4. にぎわう夜の街
「麦酒、麦酒ー!」
「ザッカレ鳥の丸焼きひとつー!」
「ドワーフんとこの秘蔵酒はまだかー?」
扉を開けると、喧噪が耳に飛び込んで来た。
ここは、下層区にあるフリッカの酒場。いつもにぎやかなところだが、今日は一段と客が多いようだ。せまい店内は人の熱気で満ちていた。
酒を片手にした男たちが、それぞれの会話に夢中になって騒いでいる。注文の声はさながら怒声のようなボリュームだ。
リディアは、ひしめきあう人々を押しのけながら、奥のカウンターを目指した。途中、何度も誰かの足を踏みつけてにらまれたが、そんなことを気にしていてはここではやって行けない。
彼女は今、少年のような格好をしている。結局一旦家へ戻って着替えて来たのだ。
体の線が出ないデザインの短い丈のローブに、足首まで覆うズボン。足元は、いつも冒険に出かけるときに履く頑丈なブーツ。どれも、下層区で目立ちにくいよう適度に薄汚れている。しかし、普段から令嬢らしい格好よりも動きやすい軽い服を選ぶ彼女にとっては、特に苦痛でもなかった。
髪を一つにくくってフードで覆うと、ぱっと見はどこからどう見ても小柄な少年だ。
元々、リディア自身はそう目を引く容姿をしているわけではない。どちらかというと幼い顔立ちで、体だってほかの女性と比べたら華奢すぎて貧相だ。少年に化けるには、うってつけなのだ。
(それを可愛いなんて連発する、アシュ兄さまの目がおかしいんだって)
夕刻の兄との会話を思い出して、リディアは心の中で毒づいた。
今まで何度か少年の格好をしてここを訪れているが、客に女だと見破られたことはない。…逆に、少年だと侮られてからまれたことはあるけれど。
正直なところ、この喧噪が最初は結構怖かった。でも、何度か通ううちに思考が麻痺して気にならなくなってしまった。少年として絡まれるくらいは自分でなんとか対処できる、と今では思っている。
(すっかり遅くなっちゃったけど、大丈夫だよね?)
着替えるために一度家へ戻ったとき、屋敷には誰もいないようだった。もしかしたら弟は帰っていて休んでいたのかもしれないが、邪魔をするのも気が引けたので部屋に声はかけなかった。
召使いにも、供をするようには言わなかった。こんなところに貴族が召使いと一緒に現れたら、逆に目立ってしまう。
兄との約束を破ることにはなるが、後で誰かと口裏を合わせれば問題ない。そこは特に気にしていなかった。
「あっ!リディー!こっちこっち!」
急に声をかけられて、リディアはきょろきょろと周りを見回した。人々の背中の向こうで、一本の手がこちらに向けて振られている。
人ごみをかきわけてそちらへ向かうと、そこにはエプロン姿の少女。亜麻色の髪がカールしていて、健康的に日焼けした頬にかかっている。酒場の給仕用のエプロンに包まれた体には女性らしい凹凸があって、まわりの男たちの目を引いていた。彼女は、もう一方の手にたくさんのグラスが乗った盆を乗せたまま、ぶんぶんと腕を振っていた。
「ドリー!今日、仕事入ってたんだ?」
近づいたリディアが問いかけると、ドリーはまあね、と笑ってみせた。
「急に頼まれちゃってね。お祭り前で混んでるから、仕方ないけど」
出席するはずだった今日の講義に出られなかったのは、そのせいだったらしい。
彼女、ドリーはリディアと同じ学院の魔術応用科の生徒だ。お互いグレーのローブを身につけていた教養課程のころからの友人で、もう知り合ってニ年ほどになる。
貴族階級でない彼女は、出会った頃からこの酒場で働いていた。リディアがフリッカの酒場で依頼を受けるようになったのは、ドリーの影響だった。ちなみに、少年の格好をするようになったのも、もとはドリーの入れ知恵だ。最近では、会うたびに「その格好、ほんと板についてるね」と妙に感心される。
それよりも、と彼女はリディアに身を近づけた。
「聞いたよー、眠り竜、起こしちゃったんだって?」
興味津々、といった様子で問いかける。
「耳が早いね。でも、大丈夫。ちゃんと倒したよ」
目をぱちぱちと瞬かせながら、リディアは答えた。昨日の一件は、意外と早く広まっているらしい。あれだけ盛大な大爆発を起こしたのだから、当たり前かもしれない。
「眠り竜起こして倒すなんて、よくやるよねえ。あいつ起きるとかなり厄介なんでしょ?」
「うーん、まあ、仕留めたのはフレイだしね」
リディアは曖昧に微笑んだ。実際、弟がいなければリディア一人ではあんな竜には絶対にかなわなかっただろう。『転移』させれば別だが、それでは倒したとは言わない。
ふうん、とドリーは感心した様子でうなずいた。
「しっかりした弟がいてうらやましいな。うちのチビたちも、そういう魔術師に育ってくれるといいんだけど」
でもこればっかりは魔術適性の問題かな、とドリーは苦笑した。彼女には幼い弟と妹がいるが、二人ともまだ魔力をうまく使えないらしい。四、五歳になるまでに芽が出なければ魔術師になるのは難しいから、微妙なところなのだろう。
「ってごめん、話し込んでるとこじゃなかったね。討伐報告に来たんでしょ?フリッカなら、奥にいるよ」
思い出したようにドリーは体をひねって奥のカウンターを指差した。急な動作に、手に持った盆とグラスががちゃがちゃと音を立てる。
「うん、ありがと。仕事の邪魔しちゃってごめんね?」
リディアはうなずいて、ドリーにゆるく手を振って別れを告げる。友人と話していたいのはやまやまだが、これ以上邪魔をするのも悪いだろう。
先程から、近くの男たちが注文した皿はまだかと騒ぎ始めている。
「いえいえー、あたしはこんなむさ苦しいとこにトモダチが来てくれるだけで嬉しいから」
じゃあまた学院でね、とドリーもにこやかに笑って手をひらひらと振った。すぐに、近くのテーブルへ注文を取りに行く。
忙しそうな友人の背中を見送って、リディアもきびすを返した。
(ドリーはえらいよなー。私も、ちゃんと働かなきゃな)
前世の価値観を引きずっているせいか、日夜噂話ばかりして汗を流さない貴族的な暮らしには抵抗がある。働かざる者食うべからず、である。
リディアは、魔術以外のことに関しては自他共に認める面倒くさがりだが、一生懸命働いている人々の横で、寝そべって優雅な生活を出来るほど厚顔無恥ではないつもりだ。
とりあえずは自分の仕事の報告のため、奥のカウンターへ急いだ。