53. 夜の中のバルコニー
「なーんか……怖い人だったね」
「ああ、兄上の言うとおり一筋縄では行かない相手のようだね」
王妃が去ってほどなくして、二人は外のバルコニーに出ていた。暗い闇の中に飛び出したその空間は、人々がひしめきあうホールの隣だとは思えないほど落ち着いている。室内から漏れ出る音楽と喧噪が静かに耳に届き、時折通り抜けるやわらかい風が火照った頬を覚ますのにちょうどいい。リディアは手すりに掴まったまま、何を見るでもなくぼんやりと庭の方へ目を向けていた。精巧に作り上げられたはずの王宮の庭園も、今は夜の中に沈んでいる。
「だけど、もっと怒ってるかと思ってたから、こんなにあっさりしてたのは意外かも」
「……俺には、王妃は十分怒ってるように見えたけどね。その上で、あの交換条件だ」
何を考えているのやら、と続けるアーシュの声は苦い。王妃が、リディアを招いて空間魔術を使わせようとしたことが引っかかっているらしい。それだけで戦闘演習のことを水に流すというのはいかにも不自然だ、と。
「とにかく、今は少しでも時間を稼いだ方がいい。何を企んでいるのか探らないと」
「まあ、確かに。フレイの禁術ならまだしも、私の空間魔術見たいなんてちょっと変だもんね」
「まったく、リディは……。わかってるなら、簡単にうなずいたりしないこと」
兄の苦笑する気配に気付いて、リディアは顔を上げた。ダンスホールの窓から漏れた暖色の光が、アーシュの顔を半分だけ照らしている。どうやら、さきほど王妃の提案を受け入れようとしていたことに気付かれていたらしい。
「ばれてたんだ?」
「リディは、結構雰囲気に呑まれやすいところがあるからね。どうせ、考えるのが面倒になったんだろう?自分が招かれるだけで面倒ごとが治まるならそれでいいや、とか」
「……なんでそこまでわかるかなー」
「何年そばでお前のことを見てきたと思ってる?」
アーシュは笑みを深めてリディアの頬に指先を伸ばす。触れるか触れないか、ぎりぎりの感触がくすぐったい。
「だけど、だめだよ。簡単に王妃の誘いになんて乗るべきじゃない。多分、事態は……お前が考えているよりずっと複雑だ」
「兄さま、なにか知ってるの?」
思わず尋ねると、兄は「どうかな」と微笑った。――嘘をついているときのあの顔だ。知っていたとしても、今は言う気がないのだろう。リディアにも、この場で問いつめるほどの気力はなかった。
あきらめて、ちらりとホールの方に目をやれば、窓の向こうに明かりの下で踊る人々が見えた。夜会はまだまだ続いている。主催者の嗜好を反映してか、今日のパーティーは非常に豪勢だった。招待客の数はそこまで多くないが、質の高さならば先日の国王誕生祭の夜会に勝るとも劣らない。
「あの王妃さまは、ほんとに時の人なんだね」
王家の公式行事として開いたものと同じ質の夜会を、私事のために開けるのだ。相当な権力があると見て間違いない。だからこそ貴族たちが、すでに王太子と決まっている第一王子と王位を争うなどということを考えつくのだろう。
「国王は、今は彼女ばかりを寵愛しているからね。本来なら、第一、第二、二人の正妃を平等に扱わなければいけないところを、第二王妃側の臣ばかり重用している。仕方のないことなのかもしれないけれど」
第二王妃アビゲイルが美貌と叡智をほめたたえられるのに比べ、第一王妃レオノーラは善良で家庭的……と言えば聞こえはいいが、要は取り立てて才も美もないと言われる人物だった。二人の王子たちの出来の違いも、国王の気持ちを揺らしているのかもしれない。
「きれいな人だったもんね」
先ほど初めて間近に見たアビゲイルを思い出してみる。確かに彼女は美しい女性だった。
「まあ、好みによるだろう。だけど」
「だけど?」
兄が真剣な口調で言葉を切ったので、リディアはつられてその顔を見上げた。
「俺はいくら美人でもああいうタイプは御免だな」
「あのねえ、アシュ兄さま……」
真面目な顔をして言い切った兄に、「そういうことを聞いてるんじゃないの」とリディアは軽くため息をついた。アーシュはいつもの調子で肩をすくめて「だって、取って喰われそうだろう?」と悪びれない。確かにリディアも、あの粘着質な視線のことを考えるだけでざわざわと鳥肌が立つくらいだけれども。
だからといって、一国の王妃をそういう対象としてみるかどうかというのは別問題だと思う。最近やっと重度の女好きが治ったように見えていたのに、これだからこの兄はいただけない。
まったくもう、と見上げるとアーシュはなぜかふっと笑ってみせた。
「冗談だよ」
長い腕が伸びて、リディアの背を抱き寄せる。
「俺にはお前だけだ、リディ」
声がささやくのと同時に、そっと髪に口づけられる。アーシュの腕の中で、リディアは自分の頬が熱くなるのがわかった。最近兄は本当にスキンシップ過剰だ。いつか流されてしまいそうな自分が怖い。
「外でそういうことするのやめてってば」
「じゃあ、続きは家に帰ってから?」
「そういう問題じゃなくて!」
じゃれるアーシュを軽くにらんで、身をよじる。お互いにこれはいつものふざけ合いだとわかっていて、本気で力を入れているわけではない。大体、アーシュが本気で力を入れれば、小柄なリディアが押し返せるはずはないのだから。わかっていて二人とも――リディアでさえもこのやり取りをどこか楽しんでいる。ファビウス家の日常風景と言ってもいい。
けれど、二人は失念していた。この状況が他の者の目にどう映るかということを。
ふいに、兄妹はぴたりと口を閉ざした。明るく光る出入り窓に人影がさしたのだ。それは、すぐさま遠慮のない足取りで近づいてきて、体を寄せた二人の前で止まった。
「邪魔をする。兄妹仲睦まじいのはけっこうだが、少し行き過ぎなのではないか?リデュイエーラ嬢が嫌がっているではないか」
義憤をたたえた口調でアーシュに向かってそう言い放ったのは、第二王子ギルトラッドだった。




