48. 謹慎
四半刻後。ファビウス家、執務室にて。
唐突に背後に現れた”影”の気配に、クライブは書類をめくる手を止めた。
「ベイゼル。どうしました?」
「報告に上がりやした」
暗がりから答える声は、ファビウス家古株の密偵のもの。クライブはかすかに眉をよせ、振り返らずに続きを促した。
「聞きましょう」
「……フレイ様とリディア様が、魔術学院で第二王子と交戦しやした。王子の監視についていたトキワも戦闘に参加した模様です」
「戦闘演習……ですか?」
「はっ。授業ではなく、私的なもののようですが。王子の方から仕掛けてきたとか。――戦いは禁術の応酬となり、最終的に王子の術をお二人が押さえ込む形となって終わりやした」
「それで、今は?」
「フレイ様とリディア様は術力を使い切って倒れておしまいです。負傷していたトキワだけは、こちらで回収いたしやした。ギルトラッド王子は、お二人の術で凍結したままです」
「……騒ぎはどの程度広がっていますか?」
「目撃者が多かったため、すぐに学院中にうわさが広まったようです。王宮の人間の耳に入るのも、時間の問題かと」
「そうですか。大体わかりました。すぐに、リディアたちを迎えにいかせましょう。それから――”影”は引き続き、王子の監視をお願いします。王宮の動向も、すぐに知らせるように」
「はっ」
応じて、密偵が静かに気配を絶つ。執務室にはクライブ一人が残された。彼は一つため息をこぼすと、長い指を組んで憂鬱そうに目を伏せる。
「面倒なことに、ならなければいいのだけど」
そのつぶやきを聞く者はいなかった。
◇◇
――また、夢を見たような気がした。お決まりの前世の夢。駅のホームから転落して、電車に轢かれそうになり、懺悔するうちに場面が暗転する。思いきり魔術を使った後は、特にこの夢を見ることが多かった。浅くまどろむたびにうなされながら、どのくらい眠っていただろう。
次にまぶたを開けたとき、リディアの目に映ったのは見慣れた自室の天井だった。窓辺から射し込む光がまぶしい。
「わたし……」
かすれた声でつぶやいた途端、意識を失う直前の出来事が頭に浮かんだ。あわてて体を起こそうと寝台に手をつく。けれど上半身を持ち上げた途端に激しい倦怠感とめまいに襲われ、そのまま後ろ向きに枕へ逆戻りしてしまった。
「ダメだよ、無理しないで。まだ本調子じゃないんだから」
するり、と優しい感触が顔をなでる。視線を上げると、こちらをのぞきこむ金髪の青年と目が合った。
「キラ……」
どうやら、リディアの魔獣が人型をとって看病してくれていたようだった。
彼は「目が覚めてよかった」と安心したように微笑んで、主の額の汗を拭う。
「リディアは三日眠ってたんだよ。だいぶ術力を消耗してたんだろうね」
「三日も?……ねえ、それじゃあ、フレイは、トキワはどうなったの!?」
「ん、フレイは自室で休んでるんじゃないかな。リディアと同じで、術力の使い過ぎ。トキワは治癒の術かけてもらって、もうとっくに動き回ってるよ」
「そ、う……」
聞いた途端、こわばっていた体から力が抜けた。とりあえず、弟たちの無事を確認してほっと胸をなで下ろす。戦闘演習のときは、ギルトラッド王子が魔力を暴走させた辺りから無我夢中で、周りに気を配る余裕がなかったのだ。
「ゆっくり休む気になった?」
心持ち首を傾けながら、キラが苦笑する。額に触れる熱が心地よくて、リディアはあいまいにうなずいた。
安心したせいか、再びまぶたが重くなる。あの後王子はどうなったのか、騒ぎは大きくならなかったのか……。聞きたいことはたくさんあったはずなのに、気がついたときにはまた眠りに落ちていた。
――今度は、あの夢は見なかった。
結局、寝台から起き上がれるようになったのはそれから丸一日経ってからのこと。体を動かせるようになってすぐ、リディアはフレイの部屋を訪れることにした。
廊下に出ると遠回りなので、外のテラスを横切って近道をする。眼下に見える庭は春めいていて、真上から降り注ぐ陽光が暖かい。
外からこつこつと部屋の窓を叩くと、机に向かって書物を読んでいた弟は不審そうに顔を上げた。
「フレイ、こっち」
窓の外から手を振ってみたら、彼は目を見開いた後に盛大なため息をついた。幼い頃からリディアは横着してよくこの抜け道を使っていたから、この反応ももう慣れたものだ。
鍵を開けてもらって掃出し窓を通り抜け、勝手知ったる弟の部屋へ足を踏み入れる。
「……来ちゃった」
「ったく、どうしてお前は普通に廊下から来れないんだ」
フレイはいつも通りの呆れた表情だったが、心なしか顔色が悪いように見えた。
「具合、大丈夫?」
「ああ。これでもだいぶマシになったんだ。お前の方こそ、ずっと眠ってたんだろ?」
「ん、まあね。やっとちゃんと起き上がれるようになったよ。……あの演習のときは、お互いだいぶ無理したもんね」
「……そうだな。けど、その無理をしなければ、きっと今ここにいられなかった」
すっと真剣な顔になった弟に、リディアもうなずく。
あのとき、王子の炎の禁術に対抗するために作り上げた氷の壁は、リディアの空間魔術『魔障壁』にフレイの氷の禁術を組み合わせたもの。水、闇、空間の三属性が組み合わさった、通常より遥かに高度な術式の魔術だ。
その上、二人が行ったのは、”共同詠唱”。複数の人間が共同で一つの魔術を詠唱するのは、本来ならとても困難なこととされている。使う魔力の量も、術の構築の順番も、詠唱のタイミングも、すべて正確にそろえなくてはいけない。
とっさの判断とはいえ、よくあんなことができたものだと思う。ぎりぎりの状況で、あれは一か八かの賭けだった。限界以上に使い切った術力、見えない針に糸を通すような繊細な詠唱……一歩間違えば、どうなっていたことか。――それほどの危険を冒さなければ、ギルトラッドの炎に立ち向かうことはできなかったのだ。
「ねえ、あの後、一体どうなったか知ってる?私たち、術使った後に思いっきり昏睡しちゃったよね?」
「ああ。俺もよく知らないが、俺たちが気を失ってしばらくしてから、室内の氷は消えたらしい」
「そっか、じゃあ……」
さらに問いを重ねようとしたとき、ふいに部屋の扉をノックする音が響いた。フレイが誰何すると、アーシュが扉を開けて姿を現す。突然の兄の入室に、リディアは目を瞬かせた。
「アシュ兄さま……」
「おや。リディ、部屋にいないと思ったらこんなところにいたんだね」
近づいた兄は、甘い笑みを浮かべて頬に触れてくる。いつもながら過剰なスキンシップだが、心配されていたのはわかったので、特に振り払ったりはしなかった。のぞき込んでくる黒い瞳と目が合うと、少し気恥ずかしい。
「……こんなことろ、っていうのは俺の部屋なんだが」
見つめ合ったまま固まった二人の間に、フレイの咳払いが割り込んだ。何の用だ、と言外に込められたその声に、やっとアーシュがリディアから離れる。一歩下がった彼は、妹と弟を交互に見てから口を開いた。
「二人そろっているならちょうどいい。お前たちに、話があったんだよ」
「話?」
「例の戦闘演習の件だ。リディはどこまで話を聞いている?」
「えっと、まだほとんど。兄さまは、あの後どうなったか知っているの?」
逆に尋ねると、兄は軽くうなずいた。トキワや観覧客から聞いたらしい。
「さんざんな騒ぎだったようだね。リディたちが倒れて氷の壁が消えた後も、ギルトラッド王子だけは氷漬けのままだったそうだよ。なかなか溶けなくて、結局、学院の教師たち総動員で術の解除に取りかかったんだとか」
兄の言葉に、リディアとフレイは顔を見合わせて苦笑する。
術をかけた当事者である二人に意識があれば即座に王子の氷を溶かすこともできただろうが、あいにくそういうわけにもいかず、周りは四苦八苦したようだ。術者にはそれぞれ癖があるから、かけた当人でないと解除をするのは面倒なのだ。
「その後も、やっと氷が溶けたのに王子は茫然自失状態だったというし、戦闘に関わったほとんどの人間は気絶したままだし、学院は大変だったみたいだよ。第二王子を預かっている機関として、王家に対する責任もあるしね」
「今は落ち着いたの?」
「幸い、観客がたくさんいたおかげで、王子のほうから戦闘演習の申し込みがあったっていうのは立証されたようだよ。――これは、ファビウス家としてもありがたかった。リディとフレイが望んで王子を傷つけた、なんて思われたらたまったものじゃないからね」
アーシュはふうと息を吐いた。そういえば、とリディアは思い出す。王家の継承権争いをめぐって貴族同士で勢力争いが絶えないのだと兄たちは言っていた。
「それで、兄さまの話っていうのは?」
「ああ、今のことに関連しているのだけど……。リディ、フレイ。お前たち、しばらく外出は控えてほしい。世の中には逆恨みなんていう愚かなことをする人間もいるから、念のため、ね」
わかった、とうなずくとアーシュは満足げに微笑んだ。いずれにせよ、寝込んでいたリディアたちは、体の調子を取り戻さない限り外出はできない。兄の提案には理があるようだし、逆らう理由はなかった。




