56. 毒か罠か
泣き止んで再び顔を上げたとき、弟はまだ心配顔でこちらを見ていた。怪我をしたのはフレイの方なのに、これではまるっきり反対だ。思わず少し笑みがこぼれて、その拍子に目元に残っていた涙がぽろりと落ちた。その涙ごと、迷いを吹っ切って口を開く。
「あのね、フレイ。私――決めたよ。もう一回、王妃に会ってくる」
「は?……ちょっと待て。いきなり、どういう意味だ?」
「わけわかんないまま襲われるのなんて、性に合わない。敵はわかりきってるんだから、乗り込もうと思って」
「な……。お前、何考えてるんだ。どうやったらそんな結論にたどり着くんだよ」
「このままじゃ、いつまた屋敷を襲われるかわからない。それぐらいなら、こっちから打って出たほうが絶対にましじゃない?」
毅然と、でも、できるだけいたずらっぽく。フレイの目から見てもいつもの自分らしく見えるよう、リディアは微笑んでみせた。首をかすかに傾けて同意を求めるのも忘れない。
「そんなの、王族が私怨で少しくらいちょっかいかけてきただけで、この屋敷がどうにかなるわけないだろ。普段ならクライブやアーシュがいるし、影たちも控えてる。俺だって、こんな魔物の襲撃ぐらいなんてことない」
「……でも実際、フレイは襲われて怪我したじゃない。それに、次に来る敵が今までのものと同じ強さだなんて限らない。もっと強いのが来れば、対抗しきれないかもしれない」
「だからって、なんでお前が……!」
「ごめんね。フレイには、すごく悪いと思ってる」
言いつのる弟の言葉を遮って、リディアは声を落とした。いくら反対されても、もう自分の気持ちを変えるつもりはなかった。
「リディアお前、ほんと……」
言葉を切り、フレイはぐっとうつむいた。けれどすぐにまた顔を上げ、まっすぐにこちらを見る。
「これ以上言ったってどうせお前は聞かないよな。それなら――俺も行く。一人でなんて行かせたら、何しでかすかわからないし」
「えっ?それは――」
「別に、いいよな?俺だって狙われてるんだ、立場はお前と同じだ」
「でも」
目を白黒させて焦るリディアに、弟はやれやれと首を振ってみせた。
「大体、一人で乗り込んでどうするつもりだよ。向こうが何かしてきたら対抗できないだろ」
「そ、それはその……『重力落下』とか『転移』で、なんとかすれば」
「空間魔術、まだ完全に制御できてるわけじゃないくせに?」
「う……まあ、それはそうなんだけど……」
「勢いだけで突っ走ってどうする気だ、馬鹿。――とにかく、俺も行くから」
そう断言されてしまえば、返す言葉がない。危険なところへ弟を連れて行く困惑が半分と、心配してくれることへの嬉しさが半分。リディアは複雑な気持ちで目を伏せ、ふうと息を吐いた。
(言うべきじゃ、なかったかも)
本当は、誰にも言わず行ってしまおうと思っていた。何をされるのかはわからないが、呼ばれているのは自分なのだし、自分が行けば王妃は納得するのだろう。
だが、フレイに隠し事をすればすぐにばれてしまう。だからこそ、弟にだけは言ってから行こうと思ったのだが――どうやら、逆効果だったらしい。
「フレイって、ときどきすごく頑固」
「お前にだけは言われたくない」
「……ひどい」
「どっちが」
唇をとがらせて言い合いをしていると、階下から扉の開く音が聞こえた。兄たちが戻ったようだ。はっと気付いて、リディアは辺りを見回した。考えてみれば、部屋の中には魔物の死骸が転がっているし、床は血まみれだし、さんざんなありさまだ。まずは兄たちにこの惨状について説明しなくてはいけないだろう。
「すぐ戻るから、ここで休んでて」
不承不承うなずいた弟の様子を確認し、そのまま魔獣を連れて部屋を後にした。
◇◇
リディアの背を見送って、荒れ果てた室内には黒魔術師が一人だけ残った。彼は壁に背をもたれかけて座り込んだまま、手の中の魔術灯をもてあそぶ。その動きに合わせて明かりは明滅し、やがて完全に消えた。再び闇を取り戻した部屋の中に、青い月の光が降り注ぐ。静かで、暗くて、血の匂いに満ちた夜だった。
階下からは、かすかにくぐもった人の話し声が聞こえる。今頃、リディアが今夜のことを説明しているのだろう。何とはなしに耳を傾けたまま、フレイは嘆息した。目を閉じれば、声を殺して涙を落としていた姉の姿がまぶたの裏に蘇った。悔し涙だ、と彼女は言っていたけれど。
「……あの馬鹿、震えてたくせに」
リディアはいつだって強がりで嘘つきなのだ。本当は不安で仕方ないくせに、平気なふりをして微笑って、一人でなんとかしようとする。まるで心のどこかに線を張って、それ以上は関わらせないとでも言うように。
「放っておけるわけないだろ」
くしゃりと顔を歪め、フレイは天を仰いだ。窓の外、晩春の月だけがそれを照らしていた。
ーー
リディアたちが再び第二王妃と顔を合わせたのは、その三日後。王都の郊外にある彼女の離宮でのことだった。
「あら、来ていただけてとても嬉しいわ」
アビゲイルににこやかに席を勧められ、リディアとフレイはテーブルについた。茶会の準備がなされたそこには、香ばしい匂いのする焼き菓子が並べられている。
「てっきり、断られるものかと思っていたのよ。準備が無駄にならなくて良かったわ」
給事を終えた侍女たちに目配せをして、彼女は人払いをする。広い室内には、王妃とリディアたち三人だけが残った。場の緊張感を裏切るように、午後の日射しは明るく窓辺から寄せる風は心地よい。
固い表情のまま、リディアは重い口を開いた。
「ご用件を、伺います」
「ふふ、挨拶もなしとはずいぶんねえ。――こちらは、あなたの弟のフレイライム・ファビウスでしょう?先日は屋敷が魔物に襲われたそうだけれど、怪我がなかったようで何よりだわ」
つい、とフレイの方へ流し目を送る王妃の顔に浮かんでいたのは、あの毒をはらんだ微笑み。ファビウス家では、先日の魔物の襲撃のことは公にしていない。これでは、自ら『あの襲撃は自分の仕業だった』と言っているようなものだ。
「やはり、あなたが……!」
「あら、なんのことかしら。そんなに怖い顔をするものではないわ」
「っ……」
怒りをこらえて、リディアは唇を噛んだ。こんな言葉に惑わされていては彼女とは対等に渡り合うことができない。頭ではそうわかっていた。それでも、テーブルの下で握りしめた拳が震えるのは止めることができない。そんなリディアの手に、隣に座る弟が触れた。冷たい手のひらが、励ますように重ねられる。
横を見れば、フレイは静かな目でひたと王妃を見据えていた。
「ご心配いただき感謝します。だが、御託は結構。今日はそんなことを話に来たわけではないので。――陛下は、姉の魔術に興味があるとか?」
「これはまた、直球な質問ね?ストレートな子は嫌いではないけれど、もう少し大人の余裕が欲しいところかしら」
不遜とも言えるフレイの言葉に、アビゲイルは髪の毛一本ほども動じないで扇を仰いだ。けれどすぐに、かすかに首を傾げて笑みを深める。
「でも――そのとおりよ。わたくし、あなたたちの共同詠唱のことを聞いて、どうしてもリデュイエーラの魔術を見てみたくなったの。それはそれはすばらしい空間魔術だったそうですものね」
「『導きの乙女』の話を出した、とも聞いていますが」
「我が王家の祖先と同じ素養を持つ少女ですもの、興味を持つのは当たり前でしょう?」
「屋敷に刺客を放って脅してまでも呼び出すほどの興味があった、と」
「どうかしら。でも、どうしてもこの目で実力のほどを見たかったのは確かね」
「――第一王子の陣営に取られないうちに?」
尋ねるフレイの声は低く、鋭い。リディアが何か言う前に、弟は握った手に力を込めた。
「こちらだって、何もわかっていないわけじゃない。あんたたちがやろうとしてることなんて、見え透いてる」
にらみつける黒の瞳の先にいるのは、ゆっくりと紅茶に手を伸ばした第二王妃。その唇の端には、先ほどまでとは明らかに違う、面白がるような笑みが浮かんでいる。彼女は優雅な仕草でカップを持ち上げてから、おもむろに口を開いた。




