかっただろう。バージョン2で本来このプログラムは完成予定だったんだ」
言いながら氷上は銀髪の美少年の顔を思い出す。関東で橘静希と全力の頭脳戦を行った結果、氷上はオーバーヒートして倒れてしまった。
「私はあの時に誓った。能力を活性化する新しいプログラムを作ると。そして、ここにそれがある」
氷上はノートPCの画面を見た。DNA activating program。能力を更に活性化させるために氷上が更に前よりも大きな変更を施したものだ。遺伝子に介入するというのは本当に危険な行為である。まかり間違えば日村の作ったモンスターのようになりかねない危険性をはらんでいるのだ。
だがこうしている間にも、彼女を慕ってついてきてくれた子供達が窮地に陥っている。AAAによるなんらかの攻撃を受けて死にかけている。氷上に後戻りをするという選択肢はなく、時間も残されてはいなかった。
「いくか」
氷上はヘッドホンを耳に当てるとノートPCに向かって宣言した。プログラムを起動する、あの言葉を。
「活性化!」
氷上の周りの視界がガラスが割れたように崩れ始め、氷上は完全な暗闇の中へと落ちていく。やがて、一条の光が刺す。光はだんだん大きくなり、氷上は白い大きな部屋へと出た。
「こ……ここは?」
氷上が辺りを見渡す。氷上がプログラミングしたのは黒い画面に白い文字で流れる遺伝子活性化プログラムのはずだ。この白い部屋に関して彼女は思い当たることが全くなかった。彼女は所在無さそうに辺りを見回した。無数に林立する白い本棚と、それにぎっしり詰められた白い本の群れが見える。
「参ったな。さっぱりわからない」
「なにが参ったの?」
氷上が声のする方へ振り返ると、いつから居たのか白い服を来た美しい男の子が椅子に座って静かに本を読んでいた。氷上が男の子をしばらく見ていると男の子は本から目を上げ、氷上の方を見た。
「透くんだね。いらっしゃい。もっと後に来るかと僕は思っていたんだけど。何か問題でも起こったのかい?」
その子供らしからぬ口調と堂々とした態度に違和感を覚えつつも、氷上は当然の疑問を口にする。氷上の彼に対する口調が大人に対するそれだったのは、彼の持つ雰囲気のせいだろう。
「君は誰だ? そしてここはどこだ。良ければ教えてくれないか」
5歳くらいだろうか。氷上の半分もないくらいの背丈しかない白い子供は、白い本を小脇に抱えたまま彼女の目を真っ直ぐに見て言った。
「ここは、"ルーツ"。すべての遺伝子の起源が集まる場所だよ」
AAAの基地となっている雑居ビルでは日村が苦しむ3人と、それを必死に助けようとしている柏木をモニターで見ながら日村が先ほどの氷上との会話に対する疑問を口にした。
「橘、君が電話してみたらと言ったから私は氷上に電話したのだが……果たして電話する理由はあったのか? 氷上は私をアメリカの研究室から追い立てるほどの頭脳を持った女だ。この私が世界で唯一一目置くほどのな。奴らを完全に倒した後の報告でもよかったように思うのだが」
それを聞いた橘は一瞬考えるような仕草をしたあと、日村に答える。
「そう言われればそうですねぇ。僕もうっかりしてました。カジノで見かけたので電話番号をすれ違いざまにスキャンしておいたのですが。まあ、日村さんが負けるわけないと僕が思っていたので勝利宣言を先にしてもいいかなと思っちゃいました、すみません」
日村は橘の言葉を聞き、すこし気分がよさそうな顔でモニター画面に目を戻す。
「ま、そうだな。私の勝ちは決まったようなものだ。連絡しようとしまいと、大した違いはあるまい」
日村がまたターゲットの高校生たちに興味を移すのを見て、橘は胸をなでおろしていた。巨大モンスターが生み出した白い人型のダミーが細菌兵器へと最終変化を遂げた時、橘はすぐに氷上に電話するよう日村に助言していたのである。まるで高校生たちが完全に細菌兵器にやられてしまう前に、氷上に教えたかったかのように。だがそれが橘の中でどういう動機から起こった行動であったのか、橘本人以外にはわからなかった。
「けほっ、クソ! 身体がいうこと……きかねぇ」
湯村は40度もある身体を起こし立ち上がろうとしたが、血を吐きながら倒れた。視界が回転し呼吸も満足にできない状態である。無理もない。柏木がその横で身体を支えて泣きじゃくる。アメリアと佐倉はもう先程から肩で息をしており、話すことすら出来ない状態となっていた。
「ひっく……氷上さんに……連絡しなきゃ……」
柏木がそう言って携帯電話を出そうとするのを湯村が止める。
「駄目だ。俺達は氷上が止めるのを振り切って出てきた。あいつの車もぶっ壊してしまった。その上全員ピンチになって助けを求めるなんて……げほっ……できねぇよ」
「そんなこと言っている場合じゃないでしょ。氷上さんは未来の予測が出来る人よ。もしこうなるならきっともっと強引に止めてた。私、連絡してみる」
柏木は携帯電話に呼びかけ、氷上をコールした。
氷上はまだ白い本棚の林立する空間で子どもと対峙していた。
「起源、ね。それで私はどうすればいい? 私は遺伝子を活性化して元の世界に戻らなきゃならないんだ」
「わかってるよ。ただ、世界が予定しているより透が遺伝子を活性化させるタイミングが早かったからここへ呼ばれてしまったんだ。どうして遺伝子を大きく活性化しようとしたんだい?」
氷上は銀髪の男を思い出しながら悔しそうな顔で少年に答えた。
「私の今の力ではどうしようもない敵が現れたんだ。おかげで前回、私は終始後手に回らざるを得なかった」
それを聞いた少年は拳を口元に当て、何かを考えるような仕草をした。
「透の予測を上回るような敵? 世界にはそんな予定はなかったはずだ。恐らくそれは世界の外からやってきた人間がいるということだね」
「世界の外? なんだそれは」
「それは言えない」
少年は本当の子供のように目をぎゅっと瞑り舌を出すと、両手で氷上にバツをしてみせた。
「でもわかった。そういうことなら了承しなきゃだめだね。透の遺伝子活性化を次の段階へ行けるように許可してあげるよ」
少年が持っている本を開くと、そのページがパラパラ分解してと宙を舞い、氷上の周りを覆って飛び始める。
「さようなら透。もうしばらくは会うこともないだろうけど。頑張って」
氷上は視界を紙のページに覆われ、少年の声がどんどん遠ざかっていくのを感じて叫んだ。
「待て、お前は何なんだ? お前は神か? だったら聞きたいことがある! 地球はなぜ突然氷期に襲われた? どうしてもこの理由だけがわからないんだ」
氷上の視界がだんだんと暗くなっていく。少年の声が遠くからかすかながら聞こえてきた。だがはっきりと聞き取ることは出来なかった。
「それは……地球の……が……」
やがて暗闇に見覚えのあるプログラムの画面が見えてくる。氷上はいつもどおり活性化プログラムに対し「Yes」を告げると文字列が流れる。活性化が終わり、氷上はホテルの部屋で目覚めた。時計の針は2分も経っていなかった。
「ん……んん!」
氷上は激しい空腹感を感じ、手元にあった果物におもむろにかじりつき、それをコーヒーで喉に流し込んだ。恐らく能力を大きく活性化させた反動だろう。いつもよりも脳が必要としているエネルギー量が増しているように感じた。あの白い部屋と少年のことは気がかりだったが、目覚めた氷上は、もっと優先してやらなければいけないことが多数思いついてしまったため、その疑問は後回しにされた。果物を掴んでない方の手で氷上は電話を掴む。
「コール、久木」
氷上の携帯電話がかつての仕事仲間、そして24時間監視され続けている九木薫のところへ電話をつなぐ。
「はい、九木ですが……いまちょっと都合が……」
「耳から受話器を離してろ」
氷上はそう言うと目の前のノートPCのキーを片手で乱雑に叩く。するとノートPCから妙な電子音が鳴り響く。
「え? きゃあっ」
電話の向こうで複数の破裂音が聞こえ、九木が悲鳴を上げる。
「……もしもし? 九木、大丈夫か? これで話せると思うが」
驚きのあまり少し遅れた後に九木が答える。
「ねぇ、透。今何をしたの? 部屋の盗聴器と監視カメラが全部同時に煙を上げて壊れたわよ。あ。コンロの後ろからも煙が出てる。こんなところにもあったんだ……」
それを聞いた氷上は人の悪い笑みを浮かべた。
「別に君の金で買った盗聴器じゃないから構わないだろう。ちょっと各機器のシステムに故障するような信号を送っただけさ。必要なら弁償しようか?」
電話の向こうの九木はため息を付いた。型番もメーカーもわからない盗聴器と監視カメラに対して、どう干渉したらこんなことができるのだろうと。なまじ氷上と仕事をし、電子機器に関する知識がある故に九木は、氷上が今行ったことがどれだけ異常なのかを肌で感じた。
「よくわからないけど。相変わらず透が非常識なのだけはわかったわ。それで? こんな夜に電話をかけてきたということは何か緊急の用事なのね」
「物分かりのいい女子は好きだよ。実はそうなんだ」
氷上は手短に九木に説明をすると、電話を切ってコーヒーを一口流し込む。それから果物を少しつまむと、不意に何の音もしていない携帯電話を手に取って画面のボタンを押した。氷上の指が携帯電話の画面に触れる直前、計ったかのように着信画面が展開する。まるで何秒後に、電話の着信が鳴るのかをわかっていたような仕草であった。
「氷上さんっ」
悲痛な声で柏木が話しかけてきた。
「大丈夫だ。状況はわかっている。今そっちに助っ人を向かわせた。私もすぐ行く」
氷上はあっけにとられている柏木の電話を切ると、ルームサービスで車と運転手と武器を用意させた。氷上が部屋を出て、エレベーターを降りきる頃にはBMWと書いた白い車と運転手が彼女を待っていた。氷上がカジノで稼いだお金はなんでもすぐに用意できるほどの力を彼女に与えていたのである。
「どちらに参りましょうか」
敏腕そうな運転手が行き先を聞いてくる。それに、甘いコーヒーを手に持ってすすりながら白衣の女が答える。
「ここから西方に、陽光進学塾が入っている今使われていない雑居ビルがあるはずだ。全速力でそこへ向かってくれ」
「かしこまりました」
氷上は正確に、見たこともないビルを運転手に指示すると車に乗り込んだ。白い車は排ガスをまき散らしながら昇天閣を西に出発した。




