62. 抵抗
こみ上げてきたのは、怒りだった。身体中の血が沸騰しているのではないかと思うほどの、怒り。
(人の心を勝手に書き換えようだなんて、ふざけてる)
思い切り身をよじり、王子を突き飛ばした。あんな異様な婚約指輪、絶対にはめられるわけにはいかない。
「っ、何をする!!」
突然の反撃に驚いたからか、それとも何度目かの爆発でまた床が揺れたためか。ギルトラッドが軽くよろめき、態勢を崩した。
リディアは、きびすを返し走り出した。声が出せない今、魔術で身を守ることはできない。少しでもこの場から離れたかった。
壇の下、混乱の続く夜会会場では貴族や召使いたちが出口を求めて右往左往している。あの中に紛れ込んでしまえば、簡単には見つからないはず。ドレスを裾を掴んで階段を駆け下りる。
だが――降り切る前に、王子の侍従の一人に腕をひねりあげられた。
(っ!)
反射的に腕を振り回してもがこうとしたが、逆に受け流されて床に押さえつけられた。とっさに床に手をつくと、ざくり、と嫌な感触がして、落ちていたグラスの破片で手のひらが切れたのがわかった。
「……正気を取り戻したのか」
ギルトラッドの声が、静かに追いかけてくる。身動きできないまま周りを見渡すと、いつの間にか、壇上に残っていた侍従や騎士たちが周りを取り囲んでいた。いくら混乱のさなかとは言っても、非力なリディアがこの人数の男たちを振り切って逃げることは不可能に近い。
(はなしてよ……!!)
唇が、わなわなと震えた。声が出せないのが、呪文が唱えられないのが、ひどくもどかしかった。
激情のあまり、リディアは気付かなかった。
自分の周りで、ぐぐ、と小さな音を立てて空間が歪み始めていたことに。
◇◇
ギルドラッドは、息をついて目の前の少女を眺めた。
ファビウス伯爵家の血を引くという、空間魔術使いの少女。初めて言葉を交わした夜会では、顔形が小綺麗なだけの大人しそうな娘という印象だった。だがそれが、次に会ったときには、弟とともに氷の禁術を使いこなしてギルトラッドの前に立ちはだかったのだ。あの繊細な詠唱と苛烈な術は、忘れようと思っても忘れられるものではない。
そして今、少女は可憐な顔を歪めて、ぎらぎらとした強い眼差しでこちらをねめつけている。
(まるで手負いの獣だな)
空間魔術使いの少女をこちらの陣営に取り込もうというのは、母アビゲイルの発案だった。
導きの乙女の身代わりとなり得る者を第一王子に渡すことはできない。婚約と称して操りの指輪を付け、社会的にも身体的にも逆らえないように縛り付ける。弟王子の婚約者の一人となれば、流石のエーレンフリートも近づけないだろう、という目論見だ。
ギルトラッド自身は王位になどさして関心はなかったが、周りはそれを許しはしない。そろそろ腹を決めるべき時が来たのだと覚悟して、母の話に乗ったのだった。
「抵抗はこれだけか、リディア・ファビウス?」
問いかけると、少女はぎっ、と眉を寄せた。
「……ィを……こに……ったの……」
小さな唇からはひゅうひゅうと苦しそうな息が漏れ、怒りを含んだ声は言葉をなさない。薄れかけてはいるが、まだマノイラの毒の効果が残っているようだった。
「助けを乞うている――わけではなさそうだな。悪いが、お前を見逃すことはできない。諦めて私に従え。フレイライムの助けを期待しているのなら、無駄だ。じきに護衛たちが捕まえるだろう。いかにあいつといえども、術力を切らして詠唱は続けられないはずだ。捕らえ次第、始末する」
これ以上の抵抗は看過できない。騒ぎが他の貴族に広まる前に、なんとしても操りの術を完成させなくては。今度こそ指輪の契約を済まそうと、ギルトラッドは少女に足早に近づいた。
「……そんなの、みとめない……」
「なに?」
聞き取れず聞き返したのと同時に、リディアを捕らえた侍従が「ひっ」と声をあげた。おかしなほど上擦ったその声色に、ギルトラッドは眉を吊り上げる。
「どうした?」
「あ、足、私の足がっ……!」
つられて侍従の足元を見やって、思わず息を飲んだ。そこにあったのは――奈落を思わせる深い闇。
ぽっかりと広がった黒い空間が、侍従の足首から下を飲み込んでいた。
「誰か助けてくれっ」
侍従は少女の手を放り出し、恐慌状態で周りの仲間にしがみつこうとしたが、誰も助けを差し伸べる者はいなかった。皆、呆然として動けないのだ。
その間にも黒い空間は広がり続ける。リディアの足元を中心に、光を通すことのない、ぬたりとした闇色が床を浸食していく。
「闇の魔術……?」
つぶやいたギルトラッドのつま先にも、すぐにそれは到達した。触れた瞬間、ぐいと闇の中に吸い込まれそうになる。足を引きちぎらんばかりの勢いに、ぎょっとして飛び退いた。
その拍子に、指輪が手の中からこぼれ落ちる。拾う間もなく、指輪は一気に闇に覆われた。
「それはおそらく強制転移の一種……闇と混成した空間魔術です!その娘、魔力が暴走しているっ!離れなさい、ギル!」
「これが……?しかし母上、これはあまりにも……」
逃げ遅れた侍従は、すでに腰まで闇の空間に引き込まれている。尋常でない事態なのは確かだった。我を取り戻した護衛たちにかばわれて、ギルトラッドとアビゲイルは大きく後退した。爆発騒ぎにどよめいていた夜会会場を、今度は黒い恐怖が覆っていく。
座り込んでいた少女が、ゆるりと立ち上がった。その瞳は、怒りを通り越してすべての感情を失ってしまったかのように虚ろだった。
「こんな……ぜ……ぶ、きえて……ば、いい」
かすれた声と同時に闇の広がりがぶわりと加速する。逃げ惑う招待客や侍従たちを巻き込んで、黒い空間が会場の半分を覆い尽くした。
と、そのとき――ひときわ大きな爆発音が室内を揺らした。会場の入り口が爆風で吹っ飛び、熱波をまき散らす。
「リディアっ!!」
フレイだった。護衛たちをふりきってきたのか満身創痍だ。毒で枯れた喉をふりしぼるようにして少女の名を呼ぶ。
「……」
けれど、リディアはそちらを向くことなく新たに呪文を口ずさみ始めた。すでに、魔力の暴走で意識が朦朧としている様子だ。
状況を見て取ったフレイは、一瞬だけ目を見開いた。
「あの馬鹿っ……」
舌打ちをして、すぐに駆け出す。目指したのはもちろん、闇の空間の真ん中に位置する少女。うごめく黒い靄を前にしても、その足取りには一切迷いがなかった。
足を踏み入れた瞬間、闇がまるで生き物のようにフレイを引き込む。わずかによろめいた彼は、それでも前進をやめなかった。
「……二回も、目の前で同じことされてたまるか」
闇属性の術を構築して、黒い靄の動きを押さえつける。靄は抵抗を見せつつもフレイの術に従った。
護衛たちも、招待客も、闇からかろうじて逃れた者たちは皆、ただそれを見つめることしかできなかった。侵入者であるはずの黒髪の少年は、額に汗を浮かべながら、少しずつ闇の空間をかきわけ進んでいく。
ついに中心付近までたどり着いた彼は、少女へと手を伸ばした。華奢な肩をつかんで、振り向かせる。少女の虚ろな目がフレイを映して揺れた。
「……ぜんぶ、消えてしまえばいい……だって、わたしはまた……みんな奪われて、閉じ込められて……ここには、誰も……」
「リディア!ここには――お前の側には、俺がいる。お前は一人きりじゃない。閉じ込められてなんかいない。正気を取り戻せ!」
「…………」
肩を揺さぶり語りかけても、少女は黙り込むだけで、闇の空間魔術を解こうとはしない。フレイは、懇願するように額を寄せた。
「リディア、俺はもう二度とお前を目の前で消えさせたりなんてしない。……約束、しただろう?大丈夫だって、後で話すって、お前言っただろ?」
切なげな、けれど強い意志を宿した瞳が、少女を間近からのぞき込む。まるでその意思が流れ込んだように、少女がまつげを震わせた。
「…………フレイ?」
「ああ、そうだ。俺はここにいる」
力強い返答に、今度こそリディアが目を瞬かせた。瞳が、きちんと焦点を結ぶ。
「……無事、だったんだ」
その言葉に、フレイが張りつめていた表情を崩し、安堵の息を漏らした。
「人を勝手に殺すな。閉じ込められてただけだ。すぐ、抜け出したし」
「そっか……。でも、ひどい声」
「お前もな。あの煙の毒のせいだろ」
「ん……今、治す。もう、普通に詠唱できそうだから」
フレイと自分の痛んだ喉に手をかざして、少女はかすれ声で『治癒』とささやいた。銀の光が、粒となって二人を癒していく。
少女はそのままフレイの服をぎゅっと握りしめてうつむいた。
「ほんと……無事で、よかった」
「俺はお前が暴走してて焦ったけどな。馬鹿リディアめ」
「ごめん。でも、ありがと。またフレイに助けられちゃったね」
へにゃりと笑うリディアに、少年は「あとで説教」と、こつんと額を叩いてみせた。ーー言葉とは裏腹に、その表情はとてもやわらかい。
ひとしきりお互いの状況を確認した後、二人は周りを見渡した。
「……で、どうする?これ」




