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55. 闘志

 こみあげる悪寒が、背筋をざわざわとなで上げる。息を詰めて胸を押さえたまま、リディアはただ一言自分の足元に向かって言葉を落とした。


「キラ」


 ずるり、と影の中から這い出るようにして狼型の獣が姿を現した。その金の毛並みがはっきりと見えるか見えないかのうちに、魔獣の背に腕を回す。


「兄さま、ごめん。私、先に行く。――キラ、乗せて。フレイのところに連れて行って」


 言葉尻はかすれて、ほとんど声にならなかった。それでも、魔獣は忠実に命令に従った。目を見張るアーシュとトキワをその場に残したまま、主をその背に乗せて音もなく闇の中の庭園へ飛び降りる。身軽に駆け出し、瞬く間に茂みを越えて城壁を通り抜けていく。小枝でドレスの裾が破れ、むき出しの手足にかすり傷がついていくのにも気がつかないまま、リディアはしっかりとその首にすがりついていた。


(やっぱり、フレイが……)


 一体、何があった。自分が安穏と夜会を過ごしている間に、何も知らずに王子と踊っている間に。

 ――じわじわと浸食されるように胸が痛む。ただもう、何も考えられなかった。



◇◇


 明かりの落ちた室内を、淡い月の光が照らしている。その晩、遠目から見る限りは、ファビウスの屋敷は普段の穏やかさを保っているように思われたかもしれない。

 けれど、庭に面したテラス窓から屋敷に飛び込んだリディアが目にしたのは、まさしく惨状だった。室内に足を踏み入れた瞬間、独特の金気を帯びた匂いが鼻をつく。見慣れたはずの弟の部屋はその景色をがらりと変えていた。


 割れた窓から夜風が吹き込む室内。夜目に白く揺れるカーテンは、そのほとんどが引きちぎられている。寝台は横倒しのまま残骸と化し、壁はなにか爪痕のような形にえぐられている。――獣の爪だろうか、だとしたら規格外の大きさだ。かすかな月明かりを跳ね返しているのは、部屋中に散らばった窓硝子の破片。まるで室内で嵐が吹き荒れたような様相だった。


 床を進むキラの足元からはかすかな水音がする。つられて目を落として、リディアはひゅっと息をのんだ。床を染めていたのは、おびただしい量の血。


(まさか……)


 ふらりとさまよった視線は部屋の奥の一点を見つめて止まった。暗い室内には、半ば倒れながら壁にもたれている人影があった。瞬間、他の何も目に入らなくなる。リディアはつんのめるような勢いでキラの背を飛び降り、駆け出した。ぬるりとねばつく床に足をとられるのさえ、気にならない。


「フレイ!」


 間近に見る弟は、荒い息をしていた。苦しげな呼吸の合間から姉の姿を認めて、「なんで」と力なく薄目を開く。そこにいつもならあるはずの強いまなざしはない。あわてて手を伸ばして抱え起こそうとすれば、彼の体はぐっしょりと血濡れていた。


「っ……」


 苦痛に顔を歪めた弟と、赤黒く染まった自分の手を交互に見比べる。その瞬間、心の内に巣くっていた不安が姿を変えた。ぞわりとわき上がったその感情は、恐怖以外の何物でもなかった。いつかキラを救えなかったときと同じ絶望と恐れが胸の内を占めていく。

――いやだ。こんなところでフレイを失いたくない。


「……『治癒ヒール』、『治癒ヒール』っ!!」


 口からもれたのは、呪文と言うより悲鳴に近いものだった。なりふりかまわず、リディアは腕をかざした。焦りで術の構築がうまくいかない。それでも、ありったけの術力を注ぎ込めば、手の中ではじけるように銀白色の光が生まれ、傷ついたフレイの体の上に雫となって落ちていった。

 光がまぶしさを増すのと同時に、徐々にフレイの呼吸が穏やかになり、顔に赤みがさしていく。しばらくすると、体の横に垂れていた手がひくりと動き、リディアの腕をつかんだ。


「フレ、イ?」

「大丈夫だ、もういい」


 はっきりとした口調で言って、弟は自ら体を起こした。壁に背を預けた状態で座り直し、かがみこんだリディアに目線を合わせる。


「……ったく、お前、術力使い過ぎだ。そんな大げさな怪我じゃ、ない」

「だって、でも、まだ傷が。部屋中こんなにいっぱい血が出てっ」

「馬鹿、落ち着け。よく見てみろ。ほとんどは俺のじゃない」


 え、と瞬くと弟はかすかに苦笑したようだった。その手に促されて振り返れば、暗い室内の奥には何か大きな生き物の影が横たわっていた。先ほどは全く目に入らなかったが、普通なら見落とすはずもない黒々とした巨大な影だ。床の中央でぴくりとも動かずに沈黙している。


「あれの血だ」


 何、と目線で尋ねたリディアに答えるかわりに、フレイは小さく呪文をつぶやいて手のひらの中に魔術の明かりを灯した。橙色の光が室内をほのかに照らし出す。


「魔物……?」

「ああ、グリュプスだな」


 床に倒れていたのは、鷲の頭を持つ魔物だった。その背には発達した筋肉があり、巨大な翼へと続いている。四本の脚は獅子のものによく似ていた。先ほど見かけた壁の爪痕はこの魔物のものだろう。だが今はその翼も脚も無惨に折れ曲がり、鷲の頭部は半ば首からちぎれかかっていた。完全に絶命している。フレイの言うとおり、床の血溜まりはこの死骸を中心に広がっていた。


「一体何があったの?」

「こいつが突然窓から飛び込んで襲いかかってきたんだ。――多分、どっかの魔術師に使役されてる魔物だ。外部にそれらしい術者の気配もあったし、ご丁寧に部屋ごと封じ込めの結界が張られてたしな。外にいたトキワは術者の方の追跡に出たんだが……その分だと、捕まえきれなかったのか」


 壁に寄りかかりながら、弟は窓の向こうをちらりと眺める。割れた窓の向こうには、今は無人の庭が広がるばかりだ。


「一人で、戦ったんだ」

「ああ。別に大した奴じゃなかったしな。この怪我は……少し、油断しただけだ」


 リディアの視線に気付いたのか、フレイは腹部の傷跡を手で覆った。たった今術で治療したばかりの場所だ。おそらく、不意をつかれたときに魔物にやられたのだろう。


「……ごめん」

「は?なんでお前が謝るんだよ」

「私、嘘ついたね。フレイのこと、絶対守るって言ったのに」

「馬鹿。それは俺の台詞だって前も言ったろ。――気にするな。こうして無事だったんだから」


 全然無事なんかではないのに、弟は気丈にそう言ってみせる。


(一人なんかで戦わせないって、誓ってたはずなのに)

 

 こらえきれずうつむいた瞬間、リディアの目からは涙がこぼれ落ちていた。自分に泣く資格なんてないと思っても、胸の奥から苦く熱い思いがこみ上げるのを止められなかった。フレイがこうして生きていることへの安堵と、何もできなかった自分への後悔と、理不尽な暴力への怒りと。様々な気持ちがせめぎあって視界を歪めていく。


「おい、リディア……?」


 弟が困惑気味に腕を伸ばしてきても、涙は止まらなかった。必死で声を殺し嗚咽を呑み込んでいるのに、大粒の雫はひとつ、またひとつと頬を滑っていく。だが、こんなことでこれ以上フレイに心配をかけるわけにはいかない。


「ごめんね、気にしないで。……これ、悔し涙だから」


 リディアは、指の腹で自分の濡れた頬をぐいと拭う。そうしながら、言い得て妙だと思った。そうだ、これは悔し涙なのだ。

 顔を上げれば、小さな魔法灯に照らされている弟の顔が目に映った。心配げに寄せられた眉根、自分と同じ黒の瞳、少し生意気な薄い唇。小さな頃から見慣れてきた大切な大切な存在。――その彼が、今夜脅かされたのだ。警戒すべきは夜会に呼び出されたリディアの身辺ではなかった。警護が集中して屋敷への注意がおろそかになる、その隙を狙っていた者がいたのだ。今夜、始めから標的に定められていたのはリディアの片割れ。屋敷で一人で過ごすことになっていた弟。

 

 許せない、と思った。大切な人たちを傷つけようとする人間がすぐ近くにいるのだ。何の正当な理由もなく、手を伸ばしてリディアの世界をめちゃくちゃにしようとする者が。

 犯人を推論するのはそう難しいことではない。今日の夜会のことを知っていて、なおかつフレイを狙う理由がある者。そんな人間の心当たりなど、ほんの一握りだ。第二王子を擁護する過激派の仕業とも考えられないことはないが――リディアは直感的に理解していた。


(あのとき、第二王妃はホールにいなかった……)


 思い出すのは、あの蛇のような視線。リディアが胸騒ぎを覚える少し前、王子とともにバルコニーから戻った時、夜会の場に王妃の姿はなかった。本来なら絶対にいなければいけない主賓が、どこかに消えていたのだ。――それは、どこかで誰かに『指示』を出していたからではないのか。そのすぐ後にフレイは魔物と交戦しているのだ。偶然にしてはタイミングが一致しすぎている。

 おそらく、これは報復だったのだ。詩人にまで好戦的と歌われる彼女が、最愛の息子を負かした人間をそのままにしておくはずがない。

『逃げられるものではないこと、よく承知しておくように』

 王妃の最後の言葉が耳に蘇る。ねっとりとした微笑みの上に乗せられた、脅迫めいた言葉。そして、不意を狙った屋敷への襲撃。


(そっちがその気なら、乗ってやろうじゃない)


 ゆるく瞬いて涙を押し流し、リディアは決意する。心の内に残っていたのは、まぎれもなく闘志だった。

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